人生につける薬

第15 回
ストーリーの内容と、発話する理由とは、べつの層にある。

小説にとってストーリーはどのくらい大事なの?

報告価値とはなにか

   ここまでの数回で述べてきたように、ストーリーのなかで「できごと=事件」とは、「報告する価値があるもの」(非日常)という側面を、大なり小なり持っています。

 大きなできごとのほうが、「報告価値」(tellability, narratability)を持つとされる傾向があります。

 大きなできごとというのは、たとえば、そのストーリーを語る社会のなかであまり蓋然性が高くないレアなできごと(スポーツの新記録、異常気象、戦争、大事故など)だったり、その社会の法や道徳の基準からはずれるスキャンダラスなできごと(犯罪、不倫など)だったりします。

 またそれ以外でも、
〈フランスでは、人気の出る小説は宗教・性・貴族社会・謎という内容物を含むものだという公式があるという〔……〕。この公式に従うなら、報告価値がもっとも高い小説とは、
「『ああ神さま』と侯爵夫人は言った。『私は妊娠してしまいました。そしてだれの子かわかりません』
というものとなる〉
(マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』拙訳。引用者の責任で改行を追加)

 この「大きなできごと」の「大きさ」は、必ずしも客観的な「大きさ」ではありません。人によっては、中東の戦争よりも、身近なこと(初孫が初めて立って歩いたことや、近所の人の私生活の情報)のほうが、大きな報告価値を持つというケースもあります。

 また、ストーリーを物語る理由は、必ずしもそれが大きなできごとを報告しているからというわけでもないのです。

 そもそも、実話であるということには、報告価値があります。

 人はしばしば、おもしろい作り話や小説や映画よりも、自分に関係のある平凡な実話やニュースのほうに、興味をひかれる傾向があります。

 さらに、フィクションである小説を読むときも、舞台となった歴史的な時期のことや、舞台となった地域のこと、あるいは背景となった特殊な社会の慣習や、モデルになった人物のじっさいの人生に興味があって読むということもあるのです。

 以上はストーリーの内容に関することですが、それ以外に、ストーリーと聴き手との関係によって、ストーリーに報告価値が発生することもあります。

 たとえ些細なことであっても、聴き手がそれを強く聞きたがっているばあい、ストーリーは報告価値を持ち、そのストーリーを語ることが正当化されます。

 好きな人ができたら、その人がどのような人生を送ってきたかを──たとえ平凡な人生であったとしても──知りたいものですし、子どものころの写真を見てみたいと思うこともあるでしょう。

 最後に、聴き手の心身に特定の感情的な反応を引き起こすことを目的とするストーリーは、語る理由がクリアです。

 芸人が滑稽な話をして聴き手を笑わせたり、小説家がエロ小説で読者を性的に興奮させたり、稲川淳二さんが怪談話で聴衆を怖がらせたりするのは、特定の感情的リアクションを起こすことを娯楽コンテンツにした結果のことです。

 そういえば、一時期「泣ける本」を謳い文句にした本がベストセラーになりました。

 また、湊かなえさんの小説『告白』は、ある意味「厭な気分になるためのサプリメント」のような読みかたをされていたと思います。

 

プロットに逆らう「些細な」記述

 「大きな」できごとを含むストーリーが報告価値を持つ、という話をしましたが、言葉で状況の全体を余すところなく報告することは不可能ですから、ストーリーの指示対象となる事態のうち、どの要素を明示し、どの要素については無視するか、という選択を、ストーリーの語り手はつねに要求されています。

 時間の流れのなかで、なにを「地」(背景)とし、なにを「図」(意識の志向対象)とするか、作者・話者(ストーリーの構成者)はさまざまな選択肢のなかから決定しています。

 発話のなかにおのずと残されることになるのは、ストーリーの構成者にとって重要な要素です。

 また、もしストーリーを物語(ナラティヴ)として発話するならば、「聴き手が知りたがるだろう」と話者が考える要素です。

 けれど、そのいっぽうで、小説や映画などでは、本筋と関係なさそうな「些細な」できごとや状態が記述されることがあります。

 ロシア出身の言語学者ロマン・ヤコブソンは「芸術におけるリアリズムについて」(1921)という文章のなかで、こういう事態を「筋〔イントリーガ〕に逆らって」まで「隣接連合によって叙述の密度を高める」ものと呼び、これを「リアリズム」的な要素と考えました(谷垣恵子訳、桑野隆+大石雅彦編『フォルマリズム 詩的言語論』所収、国書刊行会《ロシア・アヴァンギャルド》第6巻)。

 イントリーガとは、ロシア語でプロットのこと。

 隣接連合というのは、ざっくり言うと、時間・空間的に近いところにあるものとの結びつきです。

 

19世紀ロシア小説の読みにくさ

 ヤコブソンが挙げている例はふたつあります。ひとつはトルストイの『アンナ・カレーニナ』のクライマックス、第7部の終わりでヒロインが鉄道自殺を試みるときに、
〈ちょうど目の前に来た先頭車両の中間点に倒れこもうとしたが、赤いバッグを手から外すのに手間取って、タイミングを逸してしまった。中間点が通り過ぎてしまったのだ。次の車両を待たなければならなかった〉(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫、第4巻)
というあたりです。アンナの自殺トライアル1回目は、空間的に近いところにあるバッグという、鉄道自殺とはなんの関係もない、たまたま手に持っていたもののせいで、うまくいきません。

 そして作者は、2回目のトライアルのときに、アンナがちゃんとハンドバッグを放り出したということを、律儀に明記するのです。そうすることで読者は、たんに「列車に飛びこんだ」と書かれた以上のリアル感、という言葉が悪ければ、「説得力」を、感じるのです。

 ヤコブソンがあげているもうひとつの例は、ゴーゴリやトルストイやドストエフスキーの主人公が、筋と関係のない余計な通行人と会話する、そしてそこからとくにこれといった発展がない、というケースです。

 たんに主人公が空間的に近いところにいる人と交わした会話だからというだけで、物語の本文のなかに報告されているこういう会話は、小説全体を要約するときにはカットされてしまうでしょう。

 ロシア文学は登場人物の名前がいろんな呼びかたをされるので覚えにくいと言われますが、少なくとも19世紀ロシア小説の読みにくさの原因は、こういう「本筋が見えてくるまでにページ数がかかる」「本筋かと思ってたら違ってた」といったところにもあるんだろうなあ。

 せっかちな人にとってこれは、たしかに多少の慣れが必要かもしれませんが、「そこがいいんじゃない!」(みうらじゅん)。

 物語の本文のなかのこういう、筋に直接絡んでこない要素がどういう効果を持つか、ということについては、ヤコブソンだけでなく、ドイツの文芸学者エーリヒ・フォン・アウエルバッハや、フランスの批評家ロラン・バルト、この連載でたびたびお世話になっている文学理論家ジェラール・ジュネットも、注目しています。

 

小説にとってストーリーは、必ずしもメイン要素ではない

 ストーリーというものは、最終的には「意味」をめざします。

 いっぽう、とくに小説などにおいては、意味に逆らう(ストーリーからはみ出す)ような記述が多く含まれています。

 話芸のテクニックを持っている語り手は、内容面での報告価値を持たない話でさえ、じゅうぶんにおもしろく語る(書く)ことができます。そういう芸人さんて、いますよね。

 文章それ自体がおもしろい書き手は、「内容面での報告価値」がどうとか言うようなことがまったく気にならないような「めちゃくちゃおもしろい小説」を書いてしまっている。

 口頭の発話でも小説でも、ストーリーの内容ではなく、パフォーマンス(話芸)それ自体のセンスや技術を楽しむことができるのです。

 この連載は、ストーリーにかんする連載ですが、小説というものはべつに、必ずストーリーを伝えるための器でなければならないわけではありません。

 小説にとってストーリーはむしろ、文章それ自体のおもしろさを発揮するための口実のようなものであっても、ぜんぜんかまわない。

 意味に逆らう(ストーリーからはみ出す)ような記述が少ない物語は、純粋にプロットだけを提示します(*)。無駄がなくていいとも言えますが、言葉(散文)というものを、プロットを提示するだけのために用いるというのは、それはそれでもったいない話にも思われます。

(*いやいや、ほんとはね、純粋にプロットだけを提示するというのはあくまで理論上の話なんですよ。
 そういう小説のばあい、それはそれで往々にして、
「あえての素っ気なさ」「描写がそぎ落とされた感じ」
というものが伝わってしまうことがある。だいたいハードボイルドな感じがします。
 純粋にプロットだけを提示するっていうのはなかなか実現しにくいんじゃないかなあ……)

 

発話にとって「内容」は、必ずしもメイン要素ではない

 もしも、話芸のない語り手・書き手に、報告価値を持たない話を聞かされ・読まされたなら、聴き手・読者は退屈して、
「この人はなぜこんな話をするのだろう?」
という疑問を持ちます。

 そしてイライラして、
「要するにどういうこと?」
「だからなに?」
「で、オチは?」
と聞いてしまう。そのストーリーの内容の「意味」はわかっても、それを話す「意味」のほうがわからないからです。

 でも、先ほど名前を挙げたヤコブソンは、「言語学と詩学」(1960)のなかで、
・儀礼化した、ただの挨拶
・会話を引き延ばすためだけの、だらだらしたやり取り
といった現象が、言語伝達の機能のひとつである〈交話機能〉を担っている、と述べました。

 〈交話機能〉とは、話の内容とかではなくて、言語伝達の当事者である話者と聞き手(これはしばしば交替する)の〈接触〉(コンタクト)それ自体をフィーチャーする機能のことです。

 人間にとって、ストーリーの内容と、自分が発話する理由とは、いわばべつの層(レイヤー)に存在するというわけです。

 ヤコブソンによればこれは、小さな子どもが最初に獲得する言語機能で、子どもはなにか伝える情報があって送受信をする以前に、まずとりあえず「伝達」というのをやってみるのだそうです。だとするとこの交話機能は、人間の言語活動のもっともベーシックな部分を支えている、ということなのでしょう。

 人はこのように、伝えるべき内容(ストーリーその他のメッセージ)があろうがあるまいが、言葉を発したい生きもののようです。

 ヤコブソンはこの交話機能を、人間が鳥と共有するただひとつのもの、と言っていますが、英国の進化生物学者ロビン・ダンバーは、人間の言語のルーツは哺乳動物の毛繕い(グルーミング)にあるのではないか、という見かたを出しています。

 人類の祖先も哺乳類として、グルーミングという肉体的接触によって群れの絆を維持していた。それが、もっと大きな集団を維持する必要が生じると、全員と肉体的にコンタクトすることが難しくなり、グルーミングの不足を補うために、声による聴覚的コンタクトを用いたのが、言語の始まりではないか、というのです。

 もちろんこの説を実証的に検証できないわけですが、しかしこういう説を目にすると、言語というものはグルーミングにも、また個体間の上下関係を決めるためのマウンティングにも使われるなあと実感します。

 人間はストーリーを頭のなかで作りあげざるを得ない動物であるが、同時に、ストーリーなしに接触しあって生きる動物でもある。

 言葉というのは、「ストーリー」と「接触」とを両方背負ってしまった、因果な存在なんですかねえ。

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