短短小説

ちくま文庫のロング&ベストセラー『うれしい悲鳴をあげてくれ』の著者であり、作詞家・音楽プロデューサーのいしわたり淳治による書き下ろし超短編小説の連載企画!!

 

 コンビニで買い物を済ませ、路上駐車していた車に戻ると、見知らぬ男が私の車を舐め回すように見ていた。年の頃は50歳くらいだろうか。グリースで撫で付けた白髪の混じった横分けに、レイバンのサングラスをかけ、太めのブルージーンズにチェックのネルシャツという粋なアメリカン・カジュアルだ。
「これ、あなたの車?」
「あ、はい、すみません! 邪魔ですよね。すぐ退けますから!」
「いや。むしろ、もう少し見せてもらっても良い?」男は言った。「格好良いよねえ、初期型のデボネアは」
 こういうことは時々ある。急いでいる時は少々面倒だが、車好きにこだわりの愛車を褒められるのは基本的に嫌な気持ちはしない。この後、特に予定がある訳でもない。私は少し男に付き合うことにした。
「最近、一目惚れして手に入れたんですけどね。これ、1985年式のフル・ノーマルなんですよ」
「へえ。大事に乗ってるんだ」
「いやあ、どうでしょう」私はいかにも古めかしい角張ったボディを撫でた。「大事にしているんですけどね、まだ愛情が足りないのか、しょっちゅうへそを曲げて故障しますよ。ははは」
 男がやさしい笑顔で頷いている。
「そこがまた旧車の可愛いところじゃない。それにしても、若いのに、こんな車なんて」
「好きなんですよ、昔の日本車が。海外の車とは一味違うヴィンテージ感がたまらないというか」
 三菱自動車のデボネアは1964年の発売以来、22年間モデルチェンジがほとんど行われなかった名車で、〝走るシーラカンス〟とも呼ばれている。
「中も見せてもらっていい?」
 言いながら男は、もうドアの取っ手に手を掛けている。
「ええ、まあ……。どうぞ」この男はデリカシーが少し足りないタイプなのかもしれない。だが、悪い人ではなさそうだ。「内装もすべてオリジナルのままですから、傷だらけですけど」
「悪いね、ありがとう」
 男は運転席に座るなり、あちこち触り始めた。運転席の日よけを上げ下げしたかと思うと、助手席のグローブボックスを開けては閉め、シート位置を自分の座りやすいポジションまで動かして満足げにハンドルを握った。
「エンジンかけてみたいなあ。鍵貸してよ」
 男が窓から掌を差し出した。
「い、いや、それはさすがに……」
 反射的に鍵をポケットにしまった。男は「だよね。ごめん、ごめん」と、笑って車を降りた。
「いやあ、ありがとう。君の、この車に対する愛情が、びしびし伝わってきたよ。うれしいなあ。よかった、よかった。絶対に手放さないでね」
 上機嫌になった男が力強くハグをして来た。
「あ……はい。ありがとうございます」路上で見知らぬおじさんと抱き合いながら、よく分からないが、とりあえず礼を言った。
「ずっと、ずっと、乗り続けてよ。頼むよ、お願いだから!」
「はい……」
 男はなぜそこまで懇願するのだろうか。少し違和感を覚えた。
「君みたいな人に乗ってもらえてよかった。安心したよ」
 男は車の前方で屈んでバンパーの凹みを撫でながら言った。
「安心……? と、言いますと?」
 男が顔をくしゃっとさせて笑った。
「実はね。僕、この車に乗っていたんだよ」
「えっ? この車に?」
「そう。驚いた?」
「え、え、えっ? デボネアという車種に乗っていたんじゃくて、まさに、この車に乗っていたっていうことですか?」
「そう、そう。僕がこいつの、前のオーナー。ほら」
 男が助手席を指さした。
「助手席のシートに焦げがあるでしょ。ごめんね。これ、僕がつけちゃったんだよ」
「そ、そうでしたか……。いえ、これくらい気にしてませんよ。内装を張り替える手もあるとは思いますけど、こういうのもヴィンテージの味というか、出来るだけノーマルで乗るっていうのが私のこだわりでして」
「うれしいことを言ってくれるねえ。君は本当の車好きなんだね」
「そんな……」予想外の展開で動揺していた。前のオーナーに向かって得意げに旧車の魅力を語ってしまった。変な緊張感と照れが込み上がって来て、苦笑した。「でも。ということは、あなたもずいぶん長い間、大切に乗っていらっしゃったということですよね?」
「まあ、そうだね。でも僕は、君ほどは車にこだわりはないんだ。兄が自動車の整備工をやっててね。こまめにメンテナンスをしてくれたもんだから、大した故障もしなくて、買い換える機会を逃しちゃってだらだら乗り続けてしまったって感じ、かな」
 話すほどに、この車の歴史と素性がどんどん明らかになっていく。付き合ったばかりの恋人の家に遊びに行って、卒業アルバムをめくっていくような感覚に似ている。
「前のオーナーに会えて、何だかほっとしました」
「ほっとした?」
「ええ……。何て言うんでしょう。あの、その。あまり考えたくないことですが、中古車にはつきまとう不安と言いますか、もしこれが事故車だったりしたら、何かこう、嫌な気分がするじゃないですか」
「ははは。その心配は要らないよ。僕はずっと無事故無違反のゴールド免許だもの」
「わあ、それは素晴らしい!」
「でもさあ、安かったんじゃない? この車」
 男の表情が急に曇った。
「ええ……まあ。旧車好きには人気の車のはずなんですけどね、結構……」
 確かに相場よりも極端に安かった。見つけた瞬間、掘り出し物だと思ったが、あまりにも安かったせいもあって、パーツはフル・ノーマルとうたってはいるものの、事故車と事故車の使えるパーツを寄せ集めて作られた、ある意味で究極に呪われた事故車なのではないかと、心の隅で疑っていた。
 ──ビーッ! ビーッ!
 後方からけたたましいクラクションが聞こえた。
 話に夢中で気がつかなかったが、路上駐車のせいで後続の車が渋滞し始めていた。
「わっ、すみません、それじゃあ。僕、もう行きますね。これからも大切に乗らせてもらいます。どこかで見かけたらまた声掛けて下さい!」
 慌てて乗り込んで、開けた窓から軽く頭を下げた。
「ねえ、ねえ、ねえ!」男が運転席の窓枠に手を掛けて呼び止めた。「ちょっと乗せてもらえない?」
 ──ビーッ! ビーッ!
 クラクションが鳴っている。もはや考えている余裕はない。
「んー、まあ、いいですけど……。じゃあ急いで乗ってください」
 男がにやっと笑うと、後続車にへこへこと頭を下げながら助手席に回り込んだ。
「とりあえず、車出しちゃいますね」
「うん。いいなあ。やっぱり大好きだなあ。このエンジン音と振動」
 男は助手席で恍惚の表情を浮かべた。
「あの……。どこで降ろしたらいいでしょう?」
「降りる? ああ、まあ、そうだねえ……」
 男は急に遠い目になった。ぼそぼそと暗い声で歯切れの悪い返答を始めた。
「本当は僕ね、行かなきゃならないところがあるんだ」
「どちらですか?」
「とっても遠いところだよ。でも、何となく、行きたくなくってさ」
「あ、そうですか……」
 車内に妙な沈黙が訪れた。
 ──カリカリ。カリカリ。
 男が助手席のシートの焦げを爪で引っ掻いている。
「……で、私はどうしたらいいんですか? どこで降ろせば?」
「降りないよ。これも何かの縁というかさ、僕と君はもう運命共同体だから」
 男は相変わらず焦げを引っ掻いている。
 ──カリカリ。カリカリ。カリカリ。カリカリ。
「ちょ、ちょっと。降りないって、どういう意味ですか? 冗談はやめてください。困ります。これはもう、私の車です。もうその辺で停めますから、降りてください」
 男は何も言わない。というよりも、こちらの話を聞いていないように見えた。
「ねえ。この焦げ、何で出来たと思う?」
「焦げ? さあ、タバコか何かですか……?」
 こっちの質問には答えないくせに、向こうからは質問をして来る。何なんだ、この男は……。
「ははは。タバコじゃないさ。僕ね、ここで練炭を燃やしたんだよ」
「えっ……?」
 全身に寒気が走った。慌てて助手席を見ると、そこには男の姿はない。その瞬間だった。
 ──キーッ!
 その瞬間、前を走っていた車からタイヤのブレーキ音が聞こえた。
 ──ドカン! ドカン! ドカン! ドカン!
 前方で玉突き事故が起きている。急ブレーキをかけると、車体は右へ左へ車体をよじりながら何とか停止した。
 ──止まった……。
 車の外へ出ると、私の車より前方で4台、後方で3台が衝突していた。しかし、奇跡的に私の車の前後には、髪の毛一本ほどの隙間が空いていて、車は無傷だった。
 ──そんな馬鹿な。
 何が起こったのか、しばらく事態が飲み込めなかった。

 あの日以来、不吉な出来事が続いた。目の前で衝突や炎上が起こるのはよくあることで、対向車線を走っていたトラックのタイヤが外れて向かって来たり、通過した直後にトンネルが崩落したり、停車中に突然目の前の道路が陥没したりもした。いつも間一髪のところで助かるのだが、車が呪われているせいでこんな目に遭うのではないか、いつか〝あの男〟に殺されるのではないかと不安になり、車を売り払ってしまった。しかし、今思えばそれが間違いだった。
 私は今、病院のベッドの上にいる。買い換えた別の車で事故を起こしてしまったのだ。私が運転中にスマホをいじって、よそ見をしたのが原因だった。身体中の骨が折れていて身動きが取れない。
 あの車を手放すべきではなかった。あの車が廃車になったら、男は居場所を失ってあの世に行くことになる。だから、たぶんあの男は車を守っていたのだ。それを私は勝手に不気味がって、〝最高の安全〟をみすみす手放してしまった。
 だが、こんなことを誰かに言ったら事故のせいで頭までおかしくなったと思われるに違いない。やれやれ。心のもやもやは積もる一方である。

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