日本思想史の名著を読む

第3回 和辻哲郎『倫理学』

忘れられた主著

 和辻哲郎(一八八九・明治二十二年~一九六〇・昭和三十五年)は、西洋哲学研究から出発して、日本文化史、さらに倫理学・日本倫理思想史に研究業績をのこし、現在に至るまで学問の世界に影響を及ぼしている大哲学者である。その著書『倫理学』(上巻一九三七年、中巻一九四二年、下巻一九四九年)は、教授を務めた京都帝国大学・東京帝国大学での倫理学原論の講義をもとにした本。倫理学というより、その独自の人間論を基盤にした哲学の体系を展開した書物と言ってよいだろう。その意味で主著と呼ぶのにふさわしい。
 ところが近年までは、これを書くための習作に位置する『人間の学としての倫理学』(一九三四)年に比べ、あまり注目されることのない書物であった。和辻についての研究論文も、『人間の学としての倫理学』に基づいて人間観と倫理学方法論に関する解説をすませ、その補足として『倫理学』のなかの個々の議論にふれるという体裁のものが多かった。その結果、導入として「人間存在の根本構造」を論じた上巻の前半くらいしか、言及されることがなかったのである。
 おそらくは『人間の学としての倫理学』が、岩波全書の一冊として入手しやすい形で、長らく版を重ねていたせいもあるだろう。ばらばらの個人ではなく、さまざまな「間柄」のなかに埋め込まれた存在として人間をとらえる人間観。そして、個人の意識ではなく、「間柄」における人のふるまいのなかに倫理のありかを求める方法。そうした点について、たしかに『人間の学としての倫理学』は『倫理学』の一種の入門書として便利である。だがそれに依存していると、『倫理学』において和辻がみずからの構想を練り直し、議論を精緻にしていることを読み落としてしまう。
 二〇〇七(平成十九)年に熊野純彦による注と解説をつけた形で、『倫理学』は全四冊で岩波文庫入りをはたした。これを基礎にした和辻研究はまだあまり見かけないが、不幸な状態はとりあえず脱したと言える。やはり岩波文庫から刊行された『日本倫理思想史』も含めて、一般の読者が和辻哲郎の思想にふれるための条件は、きわめて改善された。贅沢を言わせてもらえば、これに加えて、『人間の学としての倫理学』のさらに原型である、長大な論文「倫理学」(岩波講座『哲学』第二回所収、一九三一年)もぜひ、手軽に読める形で復刊していただきたいと思うのである。これは『和辻哲郎全集』にも入っていないのだが、『人間の学としての倫理学』よりも構成がわかりやすく、しかも詳しい注がついているので、和辻の思想形成の過程がよく見える。

「間柄」へのまなざし

 『倫理学』は、その上巻のみの英語訳がアメリカで出版されている。しかしその題名は“Watsuji Tetsuro's Rinrigaku:Ethics in Japan”。これもまた不幸な扱いである。和辻は日本社会に根ざした倫理を体系化したわけではなく、あくまでも西洋にも通じる普遍的な理論のつもりで叙述しているにもかかわらず、欧米の研究者からは「リンリガクという名の日本のethics」を記述した本と見なされてしまっている。
 だが、この例は浅薄な誤解にすぎないにせよ、和辻の倫理学と日本の伝統との関係は、もっと深い次元で重要な問題を含んでいる。そのことを明確に指摘したのは、和辻の門下で学んだ日本倫理思想史の研究者、相良亨であった。「日本における道徳理論」(一九六八年初出、『日本人の心』増補新装版、東京大学出版会に再録)で相良は、近代西洋の個人主義的な人間観だけでなく、日本の思想が伝統的に抱えている傾向を克服する営みを、『倫理学』に見出している。
 和辻は、「個人意識」の問題として倫理を論じることが、そもそも間違いだとする。人間は常に他者との何らかの関わりのなかで生きているのであり、一人でものを思うときも、その意識は他者との言葉や記憶の共有を前提にしている。したがって、倫理というものが働く場所は、人と人とのあいだ、具体的な「実践的行為的連関」なのである。
 和辻自身はこれを「近世の個人主義的人間観」に対置しているが、相良によればそれは同時に、主観的な「まこと・まごころ」の発揮を礼賛する日本人の傾向をのりこえるものとして、重要な意味をもつ。純粋な「まごころ」に根ざした行動ならば許されるという感覚が、上位者によるハラスメントを容認し、はては違法行為やテロリズムへの同情に人を導いてしまうことは、たしかにこの二十一世紀の日本にも見られる。それが本当に日本だけの傾向かどうかについては検討の余地はあるものの、客観的な「行為的連関」の中で行動の善悪が決まると説く和辻の理論は、たしかにこれに対する強い批判になっている。
 『倫理学』の上巻、第二章で「人間存在の空間的・時間的構造」を説くさいに和辻が強調するのは、人の存在をはじめから規定している「間柄」のネットワークがもつ広がりである。その「間柄」をもっとも広い範囲で支えるのは「交通機関や通信機関」にほかならない。そこで和辻は「新聞ラディオ」にふれ、大正大震災のさい、そうした「通信機関」が遮断されたために、怪しげな「流言蜚語」に人々が惑わされた経験を指摘する。メディアによる情報のネットワークが崩壊することは、社会そのものをたちまち「バラバラ」にしてしまう。現代の言葉づかいで言えば、情報ネットワーク社会のようなイメージを、和辻の『倫理学』はすでに提示していたのである。
 ただし、和辻が前提としているのは、今日のような深度でグローバル化された社会ではない。『倫理学』のうちで、倫理の内容を具体的に規定する、いわば実質的倫理学の構想を述べているのは、中巻に収められた第三章「人倫的組織」である。和辻の考えでは、倫理を支える原理は、「間柄」のなかで集団が個人に強制を加え、反対に個人が集団から自立する運動の往復であり、強制と自立の両面がほどよいバランスをとっている状態が、行為の善さのあかしとなる。そして善し悪しの基準となるのは、それぞれの「人倫的組織」のなかで人々が常識として共有している「行為の仕方」にほかならない。
 こうして「人倫的組織」の章は、家族に始まって、さらに親族、地縁共同体、経済的組織(企業や労働組合、また生産や流通を介した結びつきの一般を指している)、文化共同体、国家という順序で、それぞれの「組織」における「行為の仕方」について論じている。たとえば、親族における相互扶助、地縁共同体における「隣人的存在共同」、文化共同体における「友人」としての信頼、といった行動様式がそこでは指定される。さらにこうした「人倫的組織」を「力」によって外から支える「人倫的組織の人倫的組織」が、国家なのである。
 強制組織としての国家をとりあえず除外すると、和辻の体系において、人々が自発的に作りあげる「人倫」のネットワークのうち、もっとも大きく広がりうるのは「文化共同体」である。それは、学問や藝術や宗教を介した少人数の集団に始まり、最大の広がりにおいては、一つの母語を共有する(和辻の表現では「言語の共同」)人々の全員を「友人」として含みうる。その紐帯を支えるのは、やはり「伝達」すなわちメディアの働きであった。「布教者、伝道者、吟唱詩人、琵琶法師、その他知識・藝術・信仰を広く伝へて歩いた人は、皆この仕方で文化の『伝達』の役目を果たした」と和辻は指摘する。親族や地縁共同体に関する言及から、和辻の議論は固定したイエやムラの擁護論のように理解されることが多いが、このように、地域をこえて流動する人々の存在もまた、社会を支えるのには不可欠と考えていたのである。

隠された亀裂

 「文化共同体」を論じた節で和辻は、その広がりは「言語の共同の範囲」を限界とすると論じる。したがって、人倫的組織を束ねた存在である「国家」もまた、「言語の共同」を基盤とするものが真っ当な形態ということになる。和辻はその上で、人倫的組織を力によって「外護」する国家の法を遵守し、従軍義務を果たすことが、その成員の当然の義務であると論じる。この点は、国民国家への国民の献身を説く教説として、しばしば批判されるが、同時に政府が人倫的組織の存続を保障する「正義」、すなわち「仁政」を、「国家自身の根本的な行為の仕方」として指定していることも重要である。「仁政」の内実に曖昧さは残るにせよ、政府が自分の思いのままに国民を根こそぎに動員するような事態は、和辻の理論においても人倫の道にもとることになる。
 問題はむしろ、もっとも広い「文化共同体」、すなわち「言語の共同」によって結ばれた「民族」の範囲をめぐる議論にあるだろう。上巻の「人間存在の空間的・時間的構造」の章で和辻はこの問題にふれ、人々が行為の連関を結ぶ「世間の公共性」の規模は、「国民の限界内」に限られると論じている。その理由としてとりあげるのは「外国旅行者」の例である。彼もしくは彼女の旅行先での行為は、「その土地の世間に属せざる現象」としてしか扱われないし、本国においても不問に付され「世間の眼から遁れることが出来る」。
 しかしこう言い切ってしまうと、外国人観光客と旅先の業者との契約関係は「間柄」ではなく、国際犯罪も罪として成立しえないことになる。戦後に出た改訂版で和辻はこの箇所を書き改めているが、議論はかえって曖昧になり、この問題がむしろ理論体系の弱点であることを示す結果となってしまった。
 さらに「間柄」の内実に関しても、議論がほころびを見せている箇所がある。「間柄」において人間は、常にその場において適切な役割(『倫理学』で用いる用語では「資格」)を遂行するという形が、「間柄」的な人間観の前提である。上巻の第一章「人間存在の根本構造」ではこれを説明するさいに、手術で患者の身体にメスを入れる場合をとりあげている。そのさいは担当医師としての「資格」において行動しているから、患者の肉体を「純粋に生理学的対象として取扱ふ」ことが許されると和辻は説く。だが現実には医者は相手が「手術を施すべき人間」だからメスを入れるのであり、意志をもたない肉塊として扱うわけではないだろう。
 和辻の思想の奥には、役割の演技を一切やめた瞬間、人間が単なる物体になってしまうと見なすような、醒めた思考が横たわっている。この点がむしろ、国家の問題などよりも深く、この倫理学体系の内に潜む亀裂を示しているように思われるのである。