人はアンドロイドになるために

4. See No Evil... 後編

アンドロイドと人間が日常的に共存する世界を描き、「人間とはなにか」を鋭く問いかける――アンドロイド研究の第一人者・石黒浩が挑む初の近未来フィクション、いよいよ連載開始!

石黒氏による「僕が小説を書く意味」は→こちら

 ハザマは、カズオの妻が亡くなったころ、長年連れ添った仕事上のパートナーを亡くした。人間の生は突然に途絶することもある。永遠に続く関係性など存在しない。どんなに長く連れ添った関係でも、いずれ終わりは来る。だからこそ彼は、父ともう一度、じっくり話がしたかったのだ。ユイの教育についての相談も、もちろん。

 ハザマと和解したカズオは、遺言書、任意後見契約、財産管理等委任契約、尊厳死宣言書を準備し、そして――有料老人ホームに入ることに決めた。

 息子と関係を修復して以来、さまざまなことに寛容になれた。思い残すところがなくなった。つっぱっていた部分がなくなり、実際には身体がずいぶんと衰え、日常生活に不自由が生じつつあったことを、ようやく彼は認めた。

 必要な資金は息子が出してくれた。カズオはそれを「気持ち」として受けとることにした。

 思い出に浸って余生をすごすのも悪くないと開き直った彼は、数十年来離れていた故郷の近くのホームに入ることに決めた。幼少期をすごした市の中心部からクルマで十五分ほどの静かな場所にある、やや広めの施設だった。彼の個室は六畳ていどで、そこにベッドが置かれている。カズオのふるさとにあったから、ホームでは何十年かぶりの旧友との再会もあり、その後の死別もあった。

 ただふるさとにあったから選んだわけではない。カズオは息子とともにいくつかのホームを見学し、施設長に直接会ってホーム運営に対する考え方を聞き、人間観や人柄を知ってから決めた。妻の入ったホームとは対照的に、ロボット、アンドロイド利用に力を入れているのが特徴である。施設長は「そのほうが人間らしく最期まで生きられる」と語り、見学中、カズオはその言葉に説得力を感じた。日常受診する医療施設が近くにあることもポイントが高かった。

 カズオは知らなかったが、テレノイドは介護施設ではそれなりに普及していた。若者よりも、年寄りの利用者が多い端末だった。ただし、自分が嫌いな人間や怒っている相手とは、テレノイドの使用は推奨されていない。ネガティブなイメージが膨らんでしまうこともあるからだ。あまりにも落ち込んでいる者の会話も同様だ。共感は深まるが、必要以上に心配してしまうことになりかねない。それでもカズオにとっては、そうして強い感情を喚起されて過ごすことは、枯れ木に与えられた水のような、良い刺激になった。自分は生きなくては、と自然と感じるようになっていった。

 カズオが入居した老人ホームでは、いくつかのロボットが当たり前のように馴染んでいた。

 介護用のものもあれば、二、三体のロボット同士で話しながら人間も会話に巻きこむコミューやソータのような小型ロボットもあった。コミューやソータはテーブルの上に乗っても邪魔にならない程度の、身長三〇センチ前後のヒト型ロボットだ。コミューは「対話とはなにか」ということを認知科学的に解釈したデザインになっている。音声認識を用いずに対話を成り立たせる。「会話している感覚」を与えるロボットであり、英会話などの教育プログラムが充実していた。ロボット同士で漫才のようにトークしながら、飽きさせないように反復練習を促してくれるのだ。

 カズオが気に入ったのは、M3-Neony(エムスリー・ネオニー)という三〇センチくらいの赤ちゃんロボットである。寝返りを打ったり、人工声帯から赤ちゃんがするような「あー、あー」と発音したりするのだ。一歳から二歳の幼児くらいの機能を備えており、人の手を借りて立ち上がったり、歩行のしかたや、話すことを覚えたりする。たとえばネオニーが座っている状態で、人間の介助者が、両手を引いて少し引っ張り上げてやる。するとネオニーは引っ張る力に逆らわないように、足のアクチュエータへの力のかけ方を学習していく。いきなりうまくできるようにはならない。何度か繰り返しているうちに、だんだん上手に立つようになる。

「できたね! すごい!」

 カズオたちは、それがロボットなのだとわかっていても、いじましく成長していく姿に、思わず喜んでしまう。

 実は、無理矢理手を引くような介助者では、このロボットはなかなか学習しない。介助者は、いまネオニーがどの筋肉を使おうとしていて、なぜうまくいかないかを考えながら、時に力を入れたり、時に力を抜いたり、また、上の方に持ち上げたりする必要がある。人間の親と同様に、ロボットにもよい親が必要となるのだ。

 このようにして赤ん坊(のロボット)から協力を求められること、成長を見守れることが、老人たちの生きがいになる。「他人に迷惑をかけたくない」と思う高齢者は「誰かの役に立てる存在でありたい」「自分が必要とされる場所がほしい」とも思っている。誰からも必要とされない、社会のお荷物なのではないかという想念を打ち消し、頼られる状況を提供することは、人々に充実した時間を与えるものだった。

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