人はアンドロイドになるために

4. See No Evil... 後編

 カズオの老人ホームで活躍していたのは、ロボットだけではない。耳が聞こえにくい、視力が悪い、うまくしゃべれない、同じ話を何度もしてしまう、記憶が曖昧、毎日のスケジュールを忘れる、かまってほしい、なるべく放っておいてほしい、歌ったり踊ったりしたい、過去の思い出に浸りたい――そこにいる人それぞれの欲求や困ったことに応じて、さまざまなデバイスやアプリケーションが用意されていた。

 自動応答で無限に会話を続けてくれる対話用ロボットや、老眼鏡を兼ねた、思い出の土地を過去に遡って閲覧できる観光用VRソフト付きウェアラブルデバイス……。若い男女の外見をしたアンドロイドを互いに遠隔操作して、「なりきり」で会話をすることを好む人間もいた。そこにはカズオが知らなかった比較的新しいものもあれば、「すたれた」と思っていたデバイスやアプリもあった。このホームでは人々の記憶を刺激するために、わざと「なつかしい」と思わせる携帯電話やノートPCもいくつか置いてあった。

 みな、それぞれの状況や気分に合ったメディアを選んで、生きていた。人間はこんなにも多様な機械に補助されて生きているのか、とカズオは改めて気づく。

 コミューやソータが、ホームのコミュニケーションスペースにあるテーブルの上で演じる「ロボット演劇」で、カズオは初めてシェイクスピアをまともに観た。子どものようにかわいらしい外見のロボットが演じる『ハムレット』だったが、文化的なものに触れることを半世紀以上絶ってきたカズオには、とてもおもしろく思えた。

 狂気を装っているのか、それとも本当に狂気に呑まれたのかわからないハムレットの姿に、彼は認知症が進んだ妻のことを重ねて観た。観劇後に感想をホームの入居者同士で語ることも、彼にとっては刺激的だった。

 そのことを息子に話すと、なんとその小型ロボット演劇は、息子の所属事務所の俳優と演出家が協力してつくったプログラムだった。「演劇に興味があるなら、よかったら観てください」と言われ、カズオはハザマが人間酷似型アンドロイドと共演した『R.U.R.』のデータを送られた。

『R.U.R.』は「ロボット」という言葉が最初に用いられた、カレル・チャペックによる戯曲である。演劇にロボットやアンドロイドが登場することは珍しくないが、ハザマが出演した『R.U.R.』は、人間役をアンドロイドが、ロボット役を人間が演じるという趣向で演出されていた。もともと『R.U.R.』に登場するロボットは、いかにも機械然としたものではない。無表情であることを除けば、見た目も動きも人間そっくりの人造人間である。奴隷のように労働させられている人造人間が、自分たちを酷使している人間の資本家たちに反旗をひるがえす――「人工知能やロボットによる人間への反乱」の物語は、チャペックが一九二一年に書いたこの戯曲よりあとも、飽くことなくくりかえされることになる。

 カズオは施設内の自分の部屋でVRメガネとヘッドフォンを付け、『R.U.R.』を観劇した。涙がこぼれた。無口なハザマが、役の中では饒舌に、立派に演技をしている。息子が活躍する姿を、はじめてまともに観た。まずその感動があった。

 カズオは物語を観ながら、ロボットに対して圧政を強いる資本家に自らを合わせた。これは、親が子どもに何かを押しつけようとして失敗する話である、と彼は理解する。ロボットたちは、息子はよく戦った。親と子の争いなら、子が勝つべきだ。今ならそう、思える。

 アンドロイドの演技はテーブルの上で演じられたコミューとソータによる『ハムレット』とは比べ物にならないくらい迫真のものであり、カズオはそれにも息を呑んだ。

 このことを通じ、半世紀以上、閉ざされていたカズオの文化への思いが解き放たれる。「もういちど音楽をやってみよう」と彼は思った。邪魔にならないていどの簡易なキーボードを買い、部屋でひとり、鍵盤に向かう。指の動きはさすがにぎこちなかったが、弾くことには純粋なよろこびがあった。カズオはコミューやソータによるピアノレッスンプログラムを始めた。バッハの「インベンション」からだ。童心にかえった思いだ。

 ホームで他愛ない昔話やレクリエーションを行う日々をすごすうちに、カズオは何か目標に向けて生きるのではなく、生きていること自体、誰かと話すこと自体、演劇を観たり、音を奏でること自体が楽しいと思えるようになってきた。子どものころ味わっていたような純粋な遊びの時間を、彼は取り戻した。それまで筋肉を鎧にして生きてきたカズオは、筋肉の衰えとともに、しかし、新たなものを獲得しえたのだ。

 何歳になってもひとはコミュニケーションしたい生きものだし、自分たちがしてきたことを語り合いたい生きものなのだし、芸術に感動できる生きものでもあるのだと、改めて悟る。この歳になると、何かを成し遂げたいとか、名をなしたいとか、そういう想いはもうない。それができる時間も能力も残されていない。ただ今をよりよく生きることを、残された日々を楽しむことをすればいいのだ、とカズオは思う。

 テレノイドは、カズオたちを取り囲む、数あるコミュニケーションメディアのひとつだった。孫以外にも、息子や医師、ヘルパーやカウンセラーなどとのコミュニケーションにもテレノイドは役立った。年齢のみならず、人種や性別による対話相手へのバイアスが懸念される場面でも同様である。このデバイスの使用者は、直接会って話すのでは気後れする相手との会話も、旧友と話すのと同様、楽な気持ちで臨むことができた。

 テレノイドは、その開発の初期から北欧では国家プロジェクトに採用されてきた。たとえば患者の在宅治療を行うにはどうすればいいかを考える「patient at home」というものだ。北欧では家庭を大事にすることから、生活してきた環境のなかでケア、とくに認知症治療――に取り組むのが適切だとされている。今まで長い時間を過ごしてきた、慣れた環境のなかでゆっくりと治療し、さまざまなことを思い出しながら治療を進めることが理想とされてきた。北欧では一人暮らしの在宅治療高齢者が多く、そのため、他人と関わるにあたっては、電話でのコミュニケーションだけでは情報伝達はできても、心は「寂しい」という声が多かった。そこで、テレノイドを使ったのだ。高齢者たちは対話相手の存在感を強く感じ、寂しさがまぎれたという。「テレノイドによって、人の存在を腕の中に感じながら生活できる」。テレノイドは、高齢者とボランティアや医者との間の通信用メディアとして活躍するようになった。人間は子どもだけでなく、大人になっても、ひとりでいることに不安を覚える。誰かと話をしたい、誰かといっしょにいたいという思いは、誰もが少なからず持っている。そういったときに、適切な存在感を持ちながら相手をしてくれ、パートナーになってくれる。そういったロボットが多種多様に開発され、人間社会の中で、なくてはならないものになってきたのだ。

関連書籍