妄想古典教室

第二回 そのエロは誰のものか
現存最古のエロティカ

裸体美術の世界観

 昭和23年といえば、日本の敗戦からわずか三年後なのだが、この年の3月に『日本裸體美術全集』(富岳本社、1948年)なる実に蠱惑的な一書が出版されている。試しに、天平・藤原時代から江戸中期までの作品を集めた第一巻第二巻が合本となった一冊を手にしてみると、天平時代代表の第一図は、中宮寺所蔵の弥勒菩薩半跏像であり、第二図に広隆寺の弥勒菩薩半跏像が納められている。たしかに中宮寺の弥勒菩薩半跏像[fig.1]は、解説にあるとおり、「その上體は一糸も着けず、全くの半裸で」はあるのだが、そういう話でいえば、第四図に挙がっている不動明王[fig.2]などもそれに当たるということになってしまうのであって、これはちょっとあまりにも詐欺っぽいのではないのかと呆れるものの、言われてみれば確かにこれも「裸体」の美術なのであるから文句のつけようもない。

[fig.1]中宮寺弥勒(『奈良の古寺と仏像――會津八一のうたにのせて』日本経済新聞社、2010年)
 
 

 

[fig.2]不動明王(『日本裸體美術全集』富岳本社、1948年)

 

 広隆寺の弥勒菩薩半跏像[fig.3]の解説には、次のようにあって、事実、なかなかにそそられる書きぶりでもある。

 

白魚の如き右手の指が、微かに豊頬に觸れるか觸れないかに位置されるその微妙な線、やや扁平を思はせる左手の掌で軽く半跏の右脚を支へ、上半身全裸の息づける胸の邊り、肩の線の流れ、寛かに腰以下を包む裙裳の衣襞も簡素で美しい。思惟の相好も中宮寺の彌勒菩薩の規模をやや小型に、殆ど同じ作者かと疑はしめるまでに似通ふた作風で「謎の微笑」はこれにも現れて其特長を見ることができる。(『日本裸體美術全集』)

 

 ことによると、昭和35(1960)年8月に、広隆寺の弥勒菩薩半跏像にキスした拍子に右手の薬指を折ってしまった京大法学部の男子学生は、この『日本裸體美術全集』に触発されたのではないかと、妄想逞しくしてしまうところだが、少なくとも、広隆寺の弥勒菩薩像には、そうしたなまめかしさを感じ取る見方が流通していたのに違いない。エロスのイメージは伝播して成るものであって、単発的、突発的には人は発情し得ない。

[fig.3]広隆寺弥勒(『魅惑の仏像 弥勒菩薩』(毎日新聞社、2000年)


 

 第五図に鎌倉鶴岡八幡宮の弁才天坐像、第六図に伝香寺の裸形地蔵像が鎌倉時代の作として紹介されたあとは、江戸時代の作として、ちょっとばかり着物のはだけたつつましい浮世絵のオンパレードとなる。和紙に刷りあげたこの美しい豪華本は、春画まがいのものなどは一切含まない、あくまで格調高い書物なのである。

 つまり「裸体美術」とは、身体の曲線のしなやかさやなめらかさ、指先の繊細さなどに感じ取られる美をいうのであって、性器的身体を意味しない。戦後の裸体美へのこの崇高なまなざしを思うに、江島神社の妙音弁財天像はずいぶんと直接的な表現をとったものだと、あらためて感心してしまう。

 平安時代と比べても鎌倉時代というのは表現がより具体的であからさまになっていく時だったのかもしれない。平安宮廷の内輪に閉じた価値観がたわんで、鎌倉時代には表現が率直にも自由にもなったが、それはむしろ、暗黙の了解を分かち合えない人たちに理解させるために、くどくどと言わずもがなのことを言い始めねばならなかったということだったのかもしれない。

 性器を大胆に描いた元祖春画ともいうべき、肉筆春画が、そろって鎌倉時代の作であったのも、おそらくは江島神社の弁財天像の出現と重ねて考えてみるべきことなのだろう。肉体への欲望を衣や髪の美しさで言い換えた平安時代の表現など、鎌倉時代にはもはや理解不能だったのかもしれない。京の都を遠く離れて東国に鎌倉幕府が誕生した時代の変遷は、抽象から具体へと向かわせる契機となった。具体的に肉体そのものを表現すること。東大寺の南大門に立つ運慶快慶による仁王像の筋肉表現を考えてみても、この類推はあながちはずれていないように思われる。

 そんな時代に性器的身体を描く春画が成立するのもむべなるかなと思えてくる。鎌倉時代の春画は、「稚児之草紙」「小柴垣草紙」「袋法師絵詞」の三点があるが、「稚児之草紙」はまた別の回で取り上げるとして、ここでは「小柴垣草紙」と「袋法師絵詞」について考えてみたい。というのも、まるで江島神社の弁財天像に乳房と性器を作り込んでしまったことに呼応してるかのように、これらの春画は殊に女の性器に焦点化した作品なのである。

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