冷やかな頭と熱した舌

第10回 
思考の整理学の話 【前編】

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!

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2016年、NHKからの電話

 「松本さん、NHKさんからお電話です」
 入荷した本を、ああでもないこうでもないと並べていたら店のコードレスホンを持ったスタッフに声をかけられた。ああ、NHK出版のY田さんかなと受話器を受け取る。Y田さんは雑協のメンバーで、先日雑誌の売り伸ばしについて会合を持ったばかりだ。穏やかな物腰で会話のバトンを預けてくれる聞き上手。しかし、こちらが話し終えた後に発せられる含蓄ある一言が見識の広さを物語る。Y田さんは、そんな人物である。
 「もしもし、お世話になっておりまーす」
 すごくよくしてくれる担当さんなので、嬉しくて声のトーンが上がった。口調も第一声から自然と親しみのこもったものとなった。
 「わたくし、渋谷にありますNHK放送局の者です」
 違った。
 Y田さんじゃない知らない人だった。総務省管轄の公共放送のほうからの電話である。バツの悪さを押し隠し、電話口の抑揚のないバリトンボイスが伝える要件に、ふむふむと耳を傾けると、懐かしさが込み上げてきた。
 「承知しました。詳しくはメールをいただけるとのことですが、大丈夫。お越しいただいて結構です」僕も声のトーンを抑えめにして応じた。

ちくま文庫の実績が伸びない

 話はおよそ10年前に遡る。
 苦しみのなかで僕は一枚のPOPを書いた。勤め始めて5年目。その当時、さわや書店本店で文庫を担当していた。さわや書店の文庫担当は店のエースだ。前任の文庫担当者は、新しく盛岡駅に開店するフェザン店の準備があり、僕がその後を託された。店に入ってしばらく新書を担当していたが、いつの日か文庫を担当することは目標であり、憧れだった。本の魅力にとりつかれた者として、すべてのジャンルを横断する文庫を売ってみたいとの気持ちは日に日に強くなっていった。
 念願の文庫担当になれたはいいが、前任者の「前年同月販売数」に僕の心は重くふさいだ。駆け出しの僕では販売冊数が目標に及ばなかったのだ。自分の力量不足を痛感した。
 特に筑摩書房が出版する「ちくま文庫」の成績は悪かった。僕が文庫担当となる少し前に筑摩書房の営業担当者は年齢が近いKさんに変わっていて、音楽の趣味、物に対する価値観や考え方、そして何か諦めに似た感情が心の何割かを占めているところなど互いの共通点を嗅ぎ取り、仕事をそっちのけにして語り合っていた。何度か顔を合わせるうちに仲は深まっていったが、文庫担当になってしばらくしてKさんに発破をかけられた。「松っちゃんが担当になってから、うちの文庫の成績が下がっているよ」と。
 その一言を聞いて僕は、「わかった。これから一か月の間、僕はちくま文庫しか読まない」と応じ、実際ひと月の間に20冊ほどのちくま文庫をピックアップして読んだ。商品知識をつけて、その中から売れるものを探そうと考えたのだ。もちろん「ちくま文庫しか」は建前で、隠れて他の出版社の文庫も読んだことは内緒である。

2006年『思考の整理学』との出会い

 そして、ある1冊を読んだとき、僕はとても深いところで納得した気持ちになった。それまでの人生で、常に感じてきた学校や社会に対しての違和感をなだめ、現実世界も悪くないよと優しく諭し、新しい物差しを僕にもたらした1冊の本。1986年に文庫化されたその本のタイトルは『思考の整理学』という。
 僕が手にした当時でも、出版からは20年ほどの時が流れていた。グライダー人間と飛行機人間の譬え話から始まるこの本は、鮮烈な印象を僕に与えた。昼の休憩で途中まで読んだ内容を、まだ全部読んだわけでもないのに興奮気味に伊藤清彦店長に語った記憶をいまでも覚えている。
 
 少しだけ内容に触れると、本書のなかで語られるグライダー人間とは、風を受けなければ飛ぶことができない「受け身」の人間のことである。指示を出されるととても上手に物事をこなすが、自発的に物事をなすことができない。一方、対比されている飛行機人間は「自発的に」空を飛ぶことができる人間のことだ。自分で問いをたて、解答までの道のりにおいて自由に思考を飛翔させて目的地までたどり着く。こういった例を挙げながら、思考法のアドバイスをくれるエッセイである。

『思考の整理学』外山滋比古  ちくま文庫1986年刊

  日本には圧倒的に「グライダー人間」が多い。そもそも戦後の日本の教育制度が、欧米各国に追いつくためのカリキュラムとして、物事をインプットし、その内容を正確にアウトプットすることを重視した。記憶力に長けた人間をエリートとして重用する制度は、世界における日本の教育水準を一定のレベルまで押し上げたが、インプットとアウトプットの間にある「思考」の段階は置いてきぼりにされた。追いつくためにはスピードが必要だ。求めるスピードを得るためには、余計な重量を減らさなければならない。戦後の高度経済成長の教育において、「思考」はお荷物だったのだ。正確な「記憶装置」としてのパソコンやスマホが普及する前から、人間の思考の重要性に警鐘を鳴らしていた外山滋比古先生はやはりすごい方だと思う。この本を書いたこと自体、外山先生が自分の頭で物事を考え続けてきたという証左だろう。
 いままで自分の頭で「思考」をしてこなかった僕は、学校の点数や偏差値で頭の良さが決まるという価値観を疑いもしなかった。典型的なグライダー人間であることを本書によって知ったのだった。当時二十代後半だった僕は、その衝撃をこんなキャッチコピーで表す。

“魔法のポップ”誕生

 “もっと若い時に読んでいれば…”
 そう思わずにはいられませんでした
 何かを産み出すことに近道はありませんが、
 最短距離を行く指針となり得る本です

 一行目を青いペンで大きく書き、「“ ”」部分に赤い下線を引いた。二行目を黒いペンで少し小さく書き添えたこのPOPが、まさか日本全国で爆発的なヒットを記録することになろうとは、この時には想像すらしなかった。
 7~8冊を仕入れて、午前中のうちにPOPとともに売場に置いた。店の中ほどの平台に確かに置いたはずなのに、その日の夕方には本が消えていた。最初に頭をよぎったのは、自分が置いたと思ったのが勘違いで、どこか別の場所に放置してある可能性だ。お客さんの問い合わせの応対や、混んだレジにヘルプで入る時など、同時進行で色々な仕事をこなすのでそういうことはよくある。次に、誰か他のスタッフがクレームなどを受けて売り場から外してしまったのかなと思って確認したが、どちらも違った。

松本さん作成の手書きPOP  後に魔法のポップと呼ばれ大ヒットの大きなきっかけとなる

  まさかと思い、売れたときに回収する本に挟んである「スリップ」を調べてみると、全冊しっかりと売れていた。慌てて追加で仕入れて10冊、20冊と数を積み重ね3か月間で90冊を販売した。書店が大型化し、一冊の本を多面展開する書店が多いなかで、当時のさわや書店本店では「多面」はご法度。POP以外では他の本と差別化せずに、店の文庫売り場でひっそり一面で販売した結果としてはかなりの成果だ。その快感と手ごたえはそれまでの5年で経験したことのないものであった。
 販売を開始してから3か月後に来訪したKさんに、得意げに結果を報告すると「ふーん」ぐらいの反応であった。さすが半分が諦めでできているバファ○ンのような男。しかし、単に感情が表に出にくいだけだったらしい。社に持ち帰って熱弁をふるった(と思われる)Kさんは、ほどなくして電話をかけてきた。曰く、筑摩書房のデータにおいて、信頼できる他の書店で『思考の整理学』を仕掛けてみたいんだけど、と。結果はわりとすぐに表れたらしい。文庫化した1986年から2006年までの20年間で17万部(実はこの数字もかなりすごい)だった本書が、2007年から2008年にかけて40万部近くを増刷。仕掛ける店は倍々で増えていき、2008年には東京大学生協、京都大学生協において年間販売数1位を獲得した。この結果を受けて、「東大・京大で一番読まれた本」としてさらなる脚光を浴び、あれよあれよと2009年に100万部を突破。ロングセラーとなった本書は文庫化から30年目の今年、なんと200万部を突破した。

本屋としての苦悩の始まり

 仕掛けた当時、いくつもの取材を受けた。若い時に本書を読んでいなかった僕は、実力がともなわずその度に自分をふがいなく思ったものだった。日本の地方都市の片隅で、伊藤店長の教えを忠実に体現し、自分で考えることを『思考の整理学』によって教えられたばかりのよちよち歩きの僕は、置かれた現実に対して圧倒的に実力が不足していた。運が味方したことと、なにより伊藤店長がいて注目されていたさわや書店だから、『思考の整理学』は世に広まっていったのだと思う。あとは筑摩書房さんの、東大・京大生協さんの力だ。僕が「思考の整理学の」という枕詞を、次第に重荷と感じるようになるのに時間はかからなかった。「次」を求められ、求めに応じようとして失敗し、僕は次第にその実績を忘れられることを望むようになっていった。だからその後、さわや書店フェザン店へと異動し、「外で名を売る田口幹人店長」と「内で店作りをする自分」という役割分担を二人で相談して決めた時は、正直とても有り難かった。これでようやく本当の実力をつける日々が始まったのだ、そう思った。

【後編へ続く】

 

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