ぼくはこんな音楽を聴いて育った

最終回 第17話 ノイズまみれの天国にようこそ

オーストリアの山崎比呂志

 山崎比呂志さんとオーストリアのウェルス市にいる。この街で長年続いている前衛音楽祭「Music Unlimited」の30周年アニバーサリーフェスに出演するためだ。フレッド・フリス、マッツ・グスタフソン、ペーター・ブロッツマン、The Ex、ジーナ・パーキンス……この日は世界中から即興や前衛音楽のスターたちが何十人と集まってくる。スターといっても、何千人もの人を集めるのではなく、数十人、数百人を集める知る人ぞ知るスターたち。インターナショナル・フェスなのに、世界各国から集まってくるのに、どこにも国名が書いてない。個人の名前だけのささやかなフェス。オレもそんな中の端っこにいる。楽屋は様々なお国なまりの英語を中心に、ドイツ語、フランス語、エチオピアの言葉(何語なのかオレはよく知らない)、そしてときどき日本語がとびかう。客席のほうも、ドイツ語だけでなく、イタリア語、スロバキア語、ロシア語、様々な言葉が行き交う。ここにいれば、国名や民族を背負った何人(なんぴと)かである必要はない。ただのOtomo Yoshihide、即興演奏家。それだけで充分だ。オレにとっては天国のような世界。

 主催者のウォルフガングから今回何をやりたいかと聞かれたとき、オレは迷わず山崎比呂志さんとDUOと伝えた。海外ではまったく無名かもしれないが、山崎さんはオレにとっては即興ヒーローなのだ。この連載の第1話に出てくる高校3年のときに見た衝撃の大爆音コンサートを再び引用しよう。

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とりわけ衝撃的だったのは渋谷のジァン・ジァンで見た高柳昌行のニューディレクションのコンサートだった。ジャズスターだった渡辺香津美の師匠として当時は知られていた高柳昌行だったけど、その実は、日本の前衛ジャズを60年代から牽引してきたグル……なんて書いたら怒られるかな、とにかく日本のフリージャズやノイズを語るのに欠かすことの出来ない第一人者こそが高柳さんだったのだ。2人のエレクトリックギター、サックス、ベース、2人のドラマー(だったと思う)で、今まで聴いたこともないような大爆音でひたすら何十分も演奏し続ける。カウント出来るようなリズムもなければメロディもない。ひたすら大爆音のノイズが拡散され続ける感じだ。あまりの音量に、体が椅子に押し付けられてるような感じすらして、終わったあとは耳鳴りでなにも聴こえない。聴くというよりは体感すると言った方がいいようなコンサートだった。

 客席には十数人いたかな。ひょっとしたら一桁の聴衆だったんじゃないだろうか。それでも、そんな中には敬愛する殿山泰司さんの顔や、ジャズ評論家の清水俊彦さん、副島輝人さんの顔も見える。それだけでドキドキした。殿山さんの『JAMJAM日記』の中で、高柳さんのライブを「オ月サマまでとどくようなスゲエ音」って形容していたけど、まさにそんな感じだった。

 このコンサートに感銘を受けて、すぐさま、高柳さんの門を叩いて弟子入り……なんてことになっていたら、この連載も書きがいがあるってもんだけど、オレの人生、そんなに格好良くない。正直、高校3年生のオレには、この爆音のコンサートはまったく分からなかったのだ。

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 まったく分からなかったけど、でも、間違いなく、あのコンサートを見てしまったことが、オレの人生を狂わせてしまったんだと思う。そう、このときメインでドラムを叩いていたのが山崎比呂志で、当時は山崎泰弘、または山崎弘と名乗っていた。彼の叩くドラムは本当にものすごかった。大爆音の高柳昌行のギターに生音で1時間以上も対抗し続けるだけでもすごいのに、その独特の音色やアタックは、誰にも似てない彼ならではのものだった。

 その山崎さんと、40年近い歳月を経て、ヨーロッパツアーをすることになるなんて、もちろん当時は想像すら出来なかった。これも、話すと長くなってしまうから、ここでははしょるけど、東京に出た後、いろいろあってオレは高柳さんのアシスタントとなり、山崎さんの車を運転して、高柳さんや山崎さんの楽器を運んでは、ライブ会場で二人の楽器の設営を手伝ったのが、この世界での最初の仕事だった。仕事ったってお金が出るわけじゃない。当時ボーヤと呼ばれていたミュージシャンのアシスタントは、ほぼ無償。夕飯が出たり、交通費が出るくらいだったけど、でも、憧れの人たちと一緒の空間にいて、その音楽の手伝いを出来るだけでも、オレは舞いあがらんばかりに幸せだったし、自分では最高の仕事だと思っていたのだ。

 でもまあ、これも前回書いた通り、数年の時を経て、高柳さんとの関係が壊れてしまうと同時に、山崎さんとも疎遠になってしまい、その後東京を離れ鹿島に住むことになった山崎さんと会う機会は絶たれてしまった。その山崎さんとの再会もまた、前回の主人公副島輝人さんの新宿PITINNでの追悼コンサートがきっかけだったのだ。死してなお副島さんは人と人を結びつけるオーガナイザーだったのだ。

 山崎さんにしてみれば1980年の高柳昌行ニュー・ディレクションのドイツのメールス・ニュージャズ・フェスティバルの公演以来、実に36年ぶりの海外公演になる。現在76歳。でもその演奏は、オレが初めて山崎さんを見た40年前の渋谷ジァン・ジァンのときと、まったく変わっていない。変わっていないどころかむしろ深みを増した上でパワーアップしている。

 演奏が終わり、ホテルにもどってテレビをつけると、臨時ニュースで「分断を乗り越えよう」と嬉しそうに連呼するへんな髪型の大男がやたら出まくっている。

「新大統領バンザ~~~イ!」

 アメリカを再びナンバーワンにだって? 何言ってるんだ、こいつは。言われなくたって、いつだってあの国はナンバーワンじゃねえか。属国の住人たるオレたちにはこいつを選ぶ権利すらない。拒否する権利も。ってか、たとえ選挙権があったとしても、この大男はきっと勝っただろう。いくら杭をたてても、なんの歯止めにもならずに、世界はすごい勢いで壊れていく。この数年のオレの実感。最初は震災が原因でこうなっているんだと思っていた。でも、どうやらそれは違う。日本だけじゃない。世界がすごい勢いで壊れだしているのだ。もしかしたら、そんなふうに見えているオレは、このクソみたいな世界に、それでも居場所があるって思える側の人間ってことなのだろうか? 居場所がある人間と居場所がない人間。思想とか宗教とか、経済格差という形をとって紛争やテロが起こっているけれど、本当は、居場所があるかないか、根っこはこの問題なんじゃないだろうか。この後に行くパリも、ブリュッセルもついこの間、テロの洗礼を受けたばかりだ。ターゲットは政治家でもなければ、もちろん軍人でもない。ライブハウスで踊っている、カフェで友達とおしゃべりをしている、どこにでもいる楽しそうに見える僕らのような人間だ。居場所がある人間とない人間の戦争は、もうとっくに始まっている。

「街を歩くときには爆弾に注意!」

「もしかしたら、髭面のあいつもテロリストかもしれない」

 多様な価値観、人種や民族の共存、平等、そして自由と平和……オレが子供の頃から無邪気に信じてきた未来が、音を立てて崩れ出している。どうしたらいいのかなんて、オレ程度のアタマの人間にはまったくわからない。これから世界はどうなっていくんだろう。

「グギャーーーー、ビーーーーー、ギギギギ、グシャーーーーーン」

 オレはなんで、こんな音楽をやっているんだ。怒り? 叫び? いやいや、そんなんじゃない。絶望? 歓喜? 自由? いやいや、そんな漢字二文字で書けるようなもんでもない。

「ギャーーーー、キーーーーーー、グググーーーーー」

 1979年3月末、オレは東京に出ることになった。なんの勉強もしてなかったから、大学なんて受かるはずもない。そう思っていたけど、かろうじて、明治大学の二部文学部に引っかかった。当時は夜間部って言ってたような気もする。「音楽家になりたい!」って宣言して東京に出るなんてことは、10代のオレには到底出来なかった。もちろん音楽家になりたかったんだけど、そんな自信はまったくなかったし、人生がどういうもんなのかも、まだまったくわからなかった。ただただ東京に出ることに、そこで音楽に近づくことに憧れていたとも言えるし、Yのいる福島から出たかったのかもしれないし、親元を出て一人でやってみたいと思ったってのもあったんだと思う。とりあえず大学に行くという口実さえあれば、いろいろ面倒なことを言ったり決断しなくてよかったってのが正直なところだ。つくづく情けない。オレはとりあえず大学を受け、なんとかギリギリで合格し、ずるずると東京に出ることになった。

 親父が運転する乗用車に最低限の生活用品を載せて、まだ雪の残る福島を後にしたのは1979年の3月末。道中、親父とはどんな話をしたのかな。今となっては全然覚えてないんだけど、でも、

「オリンピックなんてのは、国を代表するんじゃなくて、個人個人で勝手に旗をあげればいい」

 なんてことを平気で言う親父の影響を強く受けてオレは育ったんだなって今となっては思う。

「人様に迷惑をかけるんじゃなければ、なんの仕事だろうがいい。自分で好きなことをやれ」

 そんなことも言われたような気がする。

「死んだらなくなる」

 ただそれだけだとでも言わんばかりの無宗教っぷりも親父の影響だと思う。とはいえ親父は年中そんな話をしていたわけではない。ごくごくたまにぽろっとそんなことを言うだけで、基本は高倉健のように無口。だからオレのおしゃべりは陽気なお袋の血だ。家には仏壇もなければ、宗教にかかわるものも、政治に関わるものも一切なかった。子供の頃、家にあったものといえば電気部品と工具、冷蔵庫に洗濯機、親父が作ったテレビにターンテーブルとラジオ。いくばくかのレコードに、お袋手製の洋服たち。オレにとっては最高の環境だった。親父とは電気や機械の話をよくした。新しいタイプの機械をみると必ず、その構造がどうなっているか分析して話をしてくれたし、今テレビにはいったノイズはなにが原因かとか、ニッパーやペンチの使い方からコンデンサーの扱い方に至るまで、日常会話はほぼ全て機械と電気の話。オレも親父とそんな話をするのが大好きだった。その親父の運転でオレは東京に出てきた。きっと道中の4時間は、トランジスタか真空管の話しかしなかったに違いない。

「ドドドオドドッッオオオ、グシャン、ドシャン、ダダダッダーーーー」

 山崎さんの強烈な打楽器音が目の前で響く。フィードバックするオレのギター。ステージにいると、いつもここは天国だって思う。戦争も平和もない。国境もない。未来も過去もない。ただただノイズが響くだけだ。電気回路にノイズが入らないために何をすればいいかを考えつづけた電気技師の親父とは一見真逆だけど、でも、どこか通底する世界。熱狂するオーディエンス。彼ら彼女らにとっても、ここは天国なのかもしれない。どこまでもつづくフィードバック。ノイズまみれの天国。テレビの中では新大統領が嬉しそうに笑っている。

「アメリカはナンバーワンだ!」

 となりにいる、なんだかつまらなそうな顔をした白人少年は誰なんだ? 息子? こいつには居場所はあるのか?

「メキシコ国境に壁を!」

 ノイズを消し去った地獄のような日常、万歳!

「分断を乗り越えよう!」 

 居場所のあるやつ万歳!

 1979年4月、代田橋の六畳一間、風呂なし2万5千円。ここで19歳だったオレの東京暮らしが始まる。それからの話は、またいつかどこかですることにしよう。