ちくまプリマー新書

感染症屋が性教育をするワケ
岩田健太郎『感染症医が教える性教育』 「はじめに」より

 みなさん、こんにちは。岩田健太郎といいます。
 ぼくは医者だ。専門はいろいろあるけど、とくに感染症をメインに取り組んでいる。
 この本は性教育についての本だ。読者のみなさんのなかにも性教育、受けたことがあ
る人もいると思う。ぼくは学校の先生じゃないんだけど、これまで長い間性教育に取り
組んできて、ときどき学校で授業をやったりもしている。どうしてそうなったのかは、
あとで説明するけど、まあその結果この本も書いているというわけだ。
 みんなは「どうして数学を勉強しなきゃいけないの? おとなになったら方程式とか
使わないのに」とか、「歴史の授業なんて本当に意味があるんだろうか」なんて考えた
ことないかな。特に試験の前で「勉強なんてイヤだ」モードになった時はそういう気分
にならないかい。ぼくはよくそんな気分になったな。
 で、ここでは「どうして性を学ばなければならないの?」という疑問を考えてみたいと思う。
 どうしてかというと「性教育なんて必要ない」と反対している大人もいるからなんだ。
 さあ、そこでみんなに考えてほしい疑問その1。なんで多くの日本の大人は「性教育
なんて必要ない」と思っているんだろう。
 そして、疑問その2。その意見は正しいんだろうか。
 さらに疑問その3。仮にそういう大人の意見が正しくなくて、やっぱり性教育が必要
なんだ、としようか。では、「正しい性教育」、「必要な性教育」ってどういうものなん
だろうか。文部科学省は学習指導要領に小学校、中学校、高校における性教育について
記載している。「そういうの」があるべき性教育なんだろうか。
 というわけで、本書はまず日本の性教育の歴史を振り返る。そして、性教育の必然性
について考える。必然性っていうのは「それがなくてはならない理由」ってことだ。鉛
筆があるのは、それがないと困るからだ。では、性教育はないと困るんだろうか。鉛筆
がないと困るように。
 つぎに、本書では性教育はどうあるべきか、を考える。どんな教育でもよい方法とそうでない方法があるんだと思う。では、「よい性教育」とはどんな性教育なんだろう。
それもいっしょに考えてみたい。ぼくが現在実践している性教育をそこで紹介してみた
い。
 さらに、もうひとつ。本書が他の性教育本(?)と大きく違う点なんだけど、最後に
「絶対恋愛」の可能性を論じてみる。絶対恋愛ってなんや? って、みなさん思うだろ
うけど、この話はややこしいので、あとでゆっくり説明する。もっとも、ややこしくて
説明はちょっと長くなるけど、全然難しい話ではないのでご心配なく。そしてお楽しみ
に。
 ところで、ぼくみたいな医者がなんで性教育をテーマにした本を書くんだろう。まず
はそれを説明したい。
 ぼくは感染症のプロなんだけど、世の中には本当にたくさんの感染症があるんだ。み
んなが聞いたことがありそうな感染症としては、例えば、エボラ出血熱。2014年に西アフリカで流行したこの感染症は世界を震撼させた。実はぼくも2014年の12月から1ヵ月程度西アフリカのシエラレオネにWHO(世界保健機関)のコンサルタントとしてエボラ対策に取り組んでいた。当時はたくさんの人がエボラで亡くなっていたから、その対策は結構大変だった。
 感染症の対策としてはざっくり大きく分けると治療と予防に分けられる。治療はエボ
ラになった患者さんを治すことで、予防はエボラになってない患者さんがエボラになら
ないようにすることだ。
 感染症を予防するためには、感染症がどのようにして起きるかを知っておかねばなら
ない。例えば、風邪はくしゃみや咳で感染する感染症だ。だから、咳でうつらないよう
にマスクをしたり、咳をする時腕で口の前をおおったりするんだ(こういうのを咳エチ
ケットといいます)。
 エボラの場合は、エボラウイルスの入っている患者の体液を触ることで感染する。汗
とか、涙とか、血液とか、唾液とか。とにかく患者には素手で触らないようにしないと
いけない。こういう指導が「予防対策」ということになる。
 ところで、エボラについてあまり知られていない事実があるんだ。
 それは、エボラがセックス(性行為)でうつるということ。セックスによってうつる感染症を性感染症と呼ぶ。英語ではsexually transmitted diseases という。sexually は「セックスで」という副詞、transmitted はうつるという意味、で、diseases は病気のことだ。略してSTD とも呼ぶ。
 エボラもセックスで感染する。だから、エボラも大きな意味ではSTDの一種なんだ。
実際、エボラにかかった男性患者が回復してから数ヵ月経っても、精液の中からはエボ
ラウイルスが見つかることがある。エボラが治ったと喜んでセックスしてしまうと、相
手にもエボラがうつってしまう。
 ぼくたちはエボラ出血熱から回復した患者を生存者(サバイバー)と呼んでいた。エボラは死亡率が高いから、まさに「生き残った」って感じだったんだ。けれども、彼らが他の人にエボラウイルスを感染させるのは困る。そこで、こういうサバイバーたちに適切な性教育を行い、彼らの大切なパートナーや家族がエボラの危険に晒されたりしないよう取り組んできた。
 本稿執筆時点(2016年10月)では、ブラジルなど多くの国で猛威を振るっているのがジカ熱だ。これは蚊に刺されて感染するウイルス感染で、妊婦が感染すると胎児に小頭症という先天奇形が起きる可能性がある。大変な問題だ。
 ジカ熱は昔からある病気だけど、蚊がうつす病気なので人からは直接感染しないと思
われてきた。ところが、最近になってジカ熱がセックスで感染することが判明したんだ。
つまりジカ熱もまた、STDの側面を持っているってことだ。
 エボラ出血熱やジカ熱のみならず、世の中にはたくさんのSTDがある。梅毒、クラミジア感染、そしてエイズ。
 ぼくたち感染症のプロは、たくさんのSTDと日夜取っ組み合っている。梅毒やクラ
ミジアは抗生物質で治療ができる。でも、エボラやジカ熱には有効な治療薬はまだない。
それに、梅毒はときに神経や血管に重い後遺症を残す。クラミジアも女性の不妊の原因
になったりする。診断が遅れれば、抗生物質もこうした合併症を克服できない。なかな
かやっかいだ。「薬を飲めば、大丈夫」という簡単な病気じゃあないってことだ。
 それから、忘れちゃいけないのがエイズ。あとで詳しく説明するけど、日本ではHI
Vというエイズの原因ウイルスに感染している人が年々増加している。これも深刻な問
題だ。
 感染症は治療も大事だけど、同じくらい、いやそれ以上に予防も大事だ。エボラのと
ころでそれは言ったよね。病気は治すことより、かからないことのほうが遥かに大切な
んだ。
 STD=性感染症を予防する方法はいくつかある。でも、いちばんパワフルな予防法
は性教育だ。性を学ぶ理由のひとつが、ここにある。一見、性教育とは関係なさそうな
内科医のぼくが、長い間性教育に関わってきた理由もそこにある。
 STDはセックスによって起きる。性教育があれば、そのリスクを回避できる(可能
性が高い)。
 いや、STDだけじゃない。他にもセックスにはいろんなリスクがついてまわる。た
ぶん、そういうリスクは、みんなが想像しているよりもずっとたくさんある。そういう
リスクを回避するにも、性教育は有効だ。どんなリスクがあるのかってことはあとで詳
しく説明する。
 学校教育の目的はたくさんある。でも、そのなかでも特に大事なのは「生き延びるた
めのスキルを学ぶこと」だとぼくは思う。文部科学省も学習指導要領のなかで「生きる力」と銘打っている。
「生きる力」「生き延びるためのスキル」というのは、リスクを回避したり、リスクを
克服する能力だと言い換えてもよい。しかし、リスクを回避したり克服するには、まず
そのリスクを認識できないとだめだ。認識できないリスクは回避も克服も不可能だ。
 セックスにまつわるリスクがある。感染症もそのひとつだが、それだけじゃない。そ
ういうリスクを回避し、あるいは克服するにはセックスにまつわるリスクの認識が不可
欠だ。どうやったらその認識が可能になるか。
 それは「学び」による以外に他はない。よって教育が必須ということになる。
 すでに述べたように世の中には「性教育なんて必要ない」「寝た子を起こすな」と性
教育に否定的な見解を持つ人もたくさんいる。しかし、そのような見解は短見というも
のだ。それが短見である理由も本書で解き明かしていく。
 ただし、本書はそこで終わりにはならない。
 ぼくの本は、たいてい二重仕掛けだ。
 以前、『1秒もムダに生きない』(光文社新書)という本を書いたことがある。これは
一種のタイム・マネジメントの本で、時間をいかに有効に活用するか、そのスキルを伝
授する本だった。
 でも、この本はただのスキル集じゃない。単に時間を有効に使うだけでは、時間に追
われる悲しい人生にしかならない。
 ミヒャエル・エンデは『モモ』という童話の中で「時間泥棒」を紹介していた。あく
せくと時間に追われて生きる虚しい人生がそこにはあった。それじゃだめで、スキルを
使って獲得した時間をどうやって使うかが大事だ。大切な家族との時間、ゆっくりとし
た思考の時間、豊かな生活のための時間に転じる必要があるのだ。それがなければ、時
間を削り取るスキルを獲得しても意味なんてない。そこを伝えずに、単に時間を削り取
るスキルばかり紹介しても、意味がないとぼくは思っている。
 同じように、セックスに関するリスクを認識し、回避し、克服するスキルだけ学んで
も不十分だとぼくは思う。本書も、単なるリスク回避のスキル本、マニュアル本にはしたくない。
 いったんある議論を展開しておいて、それを否定し、ひっくり返すような議論を弁証
法的な議論とここでは呼んでおきたい。
 みんなが学校で学ぶことはたいてい「正しいとわかっていること、正しいと決まって
いること」だ。だから、教わったことをそのまま受け入れ、記憶し、飲み込めばいい。
 でも、勉強科目の全てが「正しいとわかっていること、正しいと決まっていること」
とは限らない。「それが正しいんですね」と素直に受け入れる勉強もあるけれど、「それ
は本当に正しいんだろうか」と疑ったり、悩んだりする勉強もあるんだ。
 日本ではこういう「疑う」「問う」「悩む」タイプの勉強が少なすぎるとぼくは思って
いる。性教育にもそういう「疑う」「問う」「悩む」部分を残しておきたい。否定したり、ひっくり返したりしながら「グズグズと悩む、考える」弁証法的な議論をしたい。
 そういうわけで、本書でも「生き延びるための」方策としての性教育の必要性をまず
は論じていきたい。けれども、その議論の先にあるものは「それだけではだめだ」なん
だ。弁証法的な議論というわけだ。
 時間を削り取るだけのタイム・マネジメントは虚しい。同じように、リスク回避、安
全追求のためだけの性教育も等しく虚しいとぼくは思う。そこから導き出されたのが本
書の後半に出てくる「絶対恋愛」の存在可能性、というわけだ(まだ全然説明してない
けど)。みんなに疑い、問い、悩んでほしいところだ。

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