piece of resistance

9 バリウム

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 医学が進歩した、進歩したと人は口をそろえて言うけれど、ならばなぜ、かくも切なる祈念のもとに待ち望まれている改良がいまだなされていないのか、秀美は心底ふしぎに思う。同じ経験の持ち主であれば十人中十人、百人中百人が現状を憂いているに相違ないのに、と。
 勘のいい方はもうお気づきだろうが、そう、ここで問題となっているのはバリウムの味である。
 この二十年間、年に一度の人間ドックで胃のX線検査に臨むたび、秀美は「今年こそ」とその進歩に期待し、その都度、玉砕させられてきた。
 バリウムは変わらない。量こそ多少は減ったにしても、液状のコンクリートでも飲みくだしているかのような、あのなんとも耐えがたくのっぺりした喉ごしは昔のままだ。秀美はそこに医学の限界、もしくは医学者の限界を見る思いがする。
 まかりまちがってもノーベル賞には繋がらない「バリウムの味」に肝胆を砕くより、より崇高な課題を研究テーマとして掲げたい。「味」なんて下世話なものはその筋の人間に任せたい。彼らの気持ちはわかる。
 しかし、と秀美は思うのだ。もしもバリウムがもっと万人に愛される味であったなら、人々はより気安く検査室の鉄扉をくぐり、結果的に、生死を分ける病の早期発見率が上がる。それもまた偉大なる医学への寄与ではあるまいか。
 
 今年こそ、その道理をわきまえた研究者の労が報われ、バリウムの味に一大革命がもたらされていますように。裏切られても、裏切られても、今年もまた秀美は一縷の望みを託さずにいられない。
 検査室へ入った秀美に医者がこう告げる。
「今年は、だいぶ飲みやすくなりましたよ」
 あるいは、こんなふうに。
「今年から、あっさり、こってり、ふつう、のオプションがつきました」
 ああ、そんな朗報を聞けたなら、オプション料金だって惜しみはしないのに――想像するだに秀美の心は躍る。
 が、そんなことは断じて起こらない。今年もまたあの鉄扉の奥では去年と寸分たがわぬ悶絶が待ちうけているのだ。
 そんな絶望の底で順番を待っていた秀美は、ふとあることに気がついた。
 検査室の扉に注意書きの紙がある。

『バリウム検査を受診される方へ』

 去年もこんな紙があったっけ? あったとしても見過ごしていた。
 秀美はにわかに上体を乗りだし、目を凝らした。

『①バリウムは少量ずつ口に含んでください。
 ②バリウムはゆっくりと少しずつ飲んでください。』 

 書かれていたのはこの二点のみだった。二箇条に分けるほどでもなさそうな①と②を、その真意を探るように読み返すにつれて、絶望一色だった秀美の胸にはほのかな希望がわいてきた。
 そう、研究の遅れに焦れていたのは患者だけではなかった。現場のスタッフたちも思いはひとつ。故に、この病院では「味」が変わらないならばせめて「飲み方」を変えようと、受診者の苦痛軽減が図られた。
 バリウムはまずい。どう転んだってまずい。けれど、ちびちび飲むことで、その味はまだマシになる。いや、敢えて①と②に分別して念を押しているのを見るに、だいぶマシになるのだろう。
 ちびちび行こう。秀美は決意した。
 思えば、これまでの二十年間、自分はあまりに事を急き、バリウムを一気に飲みすぎていたのかもしれない。それぞ悶絶の主因であったのかもしれない。
 今、求められているのは「濃く短く」から「薄く長く」への転換だ。となると、ここで倣うべくは茶道の優雅なる身のこなしだろう、と秀美は思う。ゆったりと、丁寧に、たおやかに。そう、バリウムを「かっこむ」「流しこむ」のではなく、「押し戴く」のだ。

 長い待ち時間の末にようやく番号を呼ばれた秀美は、茶室へ足を踏みいれるがごとく静々と鉄扉をくぐり、X線検査装置に身をゆだねた。否、私が身をゆだねているのは悠久なる時の流れ――バリウムの入った紙コップを手に、雅なる古都の美景へ思いを馳せる。
 ところが、である。ちびり、ちびりと優雅に喉を潤しはじめた秀美に、小窓を隔てた管理室から担当医の声が飛んだのだった。
「はい、ぐぐっと、一気にいきましょう」
 明らかに声が急いている。
 彼はあの貼り紙を知らないのか。知らないふりをしてさっさと受診者をさばき、昼休みに入りたいのか。 
 病院スタッフと担当医との断絶を垣間見た秀美は、どちらを信じればいいのか迷った末、信じたいほうを信じることにした。
 ここは森羅万象の小宇宙。そう心で唱えつつ、ちびり、ちびりとバリウムを押し戴いていく。
「はい、ぐぐーっと、飲んじゃってくださいね」
 野暮なる声は雅の怨敵。一杯の茶を戴くは、おもてなしの心を戴くことなり。
「どうしました? ささ、ぐっと、ぐっと!」
 一杯のバリウムも一期一会の出会い。軽んずるは茶の道に非ず。利休の心に非ず。
「はい、はい、はい、ぐぐーっ、ぐぐーっ、ぐぐーっ」
 ちびり、ちびり、ちびりーー。  

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