川上弘美×穂村弘

前編 言葉への支配欲求

言葉への支配欲求

川上 あの、私から質問していいですか。穂村さんは、今までに小説を書いたことはありますか? もしくは、将来書きたいと思っていますか?
穂村 小説を書いたことはないに等しいですね。書きたくても書き方がわからなくて。小説家の人に短歌を書いてくださいっていう依頼はまずないだろうけど、小説以外のことをやっている人、詩人とか劇作家とかミュージシャンとかに小説を書いてみませんかっていう依頼はあるんですよね。
川上 いろいろいい作品がありますよね。
穂村 川上さんは、翻訳家の岸本佐知子さんとの対談でもそういう話をされてますよね。
川上 以前本屋さんで公開対談した時ですね。
穂村 彼女は本当のことしか書けないと言っていて。
川上 そうそう、小説を頼まれたけど日記になってしまったと。
穂村 川上さんは逆にフィクションじゃないと書けないから、エッセイを頼まれた時に小説を書いて渡したと言ってましたよね。その対談で、文体だよ、という川上さんの御指摘がありました。要は文体の有無なんだと。小説を書けるか書けないかと言うのは、小説の文体がみつかるかどうかだから、見つかった時が書けるときだって。僕もそう思うんですよ。
例えば、サッカーを見ていると、選手たちはゲーム中に「俺は今サッカーやってるぞ」なんて思っていない。それは当然だと思うけど、もしあのなかに一人だけ、「俺は今サッカーをやっていることを忘れないようにしよう」と思わないとラグビーになっちゃうって人が混ざっていたら、その人はサッカー選手としてダメでしょう?
僕が小説を書こうとするのはそれに近くて、今は小説を書かなきゃいけない、と思ってしまうんです。

 

川上 それはよく分かります。私も俳句を作るときに、最初の頃は「俳句を作らなきゃ」と思ってました。
穂村 文体というのは、暗黙のルールみたいなものですか?
川上 なんというか、感覚なのかな。短歌にも俳句にも五七五七七や五七五などの基本の型があるでしょう。その型が、身体に身についているかどうかというのが、小説の文体を持っているかどうかということとちょっと似てるかな。
穂村 はっきりした型がない分、小説の方が難しく思えるんです。以前、「ティッシュが切れていた」というフレーズを思いついたときに、小説の出だしみたいだと思ったんです。でも、次の行を書こうとすると「ティッシュが切れていた」が輝かしいものになるように続けたくなってしまう。この一行をすごく暗示的で啓示的で象徴的なものにみせたいって。そのテンションが過剰なんだと思う(笑)。

川上 短歌や俳句は短いから、一行一行に輝きがないと成り立たないのかもしれない。穂村さんが小説を書こうとすると一行一行に力をこめすぎてすごく濃くなっちゃうということなのかな。
穂村 そうですね。詩人の方の小説とかも割とそうじゃないですか、初期の頃は。
川上 そうかも。
穂村 これは詩に近いなあっていうテンションでしょう。それがだんだん薄まって物語になっていくっていうか。
川上さんの小説を読んでいると、よく考えるとこれは変じゃない? というか、不思議なことがいっぱい出てくるけど、読んでいる時には自然に感じてるんですよね。
川上 変ですか(笑)?
穂村 どうしてそうできるんでしょう。僕が書いたら逆になるというか、変なことが自然にみえるんじゃなくて、普通のことが変にみえてしまう。
川上 今私は朝吹亮二さんと松浦寿輝さんと三人で詩の同人誌を作っているんですけれど、第一号で初めて詩を書くことになった時に、松浦さんに詩と小説の違いを訊ねてみたんですね。そうしたら松浦さんは、詩をしばらく休止して小説を書き、再び詩に戻ってみると、小説を書いていた時には言葉がずいぶん荒れていたことが実感された、とおっしゃっていたんですね。荒れる、というとよくないニュアンスがあるように聞こえるけれど、かならずしもそれだけではない。詩では、一つの単語一つの言葉と向き合って、愛しんで、手の中で転がしてあっちから眺めたりこっちから眺めたりして、言葉自体の手触りを思いながら作るけれど、小説ではもっとスピードというか立ち止まらない勢いのようなものが必要で、そうするとひとつの言葉だけとかかずらわってばかりいられない、という疾走感を要求される。それができないと散文は濃密になり過ぎてしまう可能性ががるという意味ではないかと思うんです。
穂村 言葉の流れ方のちがいということでしょうか。ただ、そうは言っても、川上さんの小説はポエティックで、小説の中にはもっともっと散文的な、いわゆるストーリーに奉仕するような文体もあると思うんです。それはそれで別な価値を作りますよね。
川上 まあ、それはいろいろありますよね。穂村さんも、もしもそういう荒れた感じが生理的にイヤだというのでなければ、いつか小説を書き始めるのかな。
穂村 僕の場合は、今のお話にも関わるんだけど、言葉への支配欲求が強すぎるんじゃないかという気がするんです。
川上 支配欲求というのは、つまり書かれたもの隅から隅までの全部を支配していたいということ? 
穂村 そう。短歌だけじゃなくて、例えばエッセイの中で内容的には世界に打ち負かされるようなことを書いていても、文章自体の流れのレベルでは自分は王様なんだという意識があって、その傲慢さを捨てられないっていうか……。

「酸欠」の世界

川上 穂村さんは『短歌の友人』の中で世界が酸欠状態にある……と書いていますね。「酸欠」というのはどういう意味なのか教えて下さい。
 

 穂村 言葉には、コミュニケーションツールである側面と、言葉自体の感触や息遣いという側面とがあって、詩や短歌は主に後者の価値を求めるでしょう。で、コミュニケーションの側面が弱いから読者が一読してわかって共感するって風にはなりにくい。一方、小説では、いわゆる「ストーリーのための文体」は、かなりコミュニケーションツールに近い機能を持つけれども、川上さんが書くような詩的な小説の場合には、幅が結構あって、この数冊(『風花』『真鶴』『どこに行っても遠い町』)の中でも明らかに違う。
川上 濃淡があるかもしれませんね。
穂村 ええ。それを川上さんはコントロールできるんだと思う。「酸欠」というのは、そういう詩的な言葉自体の息遣いが生き延びる余地がない世界かな。今、現実の世界で結構みんなぎりぎりまで追い詰められていて、おそらくはサバイバルの必要性からコミュニケーションそのものがすごく価値のあることみたいになっているところがある。
川上 いかに書くかということより、意味自体が重要になってしまうということ?
穂村 そう。小説がフラットな平べったいものになっている。僕らが思春期のころは、とんがって、ちょっと読んだだけじゃ意味がわからないようなのがかっこいいという流れがあったでしょう。今の若い人たちは、そういうのがかっこいいと思わないみたいだから。
川上 実際にそうなのかな。短歌の世界はそう?
穂村 短歌は明らかにそうですね。
川上 具体的にはどういう感じなのかな。
穂村 「女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る」(斉藤斎藤)、「牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に」(中澤系)、「症状を用紙に記す「できるだけ詳しく」って、この二行の幅に?」(兵庫ユカ)、いずれも若い歌人の作だけど、システム化されきった社会のなかで、甘い夢を捨ててフラットになることでなんとか生き延びようとしているんだと思うんです。80年代の僕らが若者だった頃はあり得なかった歌い方ですね。酸欠じゃなかった時代というのは、もっと遡ると、小説で言うと三島(由紀夫)とかの頃かな。それは言語による革命みたいなものがまだ信じられた時代であって、できないなら腹を切る。本当にそういうことをした人がいる時代。寺山修司もやっぱり言語や映像による表現の革命を信じていたと思う。
川上 戦後、一度は失ってしまったけれどこれで新しい日本が始まって、という時代には、革命が起こりうると思えたと……。
穂村 多分、学生運動なんかとも空気的なリンクはあったと思うんです。でも僕らの時代でももう言語による革命というのは実感できなかった。だけどまだそういうものに対する憧れは一応あったじゃない。
川上 革命、という激しいものではなかったかもしれないけれど、何らかの新しいものをつけ加えなければだめだ、という感じはいつもありましたね。
穂村 ええ。表現というのは世界を更新するものなんだという。
川上 更新……かあ。
穂村 世界を更新するといっても、経済や政治の方が現実的じゃないかと言われたら、まぁそれは確かにそうですよね。さらに言うと飯を食わなけりゃ小説も短歌も書けない。だから今みたいに追い詰められた状況だと、意識がフラットになるのは分かるんだけど。
川上 でも、穂村さんは、言語による革命というものと自分はどうも違うと思いながら短歌を作り始めたんじゃない? 日常の中に、いかに輝くものを見ようとするかを悩みながら言葉を選んでいくという作り方をしているんだと、私は思っていました。
『シンジケート』を出した時に、この歌が通用するくらいなら俺は腹を切るという人がいたと『短歌の友人』の中に書いていらしてびっくりしました。上の世代から見ると、今穂村さんが若い人に向けて酸欠と言っているような……、そういう関係だったのかな、と思っていたんです。
穂村 うーん。逆だと思うんですよね。「おいしいデザートありませんか」と言っている人がいると、自分に飢えた経験があったら、根本的にむかつくっていうか。
川上 そうか。豊かな世界で幸せにやってるやつが、世界のことも考えないで暢気に短歌作って、という、そういう感じの反発だったのか。
穂村 多分そうだと思う。ある批評会のとき、「ここまで何線で来たの?」って聞かれて、「車で来ました」と答えた時の嫌悪の表情。
川上 ふうん。
穂村 別に罪じゃないと思うんだけど、でも「批評会に車で?」みたいな。車と言っても、タクシーじゃないですよ、自分の車ですよ。
川上 それももう学生じゃなくて。
穂村 もう働いていたんですよ。でも相手の選択肢の中に車というのはありえない。それはもう生理的な嫌悪感だったんでしょう。

2009年6月5日更新

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川上 弘美(かわかみ ひろみ)

川上 弘美

1958年東京生まれ。作家。94年「神様」でパスカル短篇文学新人賞を受賞しデビュー。96年「蛇を踏む」で第113回芥川賞、2000年『溺レる』で伊藤整文学賞、女流文学賞、01年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、07年『真鶴』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。著書に『どこから行っても遠い町』『風花』など。

穂村 弘(ほむら ひろし)

穂村 弘

<1962年5月21日北海道生まれ。歌人。1990年に歌集『シンジケート』でビュー。短歌のみならず、評論、エッセイ、絵本翻訳など広い分野で活躍。2008年に『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、『楽しい一日』で第44回短歌研究賞を受賞。著書に『整形前夜』『現実入門』『本当はちがうんだ日記』など。

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