ちくま学芸文庫

斬新で画期的な世界史のエッセンス

福岡伸一さんは『マクニール世界史講義』をどう読んだのか。PR誌「ちくま」より福岡さんの書評を掲載します。

 中学二年生の頃だったろうか。熱心な社会科の先生が、夏休みにこんな宿題を出してきた。「近代、世界はヨーロッパ化されたが、それはなぜか、調べなさい」。今にして思えば、中学生に与えるにしてはあまりにも無謀な問いかけである。たぶん社会科の先生は、暗記に陥りがちな歴史の勉強にこそ、じつはおおきな問いかけが必要だと伝えたかったのかもしれない。
 ヨーロッパ化、というのは欧州の列強諸国、つまり白人の国が覇権を競い合って世界に進出し、自らの支配下に置こうとした、その動きのことである。その主体がなぜヨーロッパ諸国であって、日本を含むアジアやアフリカ、あるいは南米の人々ではなかったのか、という問いなのだ。端的にいえば、なぜヨーロッパは進み、なぜ私たち日本は遅れていたのか、という問いでもある。
 もうひとつ、進んでいる、あるいは遅れているとは、いったいどういうことなのだろうか。そもそも歴史や文明は──ちょうど生命が未分化な段階からより分化された段階へ進化したように──必然的な発展段階を進んでいくものなのだろうか。
 自分がこの宿題になんと答えたのか、全然思い出せない。どのみちたいしたことは書けなかっただろう。けれども、もし、あのとき本書を読んでいたら、どうだっただろう。中学生には難しすぎたかもしれない。しかし間違いなく、歴史を学ぶためにこんな視点があるのだという新鮮な感激に打たれたはずだ。
 マクニールは、歴史を語るにあたり、偉人の名前、あるいは年号や条約の名前などを使わない。彼が用いるのは、なんと生物学の用語だ。ミクロ寄生とマクロ寄生。バクテリアや昆虫といった微小生物が、人間の食料や人間の身体に入り込んで、その資源を侵食することを指す。ある地域の人口や人間の諸活動はたえずミクロ寄生とのせめぎあいと動的な平衡の関係にあった。
 熱帯アフリカで出発した最初の現生人類は、同じくその場所に密集していたミクロ寄生体の緻密な網の目に囲まれていた。人間の数が増えれば、すぐに感染は広がった。食料の入手や保存もミクロ寄生によって制限された。だから「私たちの遠い祖先の数は自然の均衡においては比較的少数に留まった」。
 その後人間は、気温が低く、乾燥した圏内へと移動したことによって、高温多湿を生存条件にしていた多くのミクロ寄生体から逃れることに成功した。そのかわり人間は寒さに耐え、水を得る方法を編み出す必要があった。このようにマクニールの世界史は、まず生物学的・生態学的条件によって何が規定され、何が生まれたのかを探り当てるというアプローチで進む。
 そして画期的なのが、ミクロ寄生に対置されるマクロ寄生という概念である。ミクロなレベルでは絶えず生存を脅かされてきた人類は、マクロなレベルでは、物陰から突然現れたプレデターによって一瞬のうちに捕食されてしまうという恐怖からは解放され、食物連鎖網の最上位に立った。しかし、人間は人間自身による収奪からは逃れることができない。これがマクロ寄生だ。食料の生産者はその一部を地主に納めなければならず、都市の労働者は政府に税を払わなければならない。
 一見、非対称なマクロ寄生がどのような諸条件をもとに生まれ、発達してきたのか。それが私たちの文化や文明に何をもたらしたのか。そのプロセスがスリリングに解析されていく。「世界のヨーロッパ化」、西洋の台頭とはまさにこのプロセスだった。マクニールの斬新で画期的な世界史のエッセンスが、このほど筑摩書房から優しい語り口と読みやすいサイズで邦訳されたことは非常によろこばしいことだ。
 本書の原本は、一九九二年に出版されたThe Global Conditionだが、もともとマクニールの『世界史』(A World History)の邦訳が出たのが一九七一年、まさに私が中学生になろうとしていた頃のこと。社会科の先生はマクニールに感激し、彼の世界観をわたしたちに伝えたかったのかもしれない。

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