妄想古典教室

第三回 おタマはなぜ隠されたか?
股間表現をめぐる男同士/女同士の絆

おタマをめぐる男同士の絆

 ところで、師の死に様から自らの死を見積もるというのは僧侶であればふつうのことなのだろうか。もしそうだとするなら、実尊の弟子という弟子が師のための供養像を造っているはずである。多くの弟子のうち、尊遍だけが、実尊の死に強い衝撃を受けているのは、この師弟がとりわけて特別な関係にあったせいではないのか。

 『春日権現験記』巻十五第四段には、実尊と尊遍の深い絆が記録されている。元仁元(1224)年11月27日、実尊は菩提山で前の大僧正信円のための仏事を執り行う大役を担っていた。ところがその前夜に持病の喘息の発作が出て、翌日のつとめが危ぶまれる状態となった。遺恨に思っていたところ、まどろみに夢を見た。実尊は、その夢を彼に仕えている頼憲という僧に次のように話した。「汝のうしろの前栽に、鹿が一頭、縁に首をかけて我に向かって立っているのを見て目が覚めたのだ。不思議のことだ」。鹿は春日大明神の乗り物だから、頼憲は春日大神明の加護があるのだと感涙する。夢告のとおり、実尊の具合は良くなり、翌日の仏事を無事につとめることができた。

 しかしこの物語は、ここでは終わらない。実尊が春日大明神の夢告を得ていた、ちょうどそのころ同じく菩提山に入っていた尊遍得業がこんな夢を見ていた。部屋の中を見回すと、垂れ布をかけたところがあって、その布を引き上げてみると大きな鹿が一頭立っていた、というものだ。この段の結びは「大明神、和尚を守り給ひける、いと尊かりし事なり」となっており、実尊を春日大明神が守護したことをいうのだから、尊遍も鹿の夢を見たことは直接には筋にはかかわらない。それでもここにどうしても尊遍の夢についていっておく必要があったのは、ひとえに実尊と弟子尊遍とが、同じ夢を見るほどに一心同体であったことを是非にも記しておきたかったからであろう。その一心同体ぶりは、単に弟子尊遍もまた実尊とおなじくらいにその仏事を大切なものと感じ、是非にも仏事をつとめさせてやりたいと強く願っていたというだけではない。春日大明神の夢告が同時に授けられるほどに、春日大明神公認の男同士の強い絆があったのである。

 二人の絆を思うとき、師を慕う弟子の発願する像が、こんなにも無防備な全裸像であったのはなぜなのか。たとえば平安時代末期には、女房たちが仕えた主人の追善供養のために普賢菩薩を描いたという記録がある。たとえば、『玉葉』には、養和2(1182)年の正月十二条に、崇徳天皇中宮藤原聖子のために女房たちが普賢十羅刹女像を作図したとある。

 普賢菩薩が示唆するのは極楽往生ではなくて、兜率天往生なのだから、それは女たちに支えられた信仰である。というのも、『法華経』によれば、極楽には、男しか行かれないのであり、女が極楽往生するためには、「変成男子(へんじょうなんし)」といって男の体に変身しなければならない。ただし弥勒菩薩のいる兜率天は女でも入れるのであった。男になんてなりたくもないと考える女たちは兜率天往生を志向しはじめた。特に1052年以降、末法に入ってからは、次に仏になることが約束されている未来仏たる弥勒菩薩を頼って兜率天に生まれ変わったほうがよいと思う人が増えて、阿弥陀来迎に代わって弥勒来迎がしきりと描かれるようになっていく。

 ともあれ、自らの往生を夢見るのなら、主人を聖化し普賢菩薩にみたてるのが自然の発想だろう。尊遍は、死を恐怖する願文を書いておきながら、なぜこんなにも頼りなげな姿の実尊像を造らせたのだろう。水野敬三郎は実尊と尊遍のホモセクシュアル関係をひかえめに注に示唆している。

 

実尊と尊遍の間には、師弟の域をこえた特殊な関係、感情が存在したのかもしれない。尊遍造像願文中の「云真云俗蒙厚恩」という言葉もそれを暗示するように思われる。

 

 水野氏は、願文に書かれた、「真に云わく、俗に云わく厚恩を蒙った」を仏道の師弟関係をさす真の厚恩だけではなく、俗にいう性愛関係という厚恩をも蒙ったと読み解き、「師弟の域をこえた特殊な関係、感情」を暗示している。十四歳差の師弟は、「俗に云う」ところの稚児愛にはじまった関係だと想定することができる。だから尊遍は、生前に馴染んだ実尊の肉体を生きているときのそのままに身に近く置いておきたかったのだということだ。

 

肉体を永久保存する

 この時代、裸形像は流行していたから裸形につくった地蔵像や阿弥陀像に衣を着せて祀る形式は少なくなかった。しかしたとえば伝香寺の裸形地蔵は、股間に渦巻き様の象徴を掘りつけているのに対して、実尊像のそれは、かなり大ぶりでまるまるとした蓮の花である。通常、裸体像における股間表現は、陰馬蔵(おんめぞう)と呼ばれる表現をとる。陰馬蔵とは、『岩波仏教辞典』(第二版)によると次のようにある。

 

仏陀に備わるとされるすぐれた身体的特徴(三十二相)の一つで、色欲を離れた高潔な人の男根は常に体中に蔵されており、外部には顕れないというもの。漢訳語に示されるように、ときにその様子が馬の陰部にたとえられるが、原語自体に〈馬〉の意味があるわけではない。

 

 つまり、原語にはそんな意味はないとはいえ、要は立派なモノが腹の中に隠れている馬のように、男根が表に顕れていない状態をいうのであって、そしてそれは色欲とは無縁であることを意味しているというわけである。

 実尊像の股間にあるものは、確かに男根ではないのだけれども、だいぶ大きく表に出ているように思われ、それはつまり色欲の度合いの強さを示しているということになるのだろうか。ともあれ、尊遍が造像した裸体像は、地蔵像ではまったくなかった。やけに人間味にあふれた生身の実尊の像であったのである。ことほど左様にプライベートな像であったために、尊遍は、自分の死後に、この丸裸の像はいったいどうなってしまうのだろうと心配しはじめた、と水野敬三郎は想像する。

 

 ところで改変の仕方を見ると、(一)改変時に裸形像自体にはさしたる損傷がなかったと思われること、(二)この改変は極めて手間のかかる作業であり、これだけの手間をかけるならば、むしろ新たに一像を造立する方が簡単であったろうとさえ思われることなどから、この改変にはよほど強い動機があったと推測される。(中略)

先師実尊に擬した地蔵菩薩像を裸形のままにこの世に残してゆくのにたえられなかったのではないか。その裸形をかくし、永久保存をはかるため、木造の着衣を貼装させたということは、ありうるように思われる。

 

 つまり裸体像を損なわないまま、そっくりそのまま地蔵像の中に入れるという、おそろしく手間のかかることをしたのは、自らの死期の近いのを知った尊遍が師の姿を裸のままで残していくのがたえられなかったからだというのである。

 それで実尊のごくプライベートな肉体を「永久保存」するために地蔵像のなかに隠したのだというのである。たしかにやたらに手の込んだ貼装作業の過程をみるにつけ、この肉体を保存することへの強い執念を感じざるをえない。しかしなぜ地蔵像としたのだろう。

 新薬師寺に安置されているこの像は、もとは当寺にほど近い地蔵堂に安置されていたもので、明治二(1969)年に新薬師寺に移されたという。

 ハンク・グラスマン『地蔵の顔』(Hank Glassman, The Face of Jizō: Image and Cult in Medieval Japanese Buddhism, Honolulu: Univ. of Hawaii Press, 2012.)によれば、藤原氏の氏の社たる春日社と氏寺興福寺を間近にひかえた新薬師寺周辺では、鎌倉中期から後期にかけて春日神信仰と混交するかたちで地蔵信仰が栄えた。ことにそれは巫女、遊女、白拍子といった女性芸能者たちによって支えられていた信仰だという。春日若宮神社のおん祭で猿楽、神楽や細男(せいのお)などの舞が奉納されることは知られているが、芸能の発祥の地であった若宮拝殿は、巫女の本拠地でもあって、そこには地蔵が祀られていたのだという。のちにこの機能は新薬師寺へ移された。かくいうわけで、新薬師寺周辺といえば地蔵信仰のメッカなのである。

 これほど面倒な改変の末に、実尊おたま像を阿弥陀でもなく弥勒でもなく、地蔵像になしたのは、ここが地蔵信仰の中心地であったせいもあるだろう。さらに言えば、実尊は苦しみの果てに死して、ことによると地獄に堕ちたかもしれないのだから、それを救ってくれるのは地蔵しかいないということがある。極楽にいけねば阿弥陀の加護は得られないし、兜率天にいかねば弥勒に守護されることはない。地蔵は、地獄絵にもしばしば登場し、地獄に堕ちた者の前に顕れ、錫杖を差し出して、そこから救い出してくれる形象であった。

 さて、実尊の肉体を内に秘めつつ生まれ変わった像は、完全なる地蔵像であって、すでにそこには実尊の影はなかった。

 

景清伝説との交差

やがて地蔵となったこの像も経年劣化していき、目がつぶれたようになってしまった[fig.4]。するとこんどは、そこに盲目となって日向に流された景清と関わらせた物語が読み込まれるようになるのである。

[fig.4]景清地蔵修復前

 

 景清が源氏方に破れ、盲目となって日向国に流されたというのは、能の演目の「景清」の語る物語である。しかし新薬師寺に伝わる「景清地蔵尊来由」によると、景清地蔵は、景清の母が護持仏としていたもので、この地蔵に安産を祈願して生まれたのが景清だったというのである。のちに源平の合戦となり、平家一族が没落したとき、景清の母は春日の里に隠れ住み、地蔵尊に祈った。景清は春日の里にやってくるがそこで眼病を患い盲目となる。しかしこの地蔵尊に祈ると眼病がたちまち治った。その代り、この地蔵尊の右目が閉じてしまった。以後、安産と眼病封じの霊験がある地蔵として人々の信仰を集めたというのである。したがって、景清地蔵とは、景清を象っているわけではなくて、景清の身代わりとなって目をつぶしてしまった地蔵をいうのである。この物語ができたころには、景清地蔵の目は修復前の姿のように両目ともにつぶれていたわけではなくて、右目だけが損なわれた状態であったのだろう。このように、物体としての彫像は、造像当初の意図から離れて、年を経て劣化していくごとに、物語を新調しながら、その時々の信仰を形成していくのである。

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