荒内佑

第3回
戦場のiPodとこの世界の片隅に

今、注目のバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、<日常>とそこに流れる音楽の話を綴る初めての連載が「webちくま」にてスタート。毎月1回、第4水曜日の更新です。

 

 戦時下における音楽の利用について、検索をかけたら恐らく腐る程テキストが出てくるだろう。実際にぼくが検索窓に打ち込んだのは「イラク戦争 iPod 」「Iraq war iPod」だった。というのも、イーストウッドの映画『アメリカン・スナイパー』のとある場面で、スナイパーの耳元に突っ込まれたイヤフォンがアップル社のものに見えたからだ。実際、映画を見返していないので確認はできていないが検索結果の中で印象的だったものは2つ。まとめサイトのニュース(2007年)「イラクに派兵された米兵が銃撃された時、胸ポケットに入れていたiPodが盾となり命を救った」というもの。もう一つはTIME誌のweb版(2011年)「アフガニスタンの前線において米兵はブラックベリー(スマホ)とiPad、MacBook、PSPを携帯している。ジェネレーション・キル(殺戮世代と訳せばいいのか。イラク戦争を舞台とした米国ドラマのタイトルでもある)はジェネレーション・iPodに変わりつつある」というニュースだった。こうして米兵に限らず現代戦において兵士がiPodを携帯していることはぼんやりと想像していたものの、これらのニュースによれば「米兵がイラク兵を狙撃する際にiPodで音楽を聴いているのではないか」という自分の見間違い(かも知れない)に起因する予想は、事実無根の思い込みではないといえるだろう。


 20世紀と21世紀の戦時下におけるメディア化された音楽のあり方の違いのひとつは、圧倒的な量の音楽が戦場に持ち込まれることだろう。もちろん、第二次大戦やベトナムではいくらかのレコードが、湾岸ではCDやカセットが聞かれただろう。だが、それらは量において物理的に限りがある。イラク以降はiPodがあり、更に現在はネット環境があればクラウドに上げられたものなら実質なんでも聞けてしまう。また、専門家ではないので想像の範疇を出ないが、前世紀において、戦時下の音楽利用は非戦闘地でのプロパガンダが主な目的だったように思う。「戦争音楽」として意図して作曲されたもの(軍歌や軍隊マーチ等)、あるいは意図されていないもの(ナチスによるワーグナーの利用等)も、戦争の「ために」設らえらたことが誰の目にも明らかだったはずだ。つまり、意図されていない音楽は戦争利用というフォーマット変換なくしては活用されなかった。しかし、現代の戦場にはiPod等の携帯音楽プレイヤーによって戦争とは無関係なまま(無変換のまま)の音楽が「大量」に持ち込まれる。あるいはストリーミングされる。休息中に、ワークアウト中に、見張りの合間に、戦闘中にプレイするのだろうか。もちろん兵士がiPodを持ち歩くのがけしからん、と言っているのではない。だが音楽家ならこう考えてしまうだろう。自分の音楽がスナイパーのトリガーを引かせてしまうかも知れない。あるいはトリガーから指を離させるかも知れない。果たしてこれはロマンティック過ぎる加害/被害妄想だろうか。もしくはある程度のリアリティを有することなのか。確かなのは世界中の無数の音楽が戦場で再生されているということだ。


 今年、『この世界の片隅に』というアニメーション映画が公開された。以下はネタバレも含むし、この傑作への賛辞はそれこそネット上に山のように転がっているので最低限のあらすじだけ書こう。本作は第二次大戦中の広島の軍港、呉市に嫁いで来た18歳の「すずさん」が主人公である。これまでの戦争アニメ、戦争映画と決定的に違うのは、空襲で逃げ惑ったりするシーンや軍艦や軍用機の戦闘シーンは極力抑えられ、戦時下における日常生活を徹底的に描いたところだ。特に広島市に原爆が落とされた時の描写は、つまり広島市と呉市の距離感の表現は不気味なまでにリアリティがある(原作のほうは更にハードコアな表現を用いている)。そんな戦時下、お嫁に来たすずさんは生活難の中、生来の想像力をもって、配給の僅かな米と道ばたに咲く草花等を混ぜたおかゆをつくり、着物を裁ってもんぺを縫い、鷺の羽でペンをつくる。しかし、終戦日にラジオから流れる玉音放送を聞き、家を飛び出し突っ伏して泣きはらす。精神科医/批評家の斎藤環氏の指摘によれば自らの「加害性」に気付いてしまうのだ。「正義が飛び去った」国において、生活の、愛おしい程の工夫が戦争の一端を担ってしまっていたことに打ちのめされる。


 この場面を見て、戦場で再生されるiPodのことを思い出さずにいられなかった。意図せず戦争に組み込まれたものたち。一方は音楽で他方は生活。戦地で聞かれる音楽に、戦時下で営まれる生活に、加害性はあるのだろうか。だが、無情にもイエスだろう。音楽も生活も、ただそこに「ある」だけのものゆえ、いとも簡単に戦争と手を結ぶし、時には戦争を潰しもする。メディア化されたものは(としておくが)、今やどんな音楽も純粋無垢ではいられないかも知れない。戦場に溢れる、ただの1ミリも戦争を意図していない音楽。それはすずさんの姿と重なって見えてくる。ならば、こう言うこともできるだろう。戦場のiPodに入れられた無数の音楽と同じくらい、世界中にいるはずの「すずさん」の生活がある。戦争に抗するとは、つまり誰かの生活を思い起こす事にほかならない。