上田麻由子

第3回・出口のない小さな檻のなかのまぼろし

『CLUB SLAZY』シリーズ

 大都会の片隅、ディリーダリィーストリート24-7番地。「ガーネットカード」と呼ばれる招待状が届いた者だけが知るその場所は、心に傷を抱えた女性たちを癒す場所。血のように赤いガーネットが埋め込まれた古びた木の扉を開けると、そこでは煌びやかなショーステージが、夜ごと幕をあける。ハットをかぶり、ステッキを持った怪しげな支配人がステージにあらわれ、高らかに宣言する。「今夜あなたは選ばれた! 夢から覚めても夢が見られる。お代は決していただかない。そのかわりあなたの、涙だけここに置いて帰って」。その熱気に圧倒されながらも、抑えきれない高揚感のなか、「レイジー」と呼ばれる5人による、めくるめくパフォーマンスが始まる――。

 

2・5次元を「感じる」作品

 2013年に始まり、去年12月に幕を閉じた『CLUB SLAZY』シリーズは、ルックス・歌唱力・ダンスと三拍子そろったキャストたちの迫力のショー、魅力的な「レイジー」たちの軽妙洒脱なやりとり、緻密に構成された作品世界……と、エンターテインメントとして質と、見るものを選ばない間口の広さを両立させた稀有な作品である。これまでに公演6本、ライヴ3種類が行なわれている「原作」のない舞台オリジナル作品を、このコラムで取り上げることに、違和感を覚える方もいるだろう。

「レイジー」を演じる、大山真志、太田基裕、加藤良輔、渡辺大輔といったキャストは、いずれも『ミュージカル 「テニスの王子様」』でその名を知られるようになった俳優であり、他にも2・5次元舞台で活躍するキャストが名を連ねている。そのため、当然、劇場につめかけるファンに占める2・5次元好きの割合は高い。また、この作品の成立背景のひとつに、作・演出の三浦香が手がけた『夜のミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜Sweet Dream Express』があること、また『CLUB SLAZY』を経て、そのキャストを三浦が「ミュージカル『Dance with Devils』」に絶妙な形で、オリジナルキャストとして出演させていることなど、2・5次元舞台作品との相互影響関係がある。しかし、この作品に2・5次元を感じる理由は、それだけではない。

 

2次元的なキャラクター・物語構造

 まずは、登場人物のキャラクター性の強さがある。アルファベットの頭文字をAから順に冠する「レイジー」たちをはじめ、出てくる者はみな2次元のキャラ顔負けに「キャラ立ち」している。舞台上では自信満々で絵に描いたような王子様(金髪ではなく黒髪系)なのに、普段はギャルっぽい口調で死にたがりのBloom、俺様キャラで常にハイテンション、トップエースを虎視眈々と狙うCoolBeans、飲んだくれで天真爛漫、それでいてどこか悟ったようなところのあるDeep、なにより、ステージの裏方、お世話係、狂言回しなどなどさまざまな役目を涼しい顔でこなし、ほとんどアンドロイドのような慇懃無礼さと、底知れない魔性の色気をまとうQは、この作品の象徴的存在だ。

 それから、作品世界の複雑な構造がある。店の歴史や、そこにいた「レイジー」たちの辿った足取りが、一つの公演内はもちろん、公演を重ねるにつれ少しずつあぶり出されていく過程は非常に手が込んでいて、アニメや漫画など2次元の物語にじっくり取り込むことに慣れている観客たちをおおいに楽しませる。伏線を回収しつつも謎は謎のままにとっておくこと、とりわけレイジー同士に執着や愛、葛藤などさまざまな感情を絡みつかせながらも、あくまで想像の余地を残しているところが、ホモソーシャルな空間のなかに関係性の矢印が飛び交うのを夢見る2次元のファンから支持される理由だろう。

 

忍び寄る嫌な予感

 そのうえで、あらためてメンズキャバレー・Club SLAZYとはどういう場所なのか考えてみたい。「レイジー」たちはステージに上がる以外は怠惰に、面白おかしく日々を過ごしている。かつて、そこから去った者もいたが、たとえばトップエースのActやKingにとって、Club SLAZYで過ごした時間はある種の青春であり、そこからの「卒業」は新たな旅立ちとして、せつなくもどこか爽やかに描かれた。

 しかし、シリーズ5作目『CLUB SLAZY ―Another World―』が、Club SLAZYという場所の印象を一変させる。3年前、店を出たいと申し出た当時の「レイジー」たちは、支配人のさらに上の立場にいるオーナーXから3つの選択肢を示される。1つは、このClub SLAZYの上にあるという「TORI」の世界で、心をなくし規律に縛られながら羽ばたく日を待つこと。もう1つは「Under World」という、自由ではあるが過酷な世界に行くこと。最後の選択肢は、規律と自由ある「SLAZY」に留まること。これまでも描かれてきた「外の世界」が2つに分裂し、そのいずれもの過酷さが示されることで、Club SLAZYという場所が、外界から守られた聖域でありながら、どこか不気味な檻のようにも思えてくるのだ(この2つの世界の描写は、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を想起させる)。

 あるいは、不気味な影はもっと前から忍び寄っていたのかもしれない。思い返せば、第一作『CLUB SLAZY』で、外の世界に魅了され10年前に失踪したトップエースのYaが、Club SLAZYを破壊するために舞い戻ってきていたではないか。まるで、かりそめの平和への恨みを晴らすかのように――。こんなふうに、公演ごとに新たな「文脈」を導入して、『CLUB SLAZY』は遡及的に物語の厚みを増していく。

 

2・5次元を生きることのメタファー

 そして、Club SLAZYはただのお店――そのビジュアルや衣装から想像されるような、ホストクラブ的ないかがわしくも魅力的な場所――以上の意味を帯びていく。たとえばそこは、一度死んだ人間が、生まれ変わりとか、成仏とかを待つ場所(アニメの『灰羽連盟』や『Angel Beats!』のような)であり、「レイジー」とは、人々を救済する天使のようなものではないのか、というような見方もある。

 あるいはまた、若く美しい「レイジー」たちを閉じ込め、夜ごとのショーで女性たちの心を癒す永久機関であるこのClub SLAZYに、2・5次元舞台や、その出演キャストたちをとりまく状況そのものが重なってみえることもある。そこには、女性からの歓声をほしいままにする、限られた「エース」や「スター」がいて、バックステージには複雑な人間関係や、愛や執着があり、外の世界に旅立っていく未来もある――。この『CLUB SLAZY』を2・5次元の作品のように感じるのは、それが現実と幻想とのあわいにある、儚く曖昧な、それでいてお祭り騒ぎのような時空間の寓話だからだ。

 

愛はまぼろし

 以上のように、さまざまな深読みを許容する作品であるいっぽう、『CLUB SLAZY』の魅力を知るには、とにかくライヴさえ見ればいい。ゴージャズなホーンセクションが盛り上げるジャジーな楽曲は、作品をまたいで、またキャラをまたいで歌い継がれ、そのたびに新たな色を帯びる普遍性と切実さがある。セクシーさと優雅さを両立させた「レイジー」たちの堂々たるショータイムはそれだけでも見ごたえ十分で、「かっこいい人が、かっこいい曲を、かっこいい振りつけで、かっこよく歌う」という、誰もが求めているはずなのに、存外誰もやってくれない理想を、真正面から叶えてくれる。

 他の2・5次元舞台のように、新人俳優の拙さが、2次元キャラの絶え間ない探究や、新人ならではの驚異的なポテンシャル、あるいは2次元と3次元のあいだで響きあう何かがスパークする――そんな奇跡の瞬間を目を凝らして待つ必要は、ここにはない。歌える・踊れる・芝居ができる、そのうえ外見にめぐまれ、スター性も抜群のキャストたちが「レイジー」として、みんなを楽しませてくれるのだから。2・5次元の殿堂たるアイア2.5シアターではなく、猥雑な歌舞伎町のライヴハウスFACEや、古き良きキャバレーを思わせるクラブeXのミラーボールきらめく円形ステージで。日本にブロードウェイがあれば、オフ・ブロードウェイはきっとこんな感じなのだろう。

 

Y「恋は絶対にしちゃいけないんだぞ」

Z「そもそも俺たち人を好きになるのか?」

Y「どうかな、人を好きにはなってる。毎日ステージの上で」

 

「レイジー」という存在の儚さが、作品ごとにいやましていき、予感していた終わりのときが、去年末とうとうやってきてしまった。3年と少し続いたシリーズは『CLUB SLAZY SPECIAL LIVE 2016』で、惜しまれつつも一旦は幕を閉じた。しかし、わたしたちは1作目『CLUB SLAZY』で、恋やぶれ傷ついた普通の男の子「遠藤」が「レイジー」になった、あの瞬間を思い出さなければならない。「終わりは始まり。新たな物語が幕を開ける。僕の名前はEからはじまるEnd」。まずは年内に放送されるテレビドラマ版(!)が、彼らの存在を繋ぎ止めてくれることを期待したい。

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