ちくま文庫

遊廓に生きた人たちと
ちくま文庫『聞書き 遊廓成駒屋』解説

ちくま文庫1月新刊から、神崎宣武著『聞書き 遊廓成駒屋』の解説をご紹介します。書き手は『さいごの色街 飛田』の著者である井上理津子氏です。断罪や郷愁ではなく、いかにして歴史と向き合うのかを問いかけます。

 先般、ある社会学者と話しているとき、こんな言葉が飛んできた。

「あなたたちライターは書くために調べるが、我々研究者は調べてから、いや、調べ尽くしてから書く」

 う〜ん、言われてみるとそうですね、と応じた。でも、研究者の著作は前提とする知識のハードルが高かったり、難解な言葉があったりしますよね、などとあのとき反論せずによかった、と『聞書き遊廓成駒屋』を拝読して思った。

 神崎宣武先生は、研究者なのに見事なのである(すみません、こんな書き方をして)。名古屋・中村遊廓の娼家「成駒屋」に残された生活用品から、かつての遊廓の有り様を解いていく様をつぶさに描いた本書は、入り口のハードルも低く、難しい言葉も出てこない。名古屋に土地勘のない読者も、遊廓にさして関心のなかった読者も、必ずや引き込まれること必至だ。研究者然とはまったくしていないと察して余りある神崎先生のお人柄と同じく、穏やかな筆致で綴られた文章は妙々の一言に尽きる。その中に、きりっとした独白も込められ、私なぞページをめくりながら思わず「おっしゃるとおり」「私もそう思います」と何度つぶやいたことか。

 たまたま時間があって名古屋駅裏を歩いていた神崎先生が、かつての中村遊廓の街区に入り込み、「成駒屋」が取り壊されかけているところに出くわす。ご専門の民俗学的興味から、その建物の中に「宝ものが埋っている」と、いわく「ひどく興奮」し、中を見せてもらったばかりか、廃棄処分される直前の約八〇種、四六〇点の民具を即座に運送屋に頼んで東京に運んでもらった──と、のっけから「行動する学者」ぶりに驚かされるが、これが端緒である。

 収集した民具は緻密に整理される。ひとつひとつの用具を計測し、写真撮影し、形態や素材の特徴、用途や使用年代などのデータを収蔵カードに記入するのだそうだが、もはや所有者も使用者もわからない「成駒屋」の用具には情報がない。情報がないから追跡しよう。うまい具合に知り合った中村遊廓の他の娼家の元「仲居」のお秀さんを主たる語り部に、十年もの謎解きの旅が始まる。私たち読者は、神崎先生にくっついて、一緒に旅させてもらう。

 私にとっては「なるほど」という納得と、「そんなにも」という驚きの連続だった。ここに、二つの想定外だったことを挙げたい。

 一つは、娼妓の「見栄の贅沢」について。

「成駒屋」の二階の九つの「女郎部屋」にあった枕屏風と衣桁と脱衣籠の三点は、ほとんど同じ形態のものだった。「ということは、一括して(楼主が)購入したもの」と想像できる、と神崎先生。なるほど。一方で、木綿布団が多い中、上等な絹布団が置かれた部屋もあった。瀟洒な姫鏡台や赤絵の火鉢、水屋には織部の抹茶茶碗や夫婦茶碗まで散見した。分を過ぎたものを娼婦が持っていたのはなぜか。

「女の見栄ですがの。娼妓(こども)同士が見栄をはりあう。とくに、なじみのお客ができると、何かしら部屋を飾ろうとしだすもんなんですの」とお秀さんが明かす。

 娼妓が「女の見栄」で自ら購入したものだったのだ。その背景に、娼妓が物品を購入すると楼主が中間搾取でき、娼妓の借金が増える仕組みがある。それは遊廓の「常識」として知られることではあるが、当事者たちがあっけらかんとこう説明したとは。

「買い物だって、勝手にさせるわけがないわの。(中略)出入りの商人がいて、それから買うんだわの。買わせる、といった方がええかの。そこに、女郎屋の親父(おやじ)のうまみがありますんじゃがの」(お秀さん)

「(瀬戸物の)値段が、だいたい倍とか三倍とかになる。そうじゃよ、先方の主人なり番頭なりとワシが談合しとるわけじゃが、その利ざやを折半して懐にいれるんだわの。女郎はなにも知らんで高い品もんを買わされるわけだ」(瀬戸物の行商人)

「なんともむなしいことだが、そこに(娼妓たちの)ある種の優しさがあるようにも思える」と、神崎先生のため息とも微笑みともつかぬ一文がやんわりと胸をさす。

 もう一つは、薬品と医療器具について。

「成駒屋」にはおびただしい数の薬品類と下の検査に使う器具が残されていた。神崎先生は、お秀さんから「娼妓が下の病気になっても、少々のことでは医者にかけずに、素人療法が行われていた」旨の証言を得て、薬品類の解明に乗り出す。

 医学博士が、薬の中にマラリア専用の解毒剤が含まれていることに気づき「これは、えらいことだよ」と興奮する。それらを掛け合わせて投薬すると、ショック作用による高熱が出て、梅毒や淋病の病原菌を一時的に抑えるのだという。「検査をパスするために、故意に高熱を出す工夫をしたということは想像できますな」。驚き、あきれる医学博士の言葉がある。

 マラリア専用の解毒剤が、なぜ遊廓にあったのか。医学博士は「戦争中であれば入手が可能であったのかもしれない」。お秀さんから「軍医あがりのもぐりの医者がいた」と教えられる。後に、神崎先生はひょんなことから元「偽医者」との対面がかなうのである。戦争中に軍隊の医療班にいて、外地で軍医の補助をしていた人だ。

 その人は「性病検査のとき、病気にかかっている女にいかに血液検査で陽性反応をださせないようにするかということはやりました」と語る。語りたくないことを、語ってしまおうと思った人は強い。「一般の常識では考えられないような療法をやっとりました」と淡々とした口調が続き、読むうち心臓の鼓動が速くなる。

 元娼妓、立ちん坊、口入れ屋、出入り商人、偽医者……。本書に登場したほとんどの人は、今はもう鬼籍に入っておられることだろう。神崎先生、よくぞ書き残してくださいました。そして、よくぞ文庫本化されました。と、大きな拍手を贈りたい。

 失われゆく光景に郷愁だの、建築の粋だの、近頃、妙に「遊廓好き」な人が多いようだが、まず本書を読んでもらいたいと願ってやまない。

 遊廓の中や周縁に与えられた運命を享受して生きた人たちの暮らしは、現在の視線で見ると残酷であっても、彼ら彼女らは一心一意であったと、本書は静かに語りかける。そこのところを踏まえてこそ「遊廓というもの」への理解なのだと思う。

(いのうえ・りつこ ノンフィクションライター)

 

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