妄想古典教室

第四回 男同士の恋愛ファンタジー

日本中世稚児愛物語

 稚児物語は、美少年たる稚児と僧侶の恋愛を描いたものだが、中世には継子いじめの物語などと並んで、人気を博した物語の一ジャンルであった。そういうお話はまったくのフィクションだったかというと、そうではまったくなくて、稚児への想いをつづった僧侶の歌が、勅撰集の「恋」の部立てに入首していたりもする。たとえば後白河院に命により藤原俊成によって選られた『千載和歌集』(1187)の「恋歌」672番歌には、仁昭法師の次の歌がある。

 

   横川の麓なる山寺にこもりける時、いとよろしき童のはべりければよみてつかはし    ける

世をいとふはしと思ひし通い路にあやなく人を恋ひわたるかな

 

 比叡山の寺にこもっていたときに「いとよろしき童」に出逢っているのだから、ここに女がいるはずもなく、お相手の童は男子なのであり、この世を厭い捨てるきっかけとなるはずの比叡山の通い路たる橋で出逢った人をどういうわけだか恋しいと思い続けているよ、というのである。法師がどうどうと稚児へのつきせぬ想いをうたって、それが勅撰和歌集に恋の歌として載るのである。男同士の恋愛を「男色(なんしょく)」と取り立てるように言うけれども、男女の恋歌と同じように和歌集に載っているわけで、法師と稚児との恋愛はそのように単なる日常であって、驚くべきことでもなんでもなかった。

 中世の人々はプラトニックラブなどのような観念も自制心も持ち合わせてはいないので、この場合の「恋」が性的関係を含むのはいうまでもない。白河天皇の命により、藤原通俊を撰者として編まれた『後拾遺和歌集』(1086)には、良暹法師の、恋人と一夜を過ごしたあとのちょっとどきっとするような歌がある。

 

朝寝髪みだれて恋ぞしどろなる逢ふよしもがな元結にせん

(寝起きの髪が乱れて恋心もしどろに乱れている 逢う方法はないかしらと思いつつ元結を結おう)

 

 髪の乱れを整えながら、千々に乱れた心も整えようといううたである。

 ふつう乱れ髪といえば、女の長い黒髪が共寝のあとに乱れるのをいう歌が多く、たとえば同じ『後拾遺和歌集』には和泉式部の次の歌が載る。

 

黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

(黒髪が乱れるのにもかまわず臥せっていると、この髪をかきやった人がまずは恋しく思い出される)

 

 稚児は、剃髪しておらず髷に結い上げることもせずに、長くのばした髪を一つに結んでいたから、髪が寝乱れてしまうことはよくあっただろう。「秋の夜の長物語」にも、僧と一夜を過ごしたあとの稚児の描写に「寝乱れ髪のはらはらとかかりたるはづれより、眉の匂ひほけやかに……」などとある。とすると、先の「逢うよしもがな」の良暹法師の歌は、稚児との共寝の朝を詠んでいるものということになる。

 こんなふうに僧侶が美しい稚児を見かけて恋に堕ちるのが現実社会にありふれたことだったとすると、ただ恋愛するだけでは物語にはならない。とくに、稚児物語は、酒呑童子だとか浦島太郎などの物語と並んで御伽草子の一部に入っていたりもするのだから、長編物語の『源氏物語』みたいに、ゆったりと何事もない日々を描写しているひまはない。短編のなかでなにか趣向をこらさねばならないという物語的制約がある。かくいうわけで、稚児物語は悲恋ものが多くなり、いわゆる泣けるお話が稚児物語の王道となっているのである。

 たとえば『千載和歌集』596番歌には、こんな悲恋を詠んだ歌がある。

 

  奈良に侍従と申しはべりける童の、泉川にて身を投げてはべりければよめる

                            僧都範玄

 何事のふかき思ひに泉川そこの玉藻としづみはてけむ

 

 奈良に侍従と呼ばれた稚児がいたが泉川に身を投げたという。それを憂えて、どんな深い想いがあって泉川の底の玉藻となって沈み果ててしまったのか、と詠んだ歌である。この歌は稚児物語の「弁の草子」にも引用されており男色悲恋ものの妄想力を支える一首であったらしい。

 ところで、男女の恋愛の場合、たとえば『源氏物語』の光源氏と空蝉の場合のように、男が女を落とすまでの恋のかけひきが物語的主題となることがあるが、稚児物語の場合は、僧侶が美しすぎる稚児に一目惚れして歌を送ると、わりとすんなりと稚児がその気になり、さっさと相思相愛になってしまうのが定石である。

 しかし男色物語が、恋の行方を読みどころにしないとなると、物語を面白くするためには、かなり大がかりなしかけが必要となってくる。というわけで、「秋の夜の長物語」では敵同士の恋、「鳥部山物語」は京と関東、武蔵国との遠距離恋愛など様々に趣向をこらす。「松帆の浦」は三角関係のもつれもので、相思相愛だった稚児と法師の間に、太政大臣の子で左大将という政界の大物が横恋慕してきて、法師を淡路の国へ島流しするが、稚児はけなげにも淡路をめざし、法師の死を知るという展開である。「花みつ」は継母にいびられて自害するという継子いじめもの。変わっているのは腹違いの弟を殺してくれと法師に頼んで、実は弟に変装して自分を殺させるという芝居じみた展開が用意されているところである。「あしびき」は、比叡山と奈良の遠距離に、継子いじめが加わって、継母が稚児を殺そうと武士に頼んだことで合戦にまで至るなどの、これまでの男色ものの全部盛りの様相を呈するが、別れ別れになっていた法師と稚児が後年再会し、二人して大往生するというめずらしくハッピーエンドを迎える物語である。「幻夢物語」は遠距離かつ怪談かつ仇討ちもの。京の僧侶が日光の稚児と睦みあう。僧侶は稚児を忘れられず、日光へ戻った稚児を訪ねて日光へ行く。宿をとったお堂に稚児がやってきて、再会。笛を託される。しかし翌日、この稚児は父親の仇を討ったものの、その仇の息子に殺されてしまったことを知る。京に戻ったのち、この僧侶は、美しい稚児を殺してしまったことを悔いて出家した青年と出逢うという筋書き。

 といった具合に、似たり寄ったりになりがちな恋愛話をいかにバラエティに富んだ筋書きでみせるかというのが稚児物語の腕の見せ所であったようである。

 ちなみに、稚児というのは「子ども」ではない。「ちご」ということばにはたしかに「子ども」という意味があるが、この男色物語に出てくる稚児は寺院で奉仕する成人男子である。この時代の成人は12歳だが、花形は16歳であったようで、稚児物語の主人公はおおかた16歳となっている。宮廷社会であれば、女房がするような役回りを寺院では稚児が行っているのである。したがって、女房と同じく、歌を詠むのがうまく、楽器を上手に演奏し、宴席には酌をして楽しませもするのである。

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