荒内佑

第4回
タバコをめぐる二、三の事柄

今、注目のバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、<日常>とそこに流れる音楽の話を綴る初めての連載が「webちくま」にてスタート。毎月1回、第4水曜日の更新です。

 

「禁煙化が進む国はファシズムへ向かう」とは誰の言葉だったろうか。ナチスドイツの反タバコ運動を思い出すまでもなく「禁煙ファシズム」という言葉があるくらいで愛煙家は国家が進める禁煙運動を危険視している。東京オリンピックに向けて、書くのも(読むのも)かったるいが「受動喫煙対策法案」が国会に提出される予定だし、渋谷のハチ公前喫煙所も撤去された。かくいう自分のタバコ歴も人生の半分を超えたので、めんどくせーな、喫煙所探すの、くらいのことは日々思っている。だが、禁煙ファシズムを糾弾している名だたる著名人(「禁煙ファシズム」で検索してみて欲しい)に楯突くつもりは毛頭ないが、恐る恐る私見を述べれば、愛煙家は依存性持ちだしニコチン中毒だしファシズムいうには少しばかり説得力に欠けるのでは……と思っております(敬語)。だって例えば……アル中が禁酒法を(モゴモゴ……すいません!)。いや、しかしぼくも日々実感しております。めんどくせーな、喫煙所探すの。


 ただ、禁煙化の流れの中でヤバいなーこれ、と思うのは国家がどうのこうのというより一般人が時折見せる過剰な嫌煙っぷりだ。コンビニなんかの前の喫煙所でタバコを吸っていると通りすがりの輩に「ウエーゲッホゲッホゲッホーウッワーくせ~ゴホゴホゴホゴホゴホ」なんてされたりする。実際にタバコが苦手な方だったらほんとに申し訳ないのだが、これは誇張ではなく(というか輩が誇張しているとしか思えない)本当にあることだ。別にアカデミズムを振り回す訳ではないが思想家の戸坂潤はこんなのを「制度習得感」と言ったりする。つまり国家や共同体が敷いた制度(この場合は禁煙運動)が個々人の中に内在化し定着すること。そこに主体的な判断はない。言うなれば、優等生ぶった小学生が廊下で走った奴を捕まえて「言ーってやろ~言ってやろ~先生に言ってやろ~」と騒いでいるのと変わらない。先生という権威の言いつけを守ることに喜びを覚える、と。子供はいい。だが、大人でそんなことするの、あまりに幼稚である。


 もう何年も前の話。Mちゃんという友達の音楽家と二人で演奏した。彼女はとても美しく、大正時代の図録から抜け出して来たようなモガ(モダンガール)スタイルをよくしていて、大学では音楽美学を学んでいた。少し変わった、しかし、とても聡明な感性を持った子である。そんな彼女と演奏の打ち上げ代わりに喫茶店でお茶をした時のこと(ちなみにその子は非喫煙者だ)。
「あれ、あらぴー(ぼくのこと)、今日タバコは? 」「いや、持って来てないんだよね」
 話をしているとどうやら彼女は喫煙を健康に良い/悪いといった観点から全く見ていなくらしく、まるで人類学者がネイティヴ・アメリカンのタバコについて研究するような関心を抱いている。
「えーなんでー」「いや、なんとなく……」
 彼女にとってタバコを吸うという行為そのものが不可思議でミステリアスに写るようだ。
「えー吸えば良いのに」「いやいや、大丈夫大丈夫」


 喫煙を容認してくれる子を褒めそやす、とかの下劣な話ではない。後日、Mちゃんから来たメールには「その後タバコを買って吸ってみました。甘い味がしたけどわたしにはやはり合わず少し咽せた……云々」とあったのには思わず笑ってしまった。あまりに昔のことで文脈は忘れてしまったがそのメールには「健康な美しさと不健康な美しさ」と書かれていたのを覚えている。「不健康な美しさ」なんてさすが大正ロマン派、デカダンだなあと感心したが、しかし、彼女の言葉を以てしてタバコを称揚する訳ではない。素晴らしいと思うのは、Mちゃんが自分で考えて言葉を見つけたことだ。喫煙に関して、今日日、「賛成か反対」という貧しい二項対立以外に出会うことなんて一体どれほどあるだろう?

 
 タバコは音楽や映画等の芸術に似て(イコールではないが)有用性から見れば無駄で、浪費でしかない。あらゆる無駄なこと、余剰が動物と人間を隔てるのだ、とは別にアカデミズムを振り回す訳ではないが(2回目)思想家のジョルジュ・バタイユがよく言うことだ。彼もタバコについて言及している。狂人的なイメージとは裏腹に喫煙に関する現代の言説と照らし合わせれば、その言葉のおおらかさに多少なりとも驚くだろう。これが書かれたのは1941~1942年とされている。ちょうどナチスがフランスを占領し始めたころだ。
「(前略)喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から解放される。喫煙することで、人は仕事をしながらでも<生きる>ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ」(ジョルジュ・バタイユ 中山元訳 『呪われた部分 有用性の限界』 (2003) ちくま学芸文庫 p131~p132)

 

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