ちくま新書

カルト・スターの「点」を繋げる

野中モモ『デヴィッド・ボウイ』(ちくま新書)

野中モモ『デヴィッド・ボウイ』(ちくま新書)について、ポップバンド「スカート」の澤部渡さんがエッセイを執筆してくださいました。PR誌「ちくま」2017年2月号より掲載します。

 若い頃、イギー・ポップとデヴィッド・ボウイに心酔していたという今年で57歳になる母が所有していたレコードのライブラリーから「ロウ」(1977年)を聴いたのは確か中学生の頃だったろうか。すぐに夢中になったとは言えなかったが、高校生になった頃には小遣いと気力が追いつく限りでカタログを追い、訳詞を読んでは自分にも理解できないものか、と必死になっていたのを思い出す。もちろん理解が追いつくはずもなく、膨大なカタログの一部分をいたずらに消費していくばかりだった。一枚ごとの変わりように最初は戸惑った。「ほとんど持っていたはずなのに」と言っていた母のライブラリーに残っていたのは何故か「ロウ」と「アラジン・セイン」(1973年)だけで、しかもその当時、テレビコマーシャルで流れていたのは「レッツ・ダンス」(1983年)だった。副題にもあるようにまさに「変幻するカルト・スター」。アルバムごとに手法は変わり、リスナーとして数をこなせばこなすほど見えなくなる部分もあった。だが、点は繋げば線になる。

 本書はデヴィッド・ボウイ、その出生から生涯を終えるまでの彼自身の哲学(の片鱗)が育っていく様子を追体験ないし嗅ぎ取ることが出来る。〝魅せられし変容〟の俯瞰図が誰もが手にしやすい新書という形で出版された事はとても意義深いものだといえるだろう。点を線にするためのヒントや答えが数多くあってその度に膝を打った。いくつか例を挙げるなら、まずジギーというキャラクターが生まれる前夜「ハンキー・ドリー」(1971年)のジャケットについて。〝ハリウッドの伝説的大女優のポートレートを模し、日常から浮遊したロマンチックなイメージを打ち出した〟ジャケットの対比として裏ジャケットでは〝肩まで届く髪を下ろして、もう少し素に近い姿を見せている。(中略)そこにボウイの決してうまいとは言えない文字で収録曲とクレジットが書き入れられ〟ていたという事。時系列でボウイの活動を追っていたら気づけたのかもしれないが、多くの情報の中からだと読み取る事ができていなかった。彼の中では「作り込み」と「私的な感情」がまさに表裏一体となっていたのだろう。

 他にもインターネットにもいち早く関心を寄せていたという話は特に驚かされた。1994年(!)には公式サイトを立ち上げ、1996年(!!)にはシングルの「インターネット限定バージョン」の配信販売。1999年(!!!)にはリハーサルからトラックダウンまでをインターネットでライヴ中継していたというのだから恐ろしい。
  2010年前後に学生だった私が胸を熱くしながら眺めていた世の中の流れと、ほとんど同じじゃないか! ボウイの10年先を行く感性は全く衰えていなかったという事を、私は恥ずかしながらこの本で初めて知りました。

 本書ではボウイが気まぐれと計算の中間でどちらに進むか、随所で人間臭さを見せながらの足跡をたどる事ができる。当時のガールフレンドとダコタ・ハウスのレノンとヨーコを訪ねると、あることでヨーコに咎められ口論になりヘコんでいた、という描写はボウイには少し申し訳ないがかわいらしい一面を垣間見ることが出来て個人的には嬉しかった。

 ジギー・スターダストでスターダムに上り詰めるまでの、ひとりの青年が野心を抱えながらロックスターへの道を模索し、時代を読み、常に刺激を求め、常に刺激を受け、知恵を絞りながらアウトプットし、表現を確立していく様子はたとえば死をきっかけにボウイを気にした人たちなら(ボウイの音楽はまだあまり聴いていなくても)きっと引き込まれるはずだ。意識的にその人物像を攪乱し続けていたのかもしれないが、長いキャリアと多面性から(こう言ってしまおう)誤解多きとっ散らかった芸術家〝デヴィッド・ボウイ〟または人間〝デヴィッド・ロバート・ジョーンズ〟の両面を楽しめる一冊になっている。

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