ちくま文庫

ニッポンの夜明けを照らした灯台

土橋章宏『文明開化 灯台一直線!』解説

明治時代の日本に洋式灯台を建てるという困難に立ち向かった男たちを描いた歴史エンタメ『文明開化 灯台一直線!』(土橋章宏)収録の不動まゆうさんによる解説を公開します。本作のテーマである明治時代の洋式灯台建設について、灯台マニアの視点から濃い解説を寄せていただきました。ぜひ、ご一読ください。

 「あっ、灯台だ。」灯台ものを見ると買わずにいられない「灯台マニア」の私は、本書の単行本版『ライツ・オン!』を手に取り、迷うことなくレジに向かった。
 『明治灯台プロジェクト』の副題が付いている、実話だとしたら「日本の灯台の父」と言われるリチャード・ヘンリー・ブラントンをはじめ、明治期の灯台を語る上で外せないヴェルニー、フロラン、ハリー・パークス、藤倉見達(ふじくらけんたつ)などは登場するだろうか? だとしたら、彼らはどのように描かれているだろう? と、ワクワクしながら読み始めた。
 開国間もない日本近海は、遠洋から見える目印がなく「暗黒の海」と呼ばれ、列強国と結んだ江戸条約で定められた八基の灯台建設が急務であった。しかし、当時の日本には最新の西洋式灯台を造れる技術者がおらず、リチャード・ブラントンが明治政府の招聘した「お雇い外国人」として一八六八年八月八日に夫人と長女を連れて来日し、十一月二十一日に灯台建設地を下見するためにマニラ号で横浜を出港した。
 リチャード一家が英国人ハーフの通訳、丈太郎を伴って、嵐を乗りきり長崎に入港するところから物語は始まる。帯同していたアンガス号修復のため、一ヶ月ほどの長崎滞在を余儀なくされたリチャードらは、伊王島灯台の建設に着手する。傲慢なリチャードと孤独な丈太郎は、田中久重ら様々な人々との交流を通し成長していく。次々と押し寄せる難題を乗り越え、灯台を点灯することができるのか?
 今まで何冊かの灯台小説を読んだが、本作のように灯台建築にフォーカスした作品には出会ったことがない。実を言うと、本書を手にした時も「また灯台が舞台の恋愛ものかサスペンスだろう」と高をくくっていた。なぜなら、物語の中で灯台のことを書こうとすると、役割や仕組みが一般に知られていないため、解説なしでは話がわかりづらく、解説を挿れると流れが滞ってしまうからだ。だが、本作ではリチャードと久重らとの会話の中に解説を入れる手法で、見事にこの難題をクリアしている。彼らのやり取りを読んでいるうちに、灯台のことがわかってくる。しかも、面白くて押し付けがましくなく、自然と入ってくる感じだ。私が愛してやまないフレネルレンズや回転機械など、マニア心をくすぐることも忘れていない。が、せっかく灯台マニアとして解説を書かせてもらうのだから、生意気だという声を覚悟のうえで明治期の灯台について私の知るところをここに綴らせていただきたい。

 日本初の西洋式灯台は一八六九年二月十一日に初点灯した観音埼灯台で、ブラントン(灯台好きの間ではこう呼ぶのが常識)が来日するより前に幕府に雇われていたフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(本書にも登場する)が造ったと言われる。そのため、彼の名前が日本初の西洋式灯台の建築者として真っ先に紹介されることが多いが、実は彼には灯台建設の経験がなく、実際に設計したのは助手のルイ・フェリックス・フロランだった。
 横須賀で焼いたレンガで造られた観音埼灯台は、一八六八年十一月一日に起工し、わずか三ヶ月ほどで完成している。どうやら、〝フロランにムチを振られて工事を急かされた〟らしい(その後、怒った作業員が相撲とりをつれてきてフロランを投げ飛ばし、驚いたフロランは二度とムチを振ることはなかった。というエピソードを聞いたことがる)。そこまでして初点日を二月十一日とすることにこだわったのは、その日が旧暦の元旦にあたるためで、まさに「日本の夜明け」というイメージを重ねる目論見があったからだろう。イギリス、フランス両国にとって日本での灯台建設は、国の威信をかけた重要事項であったことがうかがえる。
 本作でも再三話題に上っているが、日本に灯台を建築するにあたっての懸案材料となっていたのは、地震である。
 「東京の近くにはヴェルニーという男が急ごしらえで造った灯台があるが、あれは危ない。」(本文より)の言葉どおり、初代の観音埼灯台は約五十年後の地震で被害を受け、次いで造られた二代目も地震により傾き、現在の灯台は三代目である。
 そうなると、ブラントンが造った灯台はすごい。
 伊王島灯台は鉄造のため、そもそもの寿命に限りがあったと思われるが、代表作と言われる犬吠埼灯台、御前埼灯台等は地震に弱いとされるレンガ造りにも拘わらず今も現役で、まもなく点灯百五十周年を迎えようとしている。ブラントンはもともと鉄道建設が本業で、灯台設計一家として名高いスティーブンソン兄弟のもとで灯台に関する研修を受けている。そして「そんなもの、三ヶ月でマスターしたよ」(本文より)となる。日本に来てからも、スティーブンソンの指示に従い設計したところが多いようだが、犬吠埼灯台、尻屋埼灯台にはブラントン独自の工夫だと考えられる箇所がある。それは、灯塔の二重円筒構造だ。世界でも他に類を見ないのではないだろうか。ほかにも、彼が設計した石造りの神子元島灯台には、五重の塔さながらの御柱が灯台中心部に据えられている。
 このような構造にした理由が、地震対策かどうか結論づける確実な資料は見つかっていない。しかし、ブラントンが日本の地震に対して真摯に取り組んでいた事実は、彼の発表した論文からもうかがえる。
 このように、ブラントンが日本に残した灯台技術はとても優れており、現在でも高く評価されている。彼の帰国後、跡をつぐように灯台設計技師となった(おそらく丈太郎のモデルと思われる)藤倉見達はこの技術を引き継ぎ、日本で最も背が高い、美しく威風堂々とした出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)をレンガと石の二重円筒構造で造りあげている。

 そんなブラントンが造った灯台は、日本に今も十七基残っており、代表的なところでは、千葉・犬吠埼灯台の、その名も「ブラントン会」、静岡・御前埼灯台の「御前埼灯台を守る会」、福岡・部埼灯台の「美しい部埼灯台を守る会」などの市民団体が大切に保全活動や教育普及活動を行っている。「日本の灯台の父」とよばれるブラントンは、(昔の灯台守の手記には、「ブラントンは大きな犬を連れて村人に吠えさせ、その驚く様子を見て楽しんでいたらしく、村人にはあまり評判が良くなかった」というSっけのあるエピソードもあるが)日本では、いまでも灯台とともに愛される存在となっている。
 しかし、彼の故郷スコットランドを私が訪れた際、参観灯台のガイドをしている人にブラントンの日本での偉業を話しても、まったく知られていなかった。当時、イギリスは日本をはじめ、世界各地に技師を送り込んでおり、日本の灯台技術顧問という役職もアランとトーマス・スティーブンソン(兄弟)に与えられたものであった。ブラントンは異国に送り込まれた〝派遣技師〟という立場にすぎなかったのだ。
 しかし百五十年後、こうして物語の中で日本に蘇ったブラントンは、今どんな想いなのだろう。日本人の気質をボヤく「やはり野蛮だな」、「未開人だな。」(本文より)などの言葉も多く残されているが、日本を愛していたからこそ、こんなにも長く遺る灯台を造ってくれたと私は信じている。
 この物語がスコットランドの人たちにも知られるようになればいいのに。
 英訳されたり、映画化されたりして世界に飛び立つことを、灯台ファンとして心から望んでいる。
 そして、この物語を読んで、灯台に興味をもって、灯台を好きになってくれる人がもっと増えるといい。
 なぜなら、いま灯台は絶滅の危機に瀕しているからだ。
 古い灯台は補修という選択肢ではなく、取り壊して新築するという方法が選ばれることも多い。そうして作られた新しい灯台は、FRP(強化プラスチック)やアルミの簡易的でそっけないもので、光源はレンズを使用せずLEDだ。これでは物語も生まれない。
 こうした現象は目先の費用だけを比べることで起こるが、灯台を航路標識という役割だけでなく、近代日本を支えた文化財としても評価して欲しい。充分に観光資源、教育資源となる存在であると思う。経済性、効率性だけを優先させて、人々は幸せになれない。
 「海にでた人を安全に帰す」ために今夜も海を見守る灯台は、国の威信をかけて設計・建設した技師、ムチを振られながらも施工した作業員、命を張って光を守った灯台守、こうした多くの先人たちの想いの結晶なのだ。
 この物語をきっかけに、灯台がますます愛され、日本の近代化を照らした歴史的文化財として永く残っていくことを望まずにいられない。
 百年後の海にも、ブラントンの建てた灯台が光を放っていたら、どんなに素晴らしい
だろう。

2017年3月9日更新

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不動 まゆう(ふどう まゆう)

不動 まゆう

フリーペーパー「灯台どうだい?」発行人。3/21に『 灯台に恋したらどうだい?』が刊行。

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