単行本

近代日本の洋風建築 開化篇/栄華篇

後記

近代日本建築史の論考を図版や資料もたっぷり入れて全2冊で刊行。その刊行意図を語った「後記」を公開します。

 幕末の開国以後、ヨーロッパとの出会いの中で生まれた建築のことを近代建築という。
 その中身は、幕末から昭和戦前いっぱい作られた西洋館と、西洋館を否定して出現した大正以後のモダンな建築の二つからなる。
 開国から敗戦までの九十年の間、縄文時代このかた木造建築しか知らなかった日本人は、石と煉瓦に由来するヨーロッパ建築と格闘し続けてきた。長い日本の建築の歴史の中で見れば、飛鳥時代に大陸の仏教建築を受け容れた時以来の、正確にはそれ以上の、激しい変化の時代であった。

 五十年前、日本の近代建築研究に着手した時、先人による研究は、幕末から明治初期にかけての二十年間に集中し、洋式工場、居留地のコロニアル、大工棟梁による擬洋風の三つについて明らかにし、一山越えての谷間の停滞の季節に入っていた。最初の二十年間は記録も作者もあやふやな“神話の時代”といえるが、その神話成立の大筋を明らかにしたところでの一休み状態であった。
 神話時代を終わらせるべく来日したコンドル先生から始まる七十年間については、まだ歴史として認められておらず、白紙状態にあった。
 白紙に初めての歴史を書くにあたり、三つの方法をとることにした。

一、刊行されたすべての雑誌と本を読む。
二、残っているすべての建築を見る。
三、主要な建築家の遺族を訪れる。

 研究方法は徹底した実証主義にちがいないが、歴史をどう書くかについてはこの方法に納まらない気持ちを持っていた。はるか昔、歴史と物語は一体化し、神話として語り続けられていたが、自分の書く歴史はそうした遠い記憶につながってほしい、と。
 歴史と物語の二つのうち、歴史中心で書いたのは、学位論文をまとめた『明治の東京計画』(岩波書店、1982年)と『日本の近代建築』(上、幕末・明治編/下、大正・昭和編、岩波書店、1993年)である。
 一方、物語は、一冊の本の形をとらず、何冊もの本や雑誌への寄稿の形で書いて来た。物語らしく、人物を中心とする傾向も強い。
 それらはバラバラに書かれたこともあり、現在は刊行されていないので、齢七十に至ったのを機にまとめることにした。

    *

【開化篇】

「明治の都市と建築」
 明治の早い時期の都市計画と建築を支えた思想はどんなものだったのか。都市計画を動かしたのは、パリのような帝都を求める欧化主義と、それに対抗したのが自由貿易の都を求める商業主義で、結局、相討ちに終わっている。
 建築をリードしたのはまず文明開化の一時期の欧化主義とその後も続く近代化推進の考えがあり、次に現れたのはヨーロッパ流の建築観を日本に根付かせようという動きで、これは鹿鳴館の設計者として知られるコンドル先生と日本最初の建築史家の伊東忠太の二人がリードしている。
 
「明治の洋風建築」
 大学院生時代、恩師の村松貞次郎先生に言われて草稿を書き、それを読んだ先生はそのまま出版社に渡された。奥付に、村松貞次郎編、写真・増田彰久、文・藤森照信、となっているのはこうした事情による。
 幕末から明治初期にいたる神話の時代を主な対象に、錯綜きわまりないこの時期の西洋館を分類し、分類された各グループを系統付けた。後に手がける通史『日本の近代建築』(上・下)の萌芽となった成果である。

「ウォートルス、煉瓦街、そして銀座」
 研究を始めた当初、神話時代のスサノオノミコトともいうべきウォートルスについては、日本時代のことはおおよそ判明していたものの、どこで生まれなぜ日本に上陸したのか、十年ほど滞在して日本を去った後、どこでどうなったのか、謎のままだった。
 それから三十年してアイルランドに生地を訪ね、アメリカはデンバーの市営墓地に花を手向けることができるまでに謎の解明は進んだ。

「コンドル」「絵師暁英と建築家コンドルの間」
 村松貞次郎先生は鹿島出版会の依頼で土木と建築分野のお雇い外国人について一冊を約束していたが、執筆があまりに長引き、ついに、コンドルの分だけやってくれ、となった。コンドルについては、その日本趣味について関心があってあれこれ資料も集めていたので、書くことにした。コンドルは日本趣味を満たすべく来日したのだった。 
「絵師暁英と建築家コンドルの間」もその後の成果を納めている。

「国家のデザイン」
 この十巻からなる本(『日本の建築[明治大正昭和]』)は、日本初の近代建築家全集の性格を持ち、私は、企画委員を務めるだけでなく、三省堂に出かけ自分用のデスクに向かって編集の手伝いをした。むろん執筆もし、辰野金吾と長野宇平治の巻を受け持った。当時、辰野金吾も歴史研究の対象とはされておらず、文献を調べ実物の有無を確かめといった研究をしつつ執筆をすすめ、辰野の組織者としての業績とデザインの特質を明らかにすることができた。
 長野宇平治については、ロマンチックなデザイナーとしてスタートしながら、やがて古典主義へと回帰してゆく姿を描くことができた。シリーズ第一回として刊行され、日本人建築家についての初の本格評伝となり、また、私の関心が評伝にあることも明らかになった。

【栄華篇】

「丸の内をつくった建築家たち」
 日本を代表するオフィス街として知られる丸の内の開発が正しく伝えられていないと知ったのは『明治の東京計画』を書いた時だった。同書で開発の事情を明らかにしたが、しかし大量の日本初のオフィスビル群を設計した建築家とビルの建築的実態については手着かずだった。
 コンドル、曾彌達蔵、藤本寿吉、保岡勝也、桜井小太郎といった明治から大正にかけての綺羅星が、まずロンドンを範とし、次にニューヨークに学んで日本のオフィスビル建設に邁進した事情を明らかにするには、コンドル以来の原図を保管する三菱地所の図面庫の重い扉を開けてもらわなければならない。
『新建築』誌が「三菱地所の建築」の特集を出すことになり、ついに重い扉が開いた。予想もしなかったビル街計画やコンドル図面など、建築史家にとっては誰も知らない茸山に初めて入り、目移りしてしょうがない状態となった。歴史家の喜びの第一はやはり“ハツモノ”にある。

「岩崎家の残したもの」
 戦後に近代建築史研究が始まってから、長い間、大邸宅の研究は避けられていた。おそらく、戦後の民主化の動向の中で“金持ちの暮らしの研究ナンテ”と思われていたのだろう。
 戦前の日本一の富豪と申せばもちろん三菱の岩崎家だが、私が初めて岩崎家の暮らしぶりに目覚めたのは、熱海の岩崎家別邸を参議院議員の曾彌益(曾彌達蔵の次男)夫妻と村松貞次郎のお供をして訪ねた時だった。最後の岩崎合資社長岩崎小彌太の孝子夫人がまだ暮らしており、それまで入門謝絶であったのを曾彌さんが開けてくれた。そこで初めて、岩崎家の執事に会った。日本最後の執事は、戦前の岩崎家の住生活に関わるさまざまなことを語ってくれた。たとえば、小彌太が東京の本郷から熱海に来るときは、リンカーンを三台連ねたとか、市販の野菜は口にしないから専用の小農園があったとか。
 以来この方面に関心を持ち、やがて湯島の岩崎久彌邸の昔について娘の福沢綾子さんから聞き取り、広大な屋敷と邸宅の使い方を明らかにすることができた。その成果の一部は『日本の近代建築(上)』に図面として明らかにしている。

「丸ビルが建てられた秘密」
 数年前に建て替えられた丸ビルは、戦前はむろん戦後も長いこと日本で一番名高いビルだった。理由は、もののデカさを示す時、「丸ビル何杯分」とたとえられたからだ。今の東京ドームと同じ。
 でも、その丸ビルが三菱により計画された事情も、なぜフラー社というニューヨークを代表するビル建設会社がわざわざ来日して手掛けたかも知られていなかった。後に書くことになる「丸の内をつくった建築家たち」(前出)より前で、三菱地所の全面的協力もない状態で書いているから、公開資料と関係者へのインタビューがネタとなっている。さいわい、丸ビル、郵船ビルなどフラー社の仕事に関わった建築家への聞き取りを郵船ビル解体の時にやっており、その成果を生かすことが出来た。
 アメリカ式鉄骨構造で作らなければ丸ビルは十八年も工期がかかること、そのアメリカ式工事の実際について機械化のすごさとフラー社の傲慢さなどがインタビューで明らかになった。もしあの時、インタビューしておかなければ、丸ビルの勘所は謎のまま。

「東京駅誕生記」
 東京駅は取り壊されると覚悟し、歴史的事情だけでも明らかにしたいと思っている頃に書いた。この以前、辰野金吾の代表作であることは知られていたし、私も辰野の評伝『国家のデザイン』(『近代日本の洋風建築 開化篇』に収録)の中で触れてはいたが、東京駅に焦点を合わせたことはなかった。この文の目玉は、辰野以前に設計をしたドイツ人鉄道技師バルツァーの案で、ひどい略図にちがいないが、これで計画の起点が明らかになった。
 バルツァー案については続きがあり、だいぶしてから突然、新幹線実現で知られる鉄道技師の島秀雄から電話があり、手元にあるドイツの鉄道雑誌に載るドイツ人技師の東京駅案を見てほしいという。出かけると、そこにはバルツァー本人が発表した東京駅案が細かく載っている。この一件は『週刊朝日』連載中の建築探偵シリーズに載せ、その後、島先生も専門書としてまとめておられる。誰もやらないうちに手をつける“先行者利益”は歴史研究の場合も変わらないようだ。

「日本のアール・ヌーヴォー」
 日本で一番いいアール・ヌーヴォー建築が戸畑にあり、その設計者が辰野金吾と知った時は自分の不明を恥じた。辰野金吾の作品を見るべく戸畑の明治専門学校(九州工業大学)に行った時、学校の人に“近くに創業者の松本さんの家がありますが、寄りますか”と誘われたのに、断って帰ったからだ。戸畑の松本健次郎邸について『アール・ヌーヴォーの館』と題して一冊の本を三省堂より出すこととなり、気合いを入れて日本のアール・ヌーヴォーについて始点から調べ直し、また松本健次郎の関係者にインタビューして、一冊にまとめた。改めて読み返すと冒頭に「アール・ヌーヴォーの登場は、考えてみるとわずかここ十数年のことじゃないだろうか」と書いている。この一冊が刊行された三十年前は確かにそうで、美術ではあれこれ論じられ、啓蒙的書籍も出ていたが建築界では「十数年」のことだった。
 辰野金吾がアール・ヌーヴォーと自覚していたかどうかが辰野金吾伝記作家たる私には謎であったが、息子の松本肇によると父は辰野から教えられて「アール・ヌーヴォーというやかましい」スタイルであることを知っていたという。“やかましい”とは、説明されてもシロートにはよく分からない、といった意味だろう。

「日本のアール・デコ」
「日本のアール・ヌーヴォー」に続いて「日本のアール・デコ」を書いたのも、三省堂の松本裕喜のおかげだった。建築探偵団と称して白金を調べている時、人気(ひとけ)が絶えているのに門が開きちゃんと管理されている旧朝香宮邸の存在を初めて知る。出版の準備が始まってから後に、この邸宅はプリンスホテルから東京都に買い上げられ、さらに都立庭園美術館として公開されるまでの間に、この本は刊行されている。当時、アール・デコという様式概念が美術工芸の領分で日本に初めて紹介されていたが、日本の建築については全く語られていなかった。ゼロからの研究は私には性に合っているから、朝香宮邸のアール・デコ化の契機となった日本も参加した一九二五年のパリの「アール・デコ博」のことから調べ始めるのは楽しかったし、共同設計者の権藤要吉や朝香宮のご子息から昔話を聞くのも面白かった。大邸宅という失なわれ忘れられた世界について記録を残すことへの重要性を深く認識していたからだ。
 ヘマもあった。朝香宮邸から流れ出た膨大な建設記録が、当時毎週のように堀勇良と通っていた神田の古書店に店晒し状態で出ているにもかかわらず、入手せず、日大の山口廣研究室に納まってしまい、この本を書き始めてから改めて拝読させてもらっている。

「田園調布誕生記」
 建築探偵を堀勇良と始めた頃、東京中心部の調査は目途がついたところで郊外も調べようとなり、まず田園調布に向かった。駅舎はじめたくさん洋館が建っておりさすがは田園調布。開発者の渋沢栄一については『明治の東京計画』の時に調査済みだったが、論文としてまとめるつもりもなかった。そんな頃、鹿島出版会の森田伸子が山口廣を編者として『郊外住宅の系譜』を出すことになり、田園調布について頼まれ本格的に調査を始め、この文をまとめた。
 その後を述べておこう。まとめた段階では、比較のため見るべき海外の住宅地三つのうち、イギリスのレッチワースの田園都市と韓国のソウルで畑弥右衛門の開発した住宅地には出かけていたが、肝心の同心円パターンの手本となったサンフランシスコのセント・フランシス・ウッドは訪れていなかった。その後、東京の都市開発に詳しい猪瀬直樹と会ったら「行ったヨ」と言われ、研究者として少し恥ずかしかった。サンフランシスコの同心円は田園調布ほど明瞭ではなく、田園調布の同心円はなかなかのもの。渋沢栄一の発想のもともとの源は、彼が幕末に訪れたパリの郊外住宅地にあることは渋沢の回想から分かっていたが、その場所は不明のままだった。それがどこかを知り、実際に出かけて見聞できたのはずっと後になってからで、安田結子の研究のおかげ。

「忠太という人」
 日本の建築史の研究の開祖である伊東忠太は、建築史家であると同時に建築家でもあり、また妄想性の強い人物だった。彼が自作の随所に取り付けた怪物や幻獣の図像を集める企画を筑摩書房の松田哲夫が立てた。伊東の妄想性についてはいささか共感もあったのでこの文を書いた。

「今和次郎とバラック装飾社」
 今和次郎は民家研究の開拓者としてまた生活研究の草分けとして有名だったが、建築家としての仕事はなぜか忘れられていた。考現学の創始者であることは知られていたが、その重要性への認識は専門家の間でもなかった。
 しかし、震災復興期の弱小建築雑誌を丹念に読む中で、建築家としては日本はむろん世界でも刮目すべき仕事をしたことを知った。大正期に、かの分離派とは全く別の視点から近代という時代をとらえ、その視点からの表現をしていたのである。強い共感を覚え、新日本製鉄の企業雑誌にこの一文を載せた。その時はまだ、今和次郎の震災復興期の活動の遠い延長上で自分が路上観察を始めるようになるとは思ってもなかった。

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 こうしてまとめてみると、日本の近代建築を対象としてきた幸を感じる。
 日本の近代建築は、時間的には前近代と現代の間に、地理的には東洋と西洋の間に位置し、逆にいうと、日本の近代建築を通して前近代のことも現代のことも、東洋のことも西洋のことも考えることが出来る。
 もともと建築という表現は、材料、技術、思想、美学、社会、経済といった諸分野の影響を受けて生まれる。
 建築とは、あらゆるものをバケツに突っ込んで掻き混ぜて初めて一つの姿をとるような領分なのである。総合的というか雑合的というか二十一世紀には珍しい領分にちがいない。この総合的、雑合的、博物学的な性格が、私には合っていたと思う。
 好んで入ったというより青春の蹉跌と短慮の果てに入らざるを得なかった領分にちがいないが、やっていて飽きることはなかったし、やっているうちに好きになった。
 因果は巡る糸車、というけれど、あれこれ動き回っているうちに、編集者やジャーナリストの誘いに乗っているうちに次第に辻褄があってくる。そういう生き方をしてきた。
([開化篇]「栄華篇」の後記をまとめた。一部文章の順番を変え、省略したところもある。)

造幣寮工場玄関(ウォートルス 1871 大阪)

 

ニコライ堂(コンドル 1891 東京)

 

松本健次郎邸(辰野金吾 1912頃 福岡)

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