有馬トモユキ

#11.本当は誰が作っているのか

ウェブやスマートデバイスの普及にともなう「科学と芸術の融合」がもたらす環境の変化は、デザインをどう変えたのか。最先端の話題を紐解きながら、ゼロからデザインを定義する革新的なコラム連載第11回!

1)タスクの自動化

かつて漠として思っていたことがある。コンピュータでデザインをしている以上、コンピュータが限りなく頭がよくなっていけば、自分の思っていた通りのデザインが目の前に浮かび上がり、自分は選ぶだけで良くなるだろう、最終的には自分はボタンを押して、判断するだけが仕事になるのだ……と。これは勿論まだまだ先の話だ。しかし最近、ふたたび同僚の間でもよく出てくるトピックが「自動化」である。私もこのところはコンピュータにどこまで自動でタスクを割り振るか、について意識的に仕事をするようになってきた。

もっとも基本的な処理が「バッチ処理」である。1000枚の画像をモノクロ化して、名前をつけ直して、という処理のブロックは、仲間内ではレシピと呼んだりしていて、求める結果を綺麗に自動化できるとなかなか気分がいい。針の穴を通すような仕様を達成できたりすると人にも教えたくなったりする。Webの作成においては、組み合わせ次第で高度な自動化を達成するIFTTTなどの便利なサービスを使ったことがある人もいるだろう。

例えば、こういったものもレシピの一つだ。技術的なデモに使用するために、人物画のイラストレーションを500枚集めてくる。サイズは400 x 400px、構図は顔からバストアップがメインで、色は最終的にはモノクロとする。もちろん公共良俗に反しない表現で、重複や同一のイラストレーションの構図違いがあってはならない(簡単なレシピであるが、是非やり方を想像してみてほしい)。

異論もあるかもしれないが、デザイナーはもっと楽をするべきだと思う。カバーしなければいけない職能の範囲は拡大するばかりで、かつてはデザインと呼ばれなかった職能の領域に、その思考を植え込むこと=デザイン思考を浸透させることが大きな一面になりつつある。私たちデザイナーは、かつてはロットリングペンで綺麗に微細な直線が引けることや、混沌とした書類を綺麗にファイリングすることが訓練の一部だった時期がある。その価値観に乗り遅れてしまった世代としては純粋に尊敬の念を覚えるが、それらのスキルがコンピューティングに代替された時代で活動する立場としては、効率化によって空いた時間を本来目指すべきデザインの活動に志向したい。冒頭「デザイナーはもっと楽をするべき」と強い言葉を使ってしまい恐縮だが、つまりは「楽をする分、次のために時間を使おう」ということであろうか。余談だが、日常的に仕事を手伝ってもらうスタッフの選考についても、造形力や発想力と同時に、コンピューティングのスキルについて重視するようになってきた。それは何も専門性をともなう話ではなく、自然とモダンな道具を受け入れられるか、という態度といったほうが正しいかもしれない。

 

2)創造はどこまで自分のものか

このようにどこまでコンピュータにやらせるか思案している日々であるが、先日興味深いことがあった。あるユーザー・インターフェース系の研究者の鼎談を聞いた際に、「実はケータイ小説の何割かは増井俊之さんが書いているのではないか」という仮説が紹介された。これをもう少し詳しく解説すると、増井俊之氏はケータイ小説が流行した時期の、携帯電話において普及していた日本語入力システム「POBox」の開発者である。つまりケータイ小説を執筆した作家の意思決定のいくらかは、増井氏が担ったのではないかという仮説だ。

そんなことを言ってしまっては類似したあらゆることに、そういった例が当てはまってしまうのではないかと聞いた瞬間は思っていたが、きちんと考えるに値する投げかけのようにも感じる。つまり実は、「どこまで私たちのクリエイティブにまつわる意思決定は制御されているのか」という話だ。私たちはトリガーを引いているのが、あくまで自分であると認識していて、結果に至るまでのプロセスを自分が制御できていると認識しがちだ。しかし最近はほとんど、それは事実ではなくなってきている(関連:「未来、人間はデジタルアシスタントに「洗脳」されてしまうのか?」)。例えばデザインにおいては、Photoshopの開発者であるトーマス・ノールの思想にお世話になった覚えがないデザイナーは、もはや存在しないのではないだろうか。

こうした例は枚挙にいとまがない。私が思い出した極端な例としては「TrackingPoint」がある。これはいわゆるスマートライフルシステムで、銃にターゲットを指示すると、銃弾が外れる要素……風向きや手ぶれ、地球の自転などをコンピュータ側が支援して、最適な瞬間に自動で弾が発射されるというものだ。話を聞いて背筋に冷たいものが走ったのは、さらにこれが脆弱性が発覚し、「隣のターゲットを狙ってしまう」ハックをされたことがあるということだ。それが実行されてしまった時、射手にはどういった責任が発生するのであろうか……。

もう少し穏やかな例を一つ紹介したい。文章や画像、戦いだけではなく、イラストレーションの世界でも興味深いことが起きている。米辻泰山氏が作成した「PaintsChainer」は深層学習(ディープラーニング)の仕組みを応用して、線で描いたイラストレーションを自動着彩する仕組みだ。ある程度トレーニング(指示)を与える必要があるようだが、かなり「ちゃんと」塗れている。以前このコラムでも紹介したgrid.ioが未だに正式公開されていないなか、デザインよりも先にイラストレーションが一段進んでしまった、と感銘を受けた出来事だ。すでに数多くの作例が世に出ているので、Twitterなどで検索してみると面白い。

物騒な例も紹介してしまったが、私の基本姿勢としては、科学を敵にしてはいけないと考えている。私たちはどこまで自分が制御していて、どこまで制御「されることを許して」いるのか意識的になることで、自動化という「ツール」に対して正しい向き合い方ができるようになると思う。問題は先に挙げた、予期せぬ結果に対する責任の所在と、そしてツール自体を制作することの難易度だ。現在は、一つのツールやサービスにブレイクスルーがあった場合、寡占状態や規模の経済を非常に作りやすい状態だ。そうした際に、普及したものに対して私たちが個人単位でオルタナティブを示せる手段は限られているように思う。モダンなクリエイティブの環境を作っていくためにも、デザイナーはもっとツールの製作者たちに、積極的にアプローチしたほうが良いように感じている。

 

3)余談:制御を求める人々

普及したものに対して、違うアプローチで、自分たちが制御したい領域を自ら模索している人々も存在する。これはソフトウェアではなくハードウェア側の話だが、Massdropという共同購入サイトは「キーボード」というコミュニティが存在する。AppleやMicrosoftはもともと品質のよいキーボードを純正で用意しているが、それに飽き足らなくなった人たちが、自分たちが一番良いと思うカスタマイゼーションを小規模メーカーと一緒に作り上げている場だ。スペースキーの横にコントロールキーがないと我慢できない、修飾キーも数字キーも必要ない、スイッチ(キーの一つ一つ)はどこのメーカーの何番でなければ……。そうした一言ある人々が、今らしい活発なDIYカルチャーを生み出している。今やペンやマウスなどの入力デバイスも、ソフトウェア側との高度な連携において快適な挙動を作り出している。ユーザーに残されている制御可能な領域には、確かに人が集っていくようだ。

Massdropのスクリーンショット

 

 

 

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