荒内佑

第6回
映画におけるパリと中国のダンスホール

今、注目のバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、<日常>とそこに流れる音楽の話を綴る初めての連載が「webちくま」にて大好評、公開中です。 更新は毎月1回、第4水曜日になります。

 

 タイトルをつけてみたものの、ダンスについて何かテキストを書き、それを描写することは、音楽について文章を書くことよりもずっと困難なことに思える。例えば音楽の詩的、文学的な側面ではなく、より具体的なメロディやリズム、和声についてはある程度記譜できる訳だが、敢えて同じ切り口でダンスを語ろうとした場合、振り付けの有無にかかわらず踊る人を見てその動きをどれほど記号化できるのだろうか。野暮を承知で書くが、クラブでハウスやテクノがかかっている場合、そのビートを「4つ打ち」と言語化できるのに対し、それに合わせて踊る人間の挙動は、ほとんど言語外にあるといえる(もちろん、足をどれくらい動かす、ターンをする等は記述できるが、仮にそれを再現しようとした場合、音楽の方がずっと再現性が高い=記号化しやすい)。だが、このことを前提としつつも、ここで書きたいのは映画における<異形のダンスシーン>としか呼べないようなものについてだ。ダンスの記述不可能性(カタい!)を考えることで、2つの映画におけるダンスがどんな役割を担っているのか見ていきたい(なぜか論文口調になってしまう)。物凄く余談だが『ラ・ラ・ランド』は未見である。以下、2作品のダンスシーン概要。


『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年  ベルナルド・ベルトルッチ監督)
 パリのダンスホール。流麗なタンゴが流れる中で紳士淑女による社交ダンスのコンテストが行われている。そこへ泥酔した中年の男と、同じく泥酔した若い女がその男におぶられてフロアによろよろと入ってくる。そして端整なダンサーたちに混じって、2人は何か戯れ言を叫んだり、キスをしたり、床に寝そべったりしながら、だらしなくダンスをする。壊れた、パロディめいた社交ダンスといった感じ。当然、審査員の一人である妙齢の女性が怒り出しこの闖入者たちを追い出そうと躍起になる。酔った男はこの審査員を抱きかかえたり、ズボンを下ろしケツを見せたりしながらもフロアの端へと追いやられる。

『薄氷の殺人』(2014年  ディアオ・イーナン監督)
 中国の地方都市。体育館のような所で社交ダンスの練習が行われている。音楽はなぜか欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)のエレクトリックなダンスチューン。そこへ、またも闖入者。40歳前後の男性で、口ひげを生やし、オーヴァーサイズの革ジャンと黒いズボンにくわえタバコ。若い男女が相変わらず整然とステップを踏むのに対して、この男はディスコや自宅で気ままに踊るようにクルクルと回りながら、時には手で銃の形をつくりそれを撃つような動作をしながら、イナタいダンスをする。もちろん周囲からは冷めた目で見られている。


 全体のあらすじは各自検索願う、というか是非観てほしい。似ているからと言ってこの2シーンを同列に扱うのはいささか乱暴ではあるが(同列に扱うのだが)、『ラストタンゴ・イン・パリ』と恐らくそれにインスパイアされたであろう『薄氷の殺人』に共通しているのは、「ダンス場に闖入者が現れ、社交ダンサーと闖入者が対置される」という状況設定である。もちろん公共の場=安定した制度の中に異物が混入するという構造はこれらのシーンを強く駆動させている訳だが(両方ともラスト直前のフックとして機能している)、ここで注目したいのはそのダンスの<質感>についてだ。


 質感とはダンスが上手い、下手のクオリティー(品質)のことではなく、絹や綿を触ったときの感触であるところの手触りである(簡単に言えば、印象のことだ)。この質感をもたらす理由の一つに、演技指導こそあるだろうが「非ダンサーである俳優がほぼフリースタイルで踊る」ということが挙げられるだろう。つまり、それまで映画の中で主人公達がどれほど色情や悪にまみれようとも、そこには「これは演技である」という保険がかかっている訳だが、これらの生々しいダンスが始まると突如として、観客も、そして恐らく俳優自身も、これは演技なのか、それともリアルに踊っているのか急にその境界が分からなくなる。漠然とした不安や悪徳といったもの、画面に写ってはいけないものが入り込んでしまった感覚を覚える。言わずもがなこれらのダンスは、すっげえ練習したんだろうなぁ、とか、可愛いなあ~この女優のステップ、とか、ジーン・ケリーが雨の中でばしゃばしゃやってて素敵だわ~、とかいった純粋に客をエンターテインさせ、安心して観ることができるダンスとは全く異質である。


 もちろん両作品におけるダンスの質感は違うものである。冒頭でも書いた通り、それを具体的に記述するのはほぼ不可能だろう。ちゃぶ台をひっくり返すようだが、結局ダンスの質感がどう違うか、これは2万字書こうがどれほど言葉を費やしても、映画を観ることには敵わない(そして当たり前に、映画を観ればその違いを理解できる)。だが、改めて、これらの生々しいダンスが映画で担っている役割とは何だろう?


 仮に「社会と異物」という対比を描きたいのだったら、両作品とも主人公がダンス場で暴れ、喚き散らすだけではいけないだろうか? ダンスをせずに、そのような場面に置き換えても物語のあらすじは変わらないだろう。しかし、社会の中でただ暴れることと、制度化されていないダンスを踊ることは全く違う。なぜ俳優達は踊るのか。それは、ダンスそのものが雄弁な<セリフ>であるからだ。唐突だが、コレオグラフィ(振り付け)の語源はギリシャ語の「踊ること」と「書くこと」の2つの言葉に由来する。もしくは佐々木中氏によるピエール・ルジャンドルの解説によれば、ダンスそのものがテキストのことである。
『ラストタンゴ・イン・パリ』と『薄氷の殺人』のダンスは言葉にならない複雑な感覚や感情を身体によって表現、(カタく言えば!)構造化、セリフ化している。つまり、ダンスそのものが雄弁な<セリフ>であるといえる。更に言えば、これらのダンスシーンが映画にもたらすのは語られないセリフばかりでなく、語られない物語であり、語られない詩である。ダンスはあらゆる情報をまとっている。
 もちろんミュージカル映画のような所謂「一般的」なダンスシーンもセリフである。だが、質感において両作品のダンスはケタ違いに情報が多い。テキスト(文章)とテキスタイル(織物)が同じ語源を元にするように、演技とリアルの境界が曖昧なダンスには、言外のセリフだけでなく、彼、彼女の個人的な経験や歴史といったものが何重にも書き込まれ、編み込まれ、まさに織物のような質感を形作っている。口から発せられるセリフよりも、プロのダンサーの踊りよりも、時にそれらは饒舌である。観客はダンスを「読む」ことによって、感じたことのない複雑な味わいを与えられるのだ。


(長くなったついでに)追記。
 先日観た『山河ノスタルジア』(ジャ・ジャンクー監督)のダンスシーンがヤバく、この文章はそれについての前書きとして書いていたものですが既に規定文字数を超えているので、機会があったら続編を、と思っています。回収出来ていない箇所もあるので。コレが不評だったら書かないけど。ちなみに当連載を始めて半年になりましたが、当初この3月まで、という話から無期限延長となったそうで、嬉しいような死にたいような春らしい心持ちです。次回からは勝手にシーズン2と称して気楽な感じにしていこうかと思っています(全編アスキーアートとか)。よろしくお願い致します。