日本思想史の名著を読む

第7回 聖徳太子「憲法十七条」

「和」の日本思想?

 聖徳太子(五七四年~六二二年)をめぐっては、つい最近、教科書での呼称の改定が話題になったことが記憶に新しい。今年の二月十四日に、二〇二一年度から使用される新しい中学学習指導要領にむけた改定案が発表された。そこで、聖徳太子について「厩戸王(聖徳太子)」という名前に変える案が盛りこまれたのに対して、パブリックコメントで異論が百出し、国会質問でもとりあげられた。文部科学省はこれをうけて、三月末に告示する最終案では撤回する予定だと報じられている。
 教科書調査官の現役・OBの歴史学者たちが書いた、高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、二〇一六年)によれば、すでに現行の教科書でも、「聖徳太子」の称号と、『日本書紀』に見える実名としての「厩戸皇子<うまやとのみこ>」もしくはその原型と推定される「厩戸王」との両者を並記するのが一般的だという。
 「聖徳太子」という称号は、確認できるもっとも古い例としては『懐風藻』(天平勝宝三・七五一年成立)の序に見える。明らかに没後、かなりの年数がたってから、その功績をたたえて作られた称号であるから、実名もしくはそれに近いと思われる名前を中心にするべきだ。そうした研究者の意向を反映したいという事情と、「聖徳太子」も並記して残していることを考えれば、当初の改定案もそれほど無理なものではないのかもしれない。
しかし、没後に与えられた称号よりも、生前の実名を重視すべきだという立場をとるなら、たとえば明治天皇も「睦仁(明治天皇)」と書かなければいけないはずである。「聖徳太子」の称号を用いることを、ことさらに忌避する傾向が生まれたのは、かつてその思想が日本の伝統の根幹をなすものとして、高らかに称揚されたことに対する一種の反動なのだろう。
 石井公成の論文「伝聖徳太子『憲法十七条』の「和」の源流」(『天台学研究』第十輯、ソウル、二〇〇七年十二月。ブログ「聖徳太子研究の最前線」にてウェブ公開されている)によれば、「和」の思想を説いた偉人として聖徳太子が顕彰されるようになったのは、明治時代になってからのことである。もちろん、民間信仰においては早くから聖徳太子に対する崇拝は存在していた。だがその反面、近世の儒者にとって聖徳太子は概して評価が低い。たとえば頼山陽は『日本政記』で、儒学からすれば邪説である仏教の移入に努めたことに加えて、蘇我馬子が崇峻天皇を殺すのを放置したことを、きびしく批判している。臣下が主君を暗殺するという、忠のモラルを破る大犯罪と結びつく存在として、聖徳太子は批判対象でもあった。
 これに対して、近代になると日本の思想の伝統を象徴する偉人として、聖徳太子が大きく注目されるようになる。西洋語のconstitutionの訳語として、聖徳太子の定めた「憲法十七条」と同じ「憲法」が採用された事情も、そうした評価の転換を助けただろう。漢文で書かれた『日本書紀』の平安時代中期の訓法では、「憲法」の「憲」を「いつくしき」と読んでいる(家永三郎ほか校注『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年。以下、「憲法十七条」の本文・訓読は、同書のものを読みやすい形に改めて引用する)。貴く厳正なおきてを意味する漢字熟語である。当初は「国憲」などの訳語もconstitutionにはあてられていたが、やがて「憲法」が一般的になったことが、聖徳太子の人気をまず上昇させた側面はあるだろう。
 だが、「憲法十七条」の第一条を根拠にして、その「和」の思想への注目が一気に高まったのは、一九三〇年代になってからのことであった。とりわけ、天皇機関説事件ののちに政府が進めた國體明徴運動をうけて文部省が刊行した『國體の本義』(一九三七年)が、「和の精神」を日本思想の伝統の根本に位置づけ、その具体例として憲法十七条を挙げたことが大きな役割をはたした。石井の論文によれば、それ以後、国定教科書にも聖徳太子の「和」が登場するようになり、終戦による教育方針の変化をへたのちも、今度は平和のシンボルに用いられて、現在に至っているのである。

誰のための「憲法」か

 『日本書紀』推古天皇十二年条では、聖徳太子がみずから「憲法十七条を作る」と記され、そのあとに条文の引用が並んでいる。ここに言う「憲法」は、厳密に言えば西洋思想のconstitutionとは全く異なるものである。統治者と被治者とがともに従うルールがconstitutionであり、とりわけ近代の政治思想においては、支配・被支配の関係が生じる以前にこのルールが存在したと考えられる。
 したがって、constitutionに基づいて設立された政府の定めた制定法とは、重みがまったく異なるのであり、憲「法」、民「法」、刑「法」と、すべてが同列の「法」であるかのような錯覚を呼んでしまう「憲法」の訳語は、そもそも問題を含んでいると言える。「日本には近代憲法のずっと前に、すでに憲法十七条があった」などという自己賛美の議論は、まったく当を得ていない。
 では憲法十七条はいかなる意味での「法」であるのか。そのためには、この「法」――古訓では「のり」――が、誰を規律するものとして定められているのかを確認する必要があるだろう。第三条の冒頭は「詔を承<うけたまは>りては必ず謹め」である。そこでは「君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす」と、「臣」が日常の統治活動にあたって、天皇の命令を重く尊重しながら実行することを求めている。さらに第四条は、「群卿百寮、礼を以て本と為<せ>よ」と始まり、「群卿百寮」が民を治めるさいには、儀式・作法のルールとしての「礼」を浸透させることが重要だと述べたものである。「群卿百寮」は「臣」を詳しく言い換えたものと考えられる。
 大津透『天皇の歴史01 神話から歴史へ』(講談社、二〇一〇年)によれば、当時に作られていた政治制度は、大和およびその周辺の上流豪族たちが「大夫<まえつきみ>」として合議体を作り、天皇(大王)を支えるというものであった。したがって第四条の「群卿」はこうした大夫たち、「百寮」は朝廷の実務を分担する中下級の氏族を指すと考えられるという。
 こうした「群卿百寮」が、それぞれの地位・職掌に厳密に従って業務を行ない、民の統治にあたること。そうした服務規律をまず提示するのが、憲法十七条のねらいなのである。のちの歴史を考慮に入れて解するなら、中国風の律令に基づいて実務を担当する官僚としてのモラルを、豪族たちに身につけさせるための「憲法」だったのだと言える。
 官僚あるいは組織人のモラルとしてみると、いまでもうなずけるような文句が、憲法十七条には散見される。第六条は「悪しきを懲<こら>し善きを勧むる」ことを説いているが、その議論は善悪の基準をないがしろにして仕事に臨むことをきびしく戒める方へむかう。「佞<かだ>み媚ぶる者は、上に対<むか>ひては則ち好みて下の過<あやまち>を説く。下に逢ひては則ち上の失を誹謗<そし>る」。これを「大なる乱の本」と強く批判しているが、上役に対して弁解するときは部下のせいにして自分の地位を保とうとし、部下に対しては上役の意向だからと言って、うわべだけ嘆いてみせるような人物は、現代にもよく見かけるだろう。

「以和為貴」とは何か

 統治にあたる官僚に求められるのは、まずこのように日常業務を遂行するための立派なモラルを身につけることである。第七条では「賢哲<さかしひと>」が統治にあたることで天下は治まるという、儒学風の考えが述べられている。だが憲法十七条の全体においては、そうした世俗的な「賢哲」であるだけでは、統治者として十分ではない。第十四条は「其れ賢<さか>しき聖を得ずば、何を以てか国を治めむ」と結ばれている。仮に「賢哲」を日常業務の運営能力としての立派さととらえ、「賢聖」をそれよりも高次な資質と読むならば、日常的な賢さ・立派さをこえて、「聖」なる人格たることを、聖徳太子は豪族たちに求めたのである。
 「聖」たることを支えるのは何か。究極的にはそれは仏の教えだと聖徳太子は考えたのであろう。第二条が「篤く三宝を敬ふ。三宝は仏・法・僧なり」と、仏の「法」が人間の根本の教えであると提示しているところに、それがよく表われている。「和を以て貴しと為<す>」と始まる有名な第一条の冒頭の文句について、先に引いた石井公成の論文は、儒学と仏教の双方の文献からの引用でできていることに注目している。そして、儒学や老荘思想の学者にも仏教の影響が広がった、当時の中国思想の動向を反映したものだと指摘する。統治者のモラルが、仏の教えによって裏打ちされることで、初めて真正なものとなる。そのことを聖徳太子はめざしたのであろう。
 「和を以て貴しと為<す>」と冒頭に掲げているとは言っても、ここで言う「和」はよく誤解されるように他人の気持ちを忖度して、それに逆らわないよう調子を合わせることを意味するのではない。第十条は怒りの感情を抑えることを述べているが、そこで対象になっているのは、「人の違<たが>ふを怒る」こと、すなわち自分の価値観に固執し、相手の意見をたちまちに誤りと断じて拒絶する態度である。これに対して仏教の用語を使って、誰もが「共に是れ凡夫のみ」と聖徳太子は告げる。誰もが多かれ少なかれ愚かさを抱えているのだから、他人からの批判には謙虚に耳を傾け、みずからの意見を他人による検討にさらしてゆくこと。そうした緊張関係を内に含んだ「和」が求められているのであろう。
 したがって最後の第十七条に登場するのは、討論に基づく政治である。「夫れ事、独<ひと>り断<さだ>むべからず。必ず衆<もろもろ>と論<あげつら>ふべし」。ささいな事柄はともかくとして、重大な問題については必ず集団で討論し、そこで定まった「理」を共通の方針にしなくてはいけない。これは先にふれたように、当時の朝廷が豪族たちの会議によって政治を運営したことを反映した「法」ではあろう。しかし同時にまた、政治あるいは学問における相互批判の営みを意味づけるものとして、重要なメッセージを発しているようでもある。