ちくま文庫

不自由さを承知で愛する誰かの何かに宿る

東直子『とりつくしま』

亡くなったひとのだいじな思いをのせて静かに感動の輪が広がりつづけている東直子『とりつくしま』を、『この世界の片隅に』『日の鳥』の漫画家・こうの史代さんにお読みいただきました。PR誌『ちくま』3月号より転載いたします。
 死んでしまった後に、まだこの世に未練を残していると、「とりつくしま係」がやって来て、あなたの望む物体に、あなたの心を入れてあげると言う。とりつくしまもなく、この世から引き離されてしまったわたしに、とりつくしまを与えてくれると言う。そしてわたしは、今まで見慣れた何かに宿って、いちばん大切だった誰かを、思いがけず間近から再び眺めることになる。
 この作品は、こうしてこの世をほんの少しの間、今までの自分とは違う視点から眺め直す、十一の物語でできている。
 ある者はロージンバッグとなって、少年野球の投手である息子をてのひらから見守った。ある者は居間のマッサージ器になって、家族が腰掛けるのを待っていた。ある者は老いた母の補聴器となって、風にまぎれてささやき続けた。
 この『とりつくしま』には、誰かひとりを強く思う人が多く登場する。十一の物語の多くが、他の誰かの所有物にとりつくところから始まることに、わたしはすこし驚いた。
 わたしだったら、自分の持っていた何かにとりつくことしか思い付かないだろう。あるいは誰のものでもない、道端の電柱とかそんなものだろう。この物語の中でいうと、孫にあげたカメラのレンズか、少年のとりついた公園の青いジャングルジムが、近いかなあ。図書館の受付の人の名札というのも、見慣れた場所を見渡せていいかも、とも読んでいるうちに思ったりした。
 なぜなら、亡くした人を思う時、わたしはその人の遺品を前にしているか、ぼうっと何も見ていないかのどちらかだからだ。祖母の遺した指環を握りしめて、祖母の手を握った気になる時もあるし、夜の雨音に母の声を聞いた気がする時もある。
 けれど、自分の使い慣れた全く別の物から、その誰かに眺められたり話しかけられたりしているなんて、考えもしなかった。
 創作物は、他人の妄想や価値観を、目の前に立ち上げて見せてくれる。小説は、絵がないだけ漫画よりも奇想天外で奔放な印象を受ける場合がある。
 とりついた物は、自分の存在も気持ちも伝えられないし、動けもしない。それなのに、不自由さを承知で愛する誰かの何かに宿るかれら。
 無情すぎる設定の中で、情の濃すぎる人びとが織り成す物語は、誰かの秘密を覗くようで、ときに背徳感が痛い。でもそんなものからも、かれらはもう解き放たれてしまっているのだ。そこに繰り返し気づくたび、寂しさがさざ波のように寄せてくる。怖いくらいの濃い愛情が、波間にきらきら光っている。きらきら光りながら、遠ざかってゆく。
 去年の秋、わたしは幼なじみを亡くした。
 春に病気で入院したと聞き、毎日葉書を書き送った。「友達」と呼ぶのもむず痒いほど近くにいたが、それは、そのつどわたしが彼女を選んで、そばに居たからだった、とこの時初めて気がついた。元気になったら「あん時はウザかったわー」といつか笑い話にして貰おうと思っていた。亡くなった時、ご家族から余命半年の宣告を受けていたことを聞かされた。わたしが送った葉書の束は、お棺に入れて一緒に焼いて下さったそうだ。そして、新品の鞄を頂いた。彼女が買ったまま、使うことのなかった鞄だという。鞄には小さな猿が付いている。このブランドの鞄には必ず猿が付いていることも、いくつも持っていて愛用していることも、彼女から以前聞いて知っていた。
 わたし達はたぶん「とりつくしま係」の目に留まるほどには情は深くない。でも時にはこの猿に彼女が宿っている気がして話しかけてしまう。今、窓の外には雪が降っている。ああ、葉書に書こう、と思う癖がついている。もしかするとわたしの魂は今ほんのちょっと、彼女があの世で抱く葉書の束にとりついているんじゃないかな、とこんな時、思ったりする。
(こうの・ふみよ 漫画家)

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