ちくま学芸文庫

『枕草子』千年のあゆみ

清少納言『枕草子』解説

4月刊行のちくま学芸文庫、清少納言『枕草子』から、訳者・島内裕子氏による「解説」を公開いたします。

『枕草子』をどう読むか
 『枕草子』は、清少納言によって書き綴られた「散文集」である。『枕草子』は、「三大古典随筆」の一つと称されることが多いが、清少納言が『枕草子』を書き始めた時には「随筆」という概念はなかった。鴨長明が『方丈記』を書き、兼好が『徒然草』を書いた時も、状況は同じである。
 『方丈記』の場合は、400字詰の原稿用紙に換算して20枚程の短編であり、テーマも
「人と栖(すみか)」という一点に絞っていることを冒頭部で明記しているから、「散文集」という名称は、ニュアンスとしてそぐわないだろう。『方丈記』には、「三大随筆」という名称で一括(ひとくく)りにできない異質性がある。しかし、『枕草子』と『徒然草』は、まさに散文集というに相応しく、さまざまな散文の集合体である。換言すれば、散文集としか呼べないほどに、多様性を持つ文章が寄り集まったものが『枕草子』であり、『徒然草』なのだ。
 和歌を集めてまとめたものが「和歌集」ならば、散文を集めてまとめたものを「散文
集」と呼称するのは、ごく自然なことであると思うが、和歌の場合は31文字の定型詩
であるから、「和歌集」と聞いただけで、その内容は紛れもない。それに対して、散文は
書かれた内容によって、日記・紀行・物語・説話・軍記・評論など、さまざまなジャンル
がある。一般に、ある作品はある一つのジャンルに分類されることによって、書棚であれ、心の中であれ、居場所を確保できる。それに対して、「散文集」と聞いただけでは、輪郭さえも朧げで、内容のイメージが湧かないかもしれない。
 しかし、そのような文学常識から一旦離れることが、隘路に入り込まぬための秘訣であ
り、作品を堪能するための活路も、そこから自ずと開けてくる。「散文集」を、「一人人
物が書き綴った、長短さまざまで、内容も多彩な、散文小品の集合体」と定義することに
よって、「散文集」こそが「和歌集」に対置可能な文学概念であり、文学全般を二分する、きわめて重要なスタイルであることが見えてくる。
 多様な内容を持つ散文集は、物語のように明確な筋立てがないので、頁をめくって、面
白そうな所をあちこち気ままに読んでも、差し支えはなさそうだが、やはり書物というひ
とまとまりのものとなって伝来してきた以上、最初から最後まですべての部分に目を通す
ことが重要で、「連続読み」してこそ、その作品の魅力も深みも実感できる。
 『枕草子』を読むということは、散文を書く行為がもたらす自由の実体を、しかとこの目で見届けることであって、そこにこの作品を読む楽しみもある。頁を繰るごとに眼前に広がる景色は、新鮮な空気に満ち、花の香りや草の匂い、雨の湿り気、風の強弱までも、さまざまに描き分けている。
 夜空には月が照り、星々が輝く。地上には、人間の生活がある。宮廷の日々、天皇・中
宮・殿上人・女房たち……、と文字だけ列ねれば、摂関政治や受領(ずりょう)階級などという言葉が現代人の頭を掠める。けれども、それらの言葉によって『枕草子』が書かれているわけではなく、そもそもが、当時の社会機構を後世の人々に伝える目的があったわけではない。清少納言は自分が書きたいことを、自分の言葉で、散文として書き綴った。このことが何より大切である。
 宮廷のしきたりや、身分とそれにともなう職掌や、宮廷人たちの衣裳の素材や色彩が、
次から次へと『枕草子』から溢れ出てくる。文章の意味を考えているうちに、いつの間に
か新しい場面に移り変わり、現代と変わらぬ人情の機微や季節の順行が書かれていれば、
「そう、その通り」と頷くうちに、また宮廷生活の一齣に変わっている。その間断するこ
とのない場面転換の中で、読者の方でもいつの間にか、『枕草子』の緩急自在な文体と内
容に、自分の心を乗せる術を身に付けて読み進めることができるようになる。
 速度を上げて走る牛車に遅れじと、外出着の着付けを整える間もなく、息せき切って牛
車を追い駆ける貴族。雪や氷柱が月の光に燦めく夜道を、牛車に同乗していずこへか行く
男女の艶姿(あですがた)。これらは宮廷人たちのスケッチだが、一方には、身軽に木に登って枝を折り取る少年や、それを見上げて枝の選り好みをする少女がいる。かと思うと、田植え歌を歌いながら独特の仕種で苗を植えてゆく女たちがいる。作品に生彩を与える点で、次々と登場してくる人々に区別はない。
 『枕草子』は、「今、この瞬間」を生きている人間の多様性と、精神の自由なあり方を、生気に満ちた表現で綴ってゆく。それは、何よりもまず清少納言自身が、この現実世界に倦んでいないからであって、たとえ退屈で鬱屈する時があったとしても、本を読んだり美味しい物を食べたり、真っ白な綺麗な紙の束を貰ったりすれば、物憂さも晴れようというものである。
 わたくしはかつて、ちくま学芸文庫版で、校訂・訳『徒然草』(2010年)を書き下ろした際に、「原文で通読する」ということを何よりも最優先として、各段ごとに「原文・
訳・評」というスタイルでまとめ、語注は最小限に抑えた。本書でも、その方針を採用し
つつ、さらに絞り込んで、語注を付けないシンプルなスタイルにした。その点が、このた
びの新機軸である。
 一般の古典の校注本では語注や語釈が付いているのに、それを付けなかったのは、難語
の説明は訳文の中に溶け込ませたからである。枕草子の場合は各章段、とりわけ中宮定子
のサロンを主な舞台とする宮廷章段は、概ね長大なものが多いので、原文の後にたくさん
の語注をつけると、原文と訳が離れ過ぎてしまう。原文に引き続いて直ちに訳があれば、
楽曲をリピートして聴くように、あるいは、違う演奏家によって、同じ曲を聞き比べるよ
うに、古文と現代文を続けて味わえるのではないかと考えた。
 『枕草子』の本文に関しても、一目でその箇所の意味内容を把握できるよう、ルビ付きの漢字を多く宛(あ)て、句読点も多用して意味の区切りと文脈の方向性を示すように工夫したので、直読直解方式で、「連続読み」していただけると思う。「評」は、訳文に盛り込めなかったことを補足説明したり、東西の文学作品や芸術とも響映させながら、広がりを持たせた。
 本書によって『枕草子』の全章段にわたり、「原文・訳・評」をひとまとまりとして、
先へ先へと読み進むことが可能となることを企図している。連続読みによって通読してこ
そ、『枕草子』の世界が生成してゆく時間を、作者である清少納言と共有できる。その体
験が、『枕草子』を読むことにほかならない。

清少納言の人物像と、『枕草子』の背景
 『枕草子』の著者として有名な清少納言であるが、生没年も詳しい経歴も未詳である。康保3年(966)頃の生まれとする通説に従えば、藤原道長(966~1027)や藤原公任(きんとう)(966~1041)と同い年になり、藤原斉信(ただのぶ)は1歳年下になる。
 清少納言の父は、歌人の清原元輔(908~990)で、天延2年(974)に周防守(すおうのかみ)として赴任している。元輔は2番目の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の撰者の1人であり、「梨壺(なしつぼ)の五人」の1人として『万葉集』の訓読にも携わった学者でもある。元輔の祖父(父とする説もある)は、清原深養父(ふかやぶ)である。深養父の生没年も、清少納言同様、未詳であるが、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』に入集している歌人である。
 清少納言は歌人・学者の家柄で、社会的には受領階級の出身である。彼女にも家集『清
少納言集』がある。伝本により収録歌数は異なるが、50首に満たない小規模なものであ
る。それでも清少納言の和歌は、藤原定家の『小倉百人一首』に選ばれているし、深養父
と元輔も入っている。和歌の家柄として連なるこれらの3人を、定家は自分の選集に採っ
た。
 『小倉百人一首』には、中宮定子と関わる人々の歌も入っている。儀同三司母(ぎどうさんしのはは)は、中宮定子とその兄である藤原伊周(これちか)の母(高階貴子)であり、左京大夫道雅(みちまさ)は伊周の息子で、『枕草子』の中では、愛らしい幼児姿の「松君」である。

 夏の夜はまだ宵(よひ)ながら明けぬるを雲の何処(いづこ)に月宿るらむ
                                      清原深養父   
 契(ちぎ)りきな互(かた)みに袖を絞りつつ末の松山波越さじとは
                                                                                             清原元輔  
 夜(よ)を籠(こ)めて鶏(とり)の空音(そらね)は謀(はか)るとも世(よ)に逢坂(あふさか)の関は許さじ                                                       清少納言   
 忘れじの行末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ今日(けふ)を限りの命ともがな
                                        儀同三司母  
 今はただ思ひ絶(たえ)なむとばかりを人伝(ひとづて)ならで言ふ由(よし)もがな
                                                                                             左京大夫道雅

 こうして、『小倉百人一首』の歌を5首挙げてみると、やはり何と言っても、清少納言
の名前と一体化した「鶏の空音は謀るとも」の歌は別格である。漢詩文の教養があり、宮
廷人である藤原行成を、この歌で往(い)なした話は、『枕草子』に出てくる。清少納言以外の4人の歌も、「ああ、この歌の作者だったのか」と聞き覚えがあろう。『枕草子』に描かれた時代は、『栄花物語』や『大鏡』にも書かれているが、現代人にとって身近な『小倉百人一首』の中に、清少納言本人と父祖たち、そして『枕草子』と関わる人々の肉声も込められているのは、貴重なことである。
 ちなみに、定家が選んだもう一つのアンソロジー『百人秀歌』には、中宮定子の歌も入
っている。

 夜(よ)もすがら契(ちぎ)りし事(こと)を忘れずは恋(こ)ひむ涙の色ぞゆかしき

 清少納言が仕えた定子(977~1000)の父は藤原道隆(みちたか)(963~995)である。道隆は別称を「中関白(なかのかんぱく)」と呼ばれる。『枕草子』には、定子が一条天皇(980~1010)の中宮であった時期を中心として、中の関白家の華やかな日々が数多く描かれている。けれども、道隆の死後は彼の弟の道兼(みちかね)(961~995)が関白となり、嫡子の伊周は父の跡を継ぐことができなかった。道兼の急死後は、「御堂(みどう)関白」道長の天下となる。中の関白家は没落していったのである。『枕草子』を読み進めてゆくと、唐突に「故殿(ことの)」という言葉が出てきて、胸を衝かれる。道隆没後の時代を書いた段もあるのだ。しかし、没落自体に触れることはない。
 このような執筆態度に対して、藤原定家周辺の一族の女性によるとされる『無名草子』
が、清少納言の人物像と『枕草子』に触れて、「関白殿(道隆) 失(う)せ給ひ、内大臣(伊周)流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出(いで)ぬ程(ほど)の、いみじき心ばせなりけむ人」と高く評価しているのは、『枕草子』に対する早い時期の評価である。ちなみに『無名草子』は、『源氏物語』などの数々の物語作品や、実在の女性を項目として取り上げ、その場に集まっている女性たちが論評する形式を採る評論書である。項目を次々に挙げて、それに当て嵌まる事例を列挙しながら論を進めている点で、『枕草子』のスタイルと共通するようにも思われる。ただし、項目として挙げられているのは、物語・歌集・女性たちが中心であって、自由に思いつくままに書き綴るスタイルではない。それにしても、藤原定家の『小倉百人一首』と、定家周辺の女性たちによる評論書『無名草子』は、『枕草子』の流布や評価を考えるうえで、注目すべきものであると思う。
 ところで、清少納言は自分の初出仕のことを『枕草子』に書いている。従来の研究によ
れば、これは正暦4年(993)のことで、この年、一条天皇の中宮である定子は数えで
17歳、清少納言は28歳だった。これ以後、定子の亡くなるまでの8年間が、『枕草子』に華やかな世界として描かれている。定子が亡くなった長保2年(1000)と言えば、『枕草子』の冒頭近くに位置する翁丸の出来事があった年である。この話が3月で、同年の12月半ばに皇后定子は崩御した。なぜ中宮定子ではなく、皇后定子なのかと言えば、それは藤原道長の娘彰子がこの年の2月に中宮となり、それまで中宮だった定子が皇后になっていたからである。
 あれほど『枕草子』を彩った風流貴公子たちも、定子が亡くなった翌年、藤原公任は中
納言に、藤原斉信は権中納言にと、それぞれが昇進し、道長の時代を支えてゆく。4人の
有能で教養あるすぐれた納言として、藤原公任・藤原斉信(967~1035)・源俊賢(としかた)(960~1027)・藤原行成(ゆきなり)(972~1027)たち「四納言(しなごん)」が揃い、一条天皇の時代を後世まで伝えた。4人とも、『枕草子』に登場する貴族たちである。清少納言の正確な没年は未詳だが、万寿2年(1025)に60歳で没したとも言われている。そのような彼らの活躍を遠く眺めて、清少納言は定子亡き後の、25年の歳月を、どのように送ったのか。
 一つの時代の終わりは、古典文学における稀有の青春性も終わらせた。もちろん、定子
が亡くなった時、清少納言はすでに数えで36歳であったから、同い年の公任にも、1歳年下の斉信にも、「青春」という言葉は、不似合いなことを承知のうえで言うならば、『枕草子』が持つ稀有のみずみずしさは青春性の発露でなくて何と名付けたらよいのか。説話集などでは、最晩年の清少納言は、阿波国で過ごしたと言うが、それは説話の世界のことであって、清少納言は千年経った今でも、『枕草子』の中で生きている。しかし、それもまた、当然ながら読者あってのことである。今、わたしたちが手にする『枕草子』が、どのような経緯で現代にまで伝来して、読み継がれてきたのか、世界文学の視点も含めて辿って見よう。

『枕草子』の諸本と内容分類
 現代人が『枕草子』を読もうとして、図書館などで各種の古典文学の全集類に収められ
ている『枕草子』を数冊、書棚から取り出して、机の上に広げてみたとしよう。すると、
冒頭はどれも「春は曙」で始まるが、それぞれの本で『枕草子』の章段の配列にかなり違
いがあり、また章段の数も異なっていて、戸惑いを感じるだろう。これは、原文を活字化
する時に依拠した本文、すなわち「底本」が異なるからである。また、たとえ底本が同じ
であっても、章段の区切り方が、校注者によって異なっているからである。
 『枕草子』の諸本は、「能因本(のういんぼん)系統」「三巻本(さんかんぼん)系統」「前田家本(まえだけぼん)」「堺本(さかいぼん)系統」に分類される。ちなみに、前田家本は孤本なので系統はない。『枕草子』は、本文の系統が錯綜し、また諸本間での表現の異同や、章段配列も違うので、『枕草子』の本文として、どの系統
のどの写本が最も適切なのかを決定することは困難を極める。
 古くは、能因本系統で読まれてきた。能因(988~?)は、清少納言よりずっと年下
であるが、藤原公任などとも交遊があった同時代の著名な歌人であり、その能因が所持し
ていたとされる本、すなわち「能因本」が、長く『枕草子』の主流となってきたのである。本書の底本とした、北村季吟の注釈書『枕草子春曙抄』の本文も、能因本系統である。
 これに対して、大正時代末の研究によってクローズアップされて現代の本文の主流とな
っているのが「三巻本」である。能因本よりも古い形態とされる。その名の通り3巻で伝
来していることが多いことからの名称である。能因本と三巻本は、内容分類されておらず、「雑纂(ざつさん)形態」「雑纂本」などと呼ばれる。
 一方、「前田家本」と「堺本系統」は、内容別に分類されていて、「類纂(るいさん)形態」「類纂本」などと呼ばれる。前田家本は書写年代が最も古い写本である。加賀の前田家の尊経閣文庫に所蔵されていることからの名称である。「堺本」は、奥書に堺の道巴という人物の所持本を書写した旨が書かれていることによる。
 類纂形態のことに触れたので、ここで『枕草子』を読む際によく言われる内容分類につ
いて略述しよう。
 さまざまな内容・文体を含む散文集としての『枕草子』を、内容や文章のスタイルによ
って、いくつかに分類する試みは、前田家本や堺本系統の本が伝来していることからも推
測される。近代になると、『枕草子』の章段は、類聚章段・日記章段・随想章段(回想章
段とも)の3種類に分類されることが多い。ただし、本書では類聚章段を、「列挙章段」
と名付け、日記章段と随想章段は、まとめて「宮廷章段」と名付けてみた。
 細かく分類するほど内容が把握しやすくなると思われるかもしれないが、あえてどれか
の文学ジャンルに定位せずに、散文集として把握する本書の方針として、分類するならば
二分法で十分であると考えたい。従来の類聚章段は、「……もの」型と「……は」型をあ
わせた分類で、「ものは付(づ)け」「物尽(ものづ)くし」と呼ばれることもある。これらの段は、次々と事物を列挙してゆくスタイルなので、現代においては、「類聚」という言葉よりも「列挙」の方がイメージが湧きやすいのではないかと思う。また、日記・随想・回想という言葉も、大きく捉えるならば類似性を持つ言葉であり、『枕草子』においては、宮廷という舞台あっての散文表現なので、包括的にこれらを宮廷章段と名付けたのである。列挙でもなく、宮廷生活にも全くかかわらない章段は、ごく少ないので、本書では列挙章段と宮廷章段という2つの名称を使って、説明する場合が多い。

『枕草子春曙抄』の登場と流布
 ところで、江戸時代になってからの文化的な変化として重要なのは、それまで写本で伝
来してきたものが、木版印刷によって出版されるようになったことである。『枕草子』で
言えば、本文のみの出版としては、いわゆる「慶安刊本(けいあんかんぽん)」が流布本となった。これは慶安2年(1649)4月上旬に刊行された7冊本であり、能因本系統の写本によっていると言われる。
 一方、『枕草子』注釈書の刊行は、まず、加藤盤斎(ばんさい)(1621~74)による『清少納言枕草子抄』15巻(延宝2年5月刊)がある。『枕草子抄』『盤斎抄』『万歳抄』などと呼ばれることもある。万歳は盤斎という名前にちなむのであろう。これよりわずかに遅れて、北村季吟(きぎん)(1624~1705)による『枕草子春曙抄』12巻が刊行された。『春曙抄』に刊記はないのだが、巻12の末尾に季吟による跋文があって、「延宝二年甲寅七月十七日」とある。それによって、『春曙抄』の成立は延宝2年(1672)とされている。『盤斎抄』『春曙抄』は、『枕草子』の本文付きの注釈書であり、盤斎・季吟は共に、松永貞徳(ていとく)(1571~1653)の弟子である。
 なお、「本文付き」であることを明記したのは、たとえば『徒然草』の最初の注釈書で
ある『徒然草寿命院抄(じゆみよういんしよう)』(1604年刊)には、語句が切り出されて、それに注釈が付いているだけである。つまり、本文は付いていないのである。これは、『源氏物語』や『伊勢物語』の注釈書も、同じことだった。貞徳やその弟子たちの時代になって、本文付きの注釈が主流になってゆく。本文がなくては、内容の理解が行き届かず不便であるので、『寿命院抄』以後の『徒然草』注釈書は、通常、本文付きとなったのである。『枕草子』の注釈書は、『徒然草』の注釈書に遅れること70年経ってからの登場であるので、本文付きの注釈書は、ごく普通のスタイルである。ただし、『枕草子』を本文だけで読みたい場合には、先に挙げた「慶安刊本」などがあるわけである。
 とは言え、江戸時代の人々にとって、原文だけでは、王朝文学の意味内容を十分に理解
できないことも多かったであろうから、「注釈付き本文」として、『春曙抄』は江戸時代に最も尊重され、多くの人々がこれによって『枕草子』を読んだ。『春曙抄』は、冒頭の
「春は曙」をそのまま題名にしたところにも、わかりやすさや親しみやすさがある。江戸
時代の人々にとって、『枕草子』を読むとは、『春曙抄』を読むことにほかならなかった。
 ちなみに、同じく北村季吟による『源氏物語』の注釈書である『源氏物語湖月抄』(成
立は『春曙抄』の1年前)にも同様のことが言え、注釈付きの本文である『湖月抄』が、そのまま人々にとっての『源氏物語』であった。『湖月抄』という題名も、古来有名な『源氏物語』の執筆伝説、すなわち、紫式部が石山寺に参籠して、琵琶湖に照る仲秋の名月を見て、「今宵(こよひ)は十五夜なりけり」という須磨巻の名文を書いたという伝説を踏まえての命名である。『湖月抄』と言い、『春曙抄』と言い、季吟の文学センスが光る書名である。
 「はじめに」で引用した蕪村(1716~83)の句に、『春曙抄』という書名が使われて
いるのは、この書が当時既に共通古典となっていたからであろうし、蕪村と同時代の横井
也有(やゆう)(1702~83)の俳文に、『枕草子』からの引用が多いのも、『春曙抄』が人々に広く浸透していたからだろう。江戸時代に留まらず、近代に入っても『春曙抄』は、『枕草子』を読む際の定番だった。本書が、北村季吟の『春曙抄』に主として拠ったのは、こうした経緯によるところが大きい。それに対して、加藤盤斎の『盤斎抄』は、『枕草子』に出てくる難語の典拠を、原典から非常に詳しく引用しており、それは博覧強記を誇るというよりも、読者に勉学の機会を提供するための配慮であったかもしれない。けれども、『春曙抄』の簡潔明瞭な説明と比べると、一般読者には、難しい印象を与えるのではないか。

明治の青春と『枕草子』
 さて、近代に入ると『枕草子』はどのように読み継がれ、清少納言の人となりはどのよ
うに捉えられていったのだろうか。翻訳詩集『海潮音』で有名な上田敏(1874~1916)は、若き日に「清少納言と『らすきん』」という小文を、同人誌『無名会雑誌』第5集(明治23年11月)に発表した。『枕草子』の「春は曙」の一節と、ラスキンが山頂から見た夜明けの描写とを、比較したものである。この時、敏はまだ数え年17歳。第
一高等中学校(後の、第一高等学校)2年生だった。彼は、同じ第5集に、「日本文学史を読みて今日英文学の教授法に及ぶ」という論文も発表している。この論文の冒頭で、刊行されたばかりの三上参次・高津鍬三郎合著『日本文学史』(明治23年10月)に触れて、「源氏ものがたりと枕草子の比較はまさりてをかしく見ゆ」と感想を書いている。上田敏は、新刊の『日本文学史』を早速読んだだけでなく、作品比較の方法論を応用して、『枕草子』とラスキンの文章を比較した小論も執筆したのだろう。
 上田敏は、友人の平田禿木(とくぼく)を通して、明治27年の春から『文學界』に寄稿するようになり、その後、『文學界』同人として、数々の作品を発表している。『文學界』は、明治26年創刊の文学同人誌で、星野天知・北村透谷・島崎藤村・平田禿木・戸川秋骨・馬場孤蝶・上田敏たちが参加した。樋口一葉(1872~96)の『大つごもり』や『たけくらべ』などが掲載された雑誌でもある。
 『文學界』第20号(明治27年8月)は、星野天知の評論「清少納言のほこり」が巻頭を飾った。天知はその評論の中で、「全編其の風流を一貫するもの、実にプラウドの才
気ならざるものなし」と『枕草子』を評し、「すべて人には一に思はざれずば何にかせん」という原文も引用して、「これは清少が常の心意気を宮中に放言したるの語なり」と述べている。ちなみにこの箇所は、白洲正子(1910~98)も昭和20年の夏頃に書いた、評論的エッセイ「清少納言」(『芸術新潮』1999年12月所収)の中で取り上げている。
ややもすれば、自讃が過ぎるように受け取られがちな清少納言であるが、星野天知も白洲
正子も、清少納言の自立した誇り高さに共感している。
 ところで、樋口一葉は『文學界』の同人ではないが、数々の短編が同誌に掲載されて、
同人の青年たちと、文学を仲立ちとして親しい交流があった。一葉は、明治29年に数
えの25歳という若さで亡くなったが、最晩年ともいうべき3年間は、本郷区丸山福山
町で暮らした。この家に『文學界』の禿木・秋骨・孤蝶・敏たちが訪れて、皆で夜遅くま
で文学談義をして過ごしたことは、一葉の日記に詳しい。一葉を女主人として、同世代の
文学青年たちが一堂に会する文学サロンの趣が漂い、『枕草子』における男性貴族たちと
清少納言の機知に満ちた楽しいやりとりが、瞼に重なる。
 また一葉はこれより早く、中島歌子の歌塾「萩(はぎ)の舎(や)」に学んで、和歌・古典・書道の研鑽を積んでいたが、ここは華族女性たちが中心の歌塾であったので、周囲の若い女性たちの日常や、お稽古に通ってくる彼女たちの衣装の華やかさなどと我が身を引き比べることもあった。「萩の舎」でのお稽古や歌会や観桜散策会の体験は、一葉の日記に詳しく書かれている。一葉にとっては、身分の差を意識せずにはいられないと同時に、王朝時代の上流女性たちを間近に見る思いがしたのであろう。若い女性たちの容貌や美しい衣装のことを日記に書き留めている。
 明治24年の雑記『筆すさび』に、『春曙抄』巻1・巻5・巻7・巻11などから頭
注部分を抜き書きしているし、そもそもこの雑記の冒頭部に「春はあけぼのといふものか
ら、夕べも猶(なほ)、なつかしからぬかは」と始まる未完の文章断片や、「蟬は あぶら、ひぐらし、つくつく法師」と始まる蟬のいろいろを書いた短い文章もある。さらには、「萩の舎」に集う老歌人に対するユーモラスな人物評や、女性の物書きであることの心苦しさや、他人に褒められることの心苦しさを、「心ぐるしきもの」と題して、『枕草子』と見紛うような文章で綴っている。また、一葉は『さをのしづく』と題した、明治28年頃の断章集に、自分は紫式部よりも清少納言に共感する、と明記している。
 近代における清少納言と『枕草子』への関心や共感の度合いが、『文學界』に関わる
人々の中で高かったことは、『文學界』という雑誌の清新で浪漫主義的な文学観と深く関
わるであろうし、その生き生きとした渦の中に、樋口一葉の姿を垣間見ることもできる。
「明治の青春」が『枕草子』の魅力と文学性を発見したと言えよう。

『枕草子春曙抄』のゆくえ
 明治38年(1905)に刊行された与謝野晶子たちの合同歌集『恋衣(こいごろも)』には、『春曙抄』を読み込んだ晶子の一首が掲げられている。

  春曙抄に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな

 与謝野鉄幹・晶子夫妻の文芸雑誌『明星』は、この3年後、通巻百号をもって終刊した。その後を継いだのが森鷗外(1862~1922)を指導者とする文芸雑誌『スバル』だ
った。明治42年(1909)1月の創刊である。『明星』から『スバル』へという誌名
は、『枕草子』の「星は、昴」の一言が決定づけたのではないだろうか。「星は、昴」と書いた清少納言の言葉は、昴こそ、星の中の星として、時空を越えて鷗外の胸に届いた。数ある文学の「星の中の星」をこの雑誌で束ねたいという、鷗外の希望が『スバル』という雑誌名に籠められている。「すばる」とは「統べる」意である。『スバル』が通巻60号をもって終刊した時、時代は大正2年になっていた。
 大正時代末期は、『枕草子』にとって、一つの大きな転換点だった。金子元臣(1868~1944)による大著『枕草子評釈』(上巻・大正10年、下巻・大正13年)が刊行され
た。底本は慶安版本と春曙抄本により、他の諸本も参照している。金子評釈は、海外にお
ける『枕草子』研究の拠り所ともなったすぐれた注釈書だったが、この下巻刊行をまるで
一つの分岐点とするかのように、『枕草子』の本文採用に、大きな変化が生じた。
 昭和3年(1928)には、池田亀鑑が三巻本の優位を書誌学的に主張する論文を発表
し、昭和14年(1939)に、山岸徳平が三巻本を底本とする『校註枕草子』を刊行す
るや、春曙抄本から三巻本へという潮流が生まれ、特に昭和20年代以降は、三巻本が主
流になって、現代に至っている。ただし、金子評釈は「近代の春曙抄」と言ってよいほど
よく読まれた。先に触れた白洲正子も「清少納言」を書くにあたり座右の書として、金子
評釈を挙げている。
 『枕草子』の注釈研究において『春曙抄』がその基盤となって果たしてきた役割の大きさは決して消えることはないと思うが、それでも国内において、次第に『春曙抄』の存在感が弱まっていることは否めない。けれども、海外における『枕草子』の翻訳研究において、『春曙抄』は重要な役割を果たし続けている。

世界文学としての『枕草子』
 日本文学の全体像が西欧に知られるようになったのは、明治時代後期になってからであ
る。先に若き日の上田敏に言及した際に触れた、三上参次・高津鍬三郎合著『日本文学
史』を参看して、西欧人による『日本文学史』が著されたことが、その端緒であった。す
なわち、明治32年に、まずウィリアム・ジョージ・アストン(1841~1911)の『日本文学史』(英語、1899年)が刊行された。その後、カール・フローレンツ(1865~1939)の『日本文学史』(ドイツ語、1909年)、ミシェル・ルヴォン(1867~1947)の『日本文学選』(フランス語、1910年)が続いた。これらの英独仏3か国語によって、古代から時代の流れに沿って日本文学が解説され、翻訳された原文も同時に掲載された。 この時点の『枕草子』は、作品紹介や原文の翻訳の分量で、『源氏物語』に関する記述を凌駕するほどだった。
 とりわけルヴォンによるアンソロジーは、豊富な原文の翻訳を収めており、30頁にわ
たる仏訳『枕草子』は壮観である。その翻訳が拠っている原文は、『春曙抄』12巻のう
ち、巻4までのものである。ちなみに、ルヴォンは、北村季吟の『春曙抄』を1893年版で読んだことを注記しているので、この年に刊行された『訂正増補枕草子春曙抄』によったのであろう。ただし、ルヴォンが手にしたのは、1899年の第8版とのことである。また注にはフローレンツのことも出てくる。ルヴォンの『日本文学詞華集』は、詩人・劇作家のポール・クローデル(1868~1955)の日本文学観にも大きな影響を与えた。駐日フランス大使でもあった詩人のポール・クローデルは「日本文学小史」という講演録(『朝日の中の黒い鳥』所収)で、『源氏物語』には触れずに、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』などを中心とする系譜で日本文学を把握しており、その注で、ルヴォンのアンソロジーによって日本文学の原文を引用したと明記している。
 上記の英独仏語による、3種類の日本文学書が出揃った後に、アーサー・ウエーリ(1889~1966)による英訳『源氏物語』(1925~33年)と『枕草子』(1928年)
が刊行された。以上の5種類の本によって、日本文学は世界に飛び立ったと言えよう。
 ウエーリ訳の『枕草子』は独特の構成で、『枕草子』から年代がわかる古い順に、宮廷
章段を抽出して配列する方式が取られている。したがって、ウエーリ訳の冒頭部には、清
少納言が中宮定子に初出仕した段が置かれている。列挙章段のほとんどが省略されていて
は、『枕草子』の魅力の過半が抜け落ちてしまっているように思えるのだが、意外なとこ
ろで、ウエーリ訳の受容が見られた。
 吉田健一(1912~77)は、最晩年に書いた長編評論『昔話』のⅤ(第5章)の冒頭
を次のように書き出している。

  枕草子のどこだつたか今は忘れたがそのどこかに清少納言が宮仕へをすることにな
 つてから間もない頃に少納言が仕へてゐる女御だか何だかの若い兄弟が皆がゐる所に
 訪ねて来て少納言が恥しがつて扇で顔を隠すと綺麗な扇だと言つてそれを取り上げる
 所がある。

 吉田健一特有の、自分自身の記憶による、かなり自由な紹介文であるが、ここで見逃す
ことのできないのが「若い兄弟」という表現である。「宮に初めて参りたる頃」の段で書
かれている事柄は、まさに初出仕の頃のことであるが、春曙抄本でも三巻本でも、この段
は枕草子の冒頭部分ではなく、全体の四分の三くらいまで来たところでようやく出てくる。ちなみに、12巻からなる『春曙抄』では、巻九の冒頭がこの段であり、本書で言えば第182段である。吉田健一は『枕草子』を冒頭から連続読みして、ここまで辿り着いて、印象的な段として心に残ったのだろうか。
 わたしの推測では、この段が冒頭部分に出てくるアーサー・ウエーリによる抄訳本
『The Pillow-Book of Sei Shōnagon』で読んで記憶に残っていたのではないかと思う。定子の兄の伊周のことを、ウエーリは「a lad of eighteen」と書いている。しかしながら、『枕草子』の注釈書では、この段の原文にない伊周の年齢を、この箇所でわざわざ入れている本は、管見には入っていないし、大正13年(1924)刊行の金子元臣『枕草子評釈』下巻の当該箇所の口語訳でも、吉田が書いたような「若い兄弟が」という言葉は入っていない。
 吉田健一の『昔話』(昭和51年)は、彼が晩年に書いた文明論であり、歴史と人間を
問う思索の書である。吉田は洗練こそが文明であると述べる。その場面で、今引用した文
章が書かれたことの意味は大きい。同じ章の少し後で、清少納言を幕末の老中阿部正弘や、探検家のスコットや、政治家のメッテルニヒやタレーランたちと並べている。そして、「人間がどこでだらうと人間であることを疑ひの余地がない形で我々に教へてくれるのがその人間といふものを感じることである」とも述べている。清少納言の時代から千年。吉田健一は、世界の文明の中に『枕草子』を位置づけたと言えよう。
 清少納言が全身を投入して書き綴った『枕草子』の世界は、散文が持つ自由を全開させ
た。自分の感じたまま、自分が考えたままを書く清少納言は、日本文学の中でも、特別な
存在であろう。このままの日々が千年も続いたらよいと書いた『枕草子』は、近代日本文
学の中に、世界文学の中に、命脈を保ってきた。昭和の後半には吉田健一以外にも、森鷗
外の愛娘森茉莉(1903~87)のような、『枕草子』の文学精神を受け継ぐ文学者もいる。『贅沢貧乏』や『マリアの気紛れ書き』など、散文集としか名付け得ない、多彩で限
りなく自由な世界が、森茉莉の文学である。そして、何よりも今、『枕草子』を読むわた
したちがいる。そのことが、文学の未来に繫がっている。
 本書の刊行にあたっては、『徒然草』に引きつづき、伊藤正明氏に、ひとかたならぬお
世話になりました。心より感謝申し上げます。
  平成29年2月15日

 

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