藤原和博×宮台真司

「子どもに教えたい、新しい道徳」対談 第2回
藤原和博著『新しい道徳』 (ちくまプリマー新書)刊行記念

宮台 昨今のいじめ自殺は、メディアによるバッシングを予定した復讐という面を多くは持ちます。でも、この「予定」は勘違いです。大半のいじめ自殺では、いじめた側を学校側も父母側もかばう現象が起こります。なぜか。共同体的な防衛意識があるからです。そのせいで、メディアが叩いても、いじめた本人や放置した学校や教員や親は必ずしも制裁を受けません。
 ところがメディアの報道ラッシュを見た子どもたちは、「自殺をすれば復讐できるんだ」と勘違いします。ですから僕が昔から言うように、メディアこそがいじめ自殺に加担しています。メディアが伝えるべきメッセージは単純です。「自殺をしても、それでメディアが騷いでも、結局は君を追いつめた奴らは困らない。だから死に損だよ」ということです。
 なぜこんな初歩的なことを繰り返し言わなければいけないのか。情けない。こうした賢明さの欠如を、道徳で埋め合わせようと考えるのは、馬鹿の上塗りでしょう。メディアの空騒ぎを駆動するものこそが道徳なのですから。賢明さという言葉が不快であるなら、人間力でもいい。必要なのは、ヒステリーを駆動する道徳ではなく、こうしたことを洞察する人間力なのです。
 ロールプレイにも一言。先日TBSラジオの特別番組で平田オリザの主催する劇団、青年団を使ってラジオドラマをやらせていただきました。テーマは裁判員制度。実際どういうことが起こるのかをラジオドラマでシミュレーションしてもらいました。どんなドラマか。我々は「道徳よりも賢明さ」「感情よりも理性」という教育を受けていないので、感情的フック(釣針)にどんどん引っかけられて、めちゃくちゃになっていくドラマです。
 青年団ですから、一部コミカルに演技化してもらったんですが、もちろん演出目的は「聞いている奴、笑っている場合じゃねえよ、お前が笑っているのはお前自身なんだよ」という具合に示すことです。これを教育の世界では「ドラマ・エデュケーション」と言います。演劇出身者としての鈴木寛さんもまた、ドラマ・エデュケーションの重要性を、オリザさんなどと一緒にずっと主張してこられているわけですが、その目的はどこにあるとお考えですか。
鈴木 演劇は見えないボールをやりとりします。そこには、観客も含めたコミュニティーがあって、その了解事項をみなが共有できる、あるいは、みなが一緒にそれを作り出せる、「ストーリー」「ロール」「シーン」といったものを、いっしょに紡いで作り上げていくんです。そういうイマジネーションのプロセスも情報編集力だと思います。
 ですが、いまの日本人はロールプレイと弁証法ができない人がほんとうに多いのです。たとえば国会でも、民主党は野党だから野党としての質問をしているわけで、やや本音と違ってもきちんと弁証法的に議論を進めようと思ったら、与党としてはこう言わなきゃいけない、野党としてはこう言わなきゃいけない、その結果、真の答えに近づく……。こういうプロセスが議会であるべきなんですが、いまだに日本の国会ではそういう了解はありません。おそらくこのようなことがありとあらゆる現場で起こっていて、それが大人の思考停止になっているような気がしています。
 この状態をなんとかするのが、〔よのなか〕科のようなプログラムだと思います。もっと言えば、いま唯一具体的なカリキュラムとして存在しているのが〔よのなか〕科でしょう。その延長でドラマ・エデュケーションやコミュニケーション教育などを、これからもっとやっていこうという運動を始めました。これはまた藤原さんのところで実践をお願いしたいと思っています。
宮台 鈴木さんがおっしゃるように、ドラマ・エデュケーションやロールプレイの重要なところは、コミュニケーションにどんな前提が必要なのかを自覚するチャンスを与えることです。さきほどの自殺を止めるロールプレイもそう。「お前が死ねば俺は悲しい」「嘘つけ、俺が死んでもお前が平気の平左なのは先刻お見通しよ」で終わらないためには、それに先立つ前提が必要です。道徳が御為ごかしで終わらないためにも、それに先立つ前提が必要です。
 一般にコミュニケーションには身体的前提・感情的前提・知的前提があります。平田オリザさんのワークショップで言えば、集団で長縄跳びとキャッチボールのパントマイムをすると、長縄跳びのほうがやりやすい。なぜか。一つは身体的前提の問題です。長縄跳びは誰もが経験があるけど、キャッチボールは女子に経験が少ないし、男子でも不得意な人はやらない。誰もが共通の身体的経験を持つか持たないかで、集団パントマイムの難易度に差が出るのです。
 もう一つが感情的前提の問題です。オリザさんが強調しておられることです。長縄跳びでは「失敗するとかっこ悪いな」と思いつつ勇気をふるって繩に飛び込んだ感情的経験。「あ! 引っかかっちゃった、かっこ悪い!」と動揺した感情的経験。誰もが経験しています。つまり、誰もが共通の感情的前提を持つか持たないかで、集団パントマイムの難易度に差が出ます。
 舞台での演技に即していえば、身体的前提や感情的前提を集団的に当てにできる役割演技であれば、観客の感情を引き出しやすいのです。逆にそうした身体的ないし感情的前提の共有を当てにできないところで演技をしても、感情的フック(感情の釣り針)にならないのです。
 知的前提の共有については多くの説明はいらないでしょう。舞台で「砂漠に佇む男」のシーンが出てきたとして、板敷きの舞台を砂漠だと見立てるには、砂漠についての知的素養が必要です。さもなければ、その場面で砂漠がでてくるべき理由が理解できないことになります。
 グローバル化について議論してきた立場から大きな話をすれば、ヨーロッパがアメリカ的なグローバル化に対抗してきた理由をただ一つ挙げろと問われれば、我々の喜怒哀楽に満ちたコミュニケーションを支えている身体的・感情的・知的な前提を、グローバル化が壊してしまうからだということになります。グローバル化にどんな経済的合理性があろうが近代的合理性があろうが、我々の人生に実りをもたらすコミュニケーションを台無しにするからなのです。
鈴木 コミュニケーションの前提ということで言うと、たとえば、イギリスでは道徳というカリキュラムはありません。ただそれに近いものは二つあります。宗教とソーシャル・スキルです。まさに宮台さんが今日いちばん最初に示してくれた賢明さ、あるいは、情報編集力を身につけることが目標とされています。宗教でいえば、ブレア政権になってからは四大宗教をきちんと教えるようになりました。これは非常に大事です。ヨーロッパにおいては、その前提となる大きな物語としての新約聖書と旧約聖書、あるいは、イエス・キリストというキャラクターについては全員がわかっているのが当たり前です。聖書の中のいろいろなアナロジーやメタファーを使いながら、コミュニケーションを成立させていくわけです。
 翻って日本では、前提となる物語がずたずたになってしまいました。明治から最近までは富国強兵やGDP至上主義などでした。「ではこれから、どういう物語、あるいはそれが語り継がれる共同体というものが必要なのか?」、それをもう一度、議論し、リコンストラクションしていかなくてはいけないと思っています。
 そのへんはどういうふうに考えていったらいいんでしょうか。
宮台 藤原さんに地域と学校の関係について補足していただく前のつなぎとして、西洋世界を理解するために必要なキリスト教についての最低限の常識をお話しします。最も重要なのは「原罪とは何か?」です。知識としては、エデンの園でルシファーに唆されてアダムとイブが禁断の木の実(知恵の実)を食べて楽園を追放されたことに由来するものです。
 原罪論にはどんな意味があるでしょう。簡単に言えば、われわれは存在するだけで罪を犯しているとの観念です。普通は何かをするから罪を犯すわけです。そこには因果観念があります。ところが原罪には因果観念はない。われわれは存在するだけで罪を犯しているわけです。
 存在するだけで罪を犯すのはなぜか。二つ理由があります。
 一つは分別。「同じ日本人じゃないか、平等に扱え」というとき、日本人じゃないものを排斥しています。「同じ人間じゃないか、平等に扱え」というとき、人類じゃないものを排斥しています。包摂と排斥の境界線(分別)は必ず恣意的です。人間うんぬんについていえば、電脳化した人間、擬体化した人間、人間化した電脳、遺伝子操作で人間化した動物などがいずれ生まれてきます。人間と非人間の境界線をどこに引くべきなのか、先験的には言えません。
 もう一つは「世の摂理は人智を超える」こと。浦沢直樹の『モンスター』という漫画を読みましたか。これは手塚治虫『鉄腕アトム』に対する外典です。「ヒューマニストが良心に基づいて子どもを救うのは良いことか」という問いがあります。『鉄腕アトム』では天馬博士の振舞いは良いとされます。『モンスター』でも天馬博士が子どもを救う。結果どうなるか。
 読んでいない人にはネタバレになるけど、天馬博士が救ったヨハンという子は、誰よりも心豊かな「感情の天才」であるがゆえに、洗脳によって「人智を超えた悪魔」になっていく。物語はそのことの責任を取ろうとする天馬博士の道行きです。誰から見ても一点の曇りもない善行が、最終的に何を引き起こすのかは、我々の人智を完全に超えたことだというわけです。
 第一の「分別」問題は空間性に、第二の「世の摂理」問題は時間性に関係します。これら原罪論のモチーフが重要なのは、二元論を退けるところにあります。例えば善悪二元論。善悪の分別は恣意的です。しかも恣意的分別の結果生じることは当人の善なる意図や悪なる意図を遥かに超えたことです。原罪論の教育とは、従って、ネオコン・ブッシュ政権のような二元論に騙されてはいけないという内容になります。
藤原 いま宮台さんのおっしゃった二元論のところから地域社会に引っ張ってくると、実際にわれわれの指向がグローバルになればなるほど二元論になってくる。たとえば、「勝ち組」か「負け組」かというのが象徴的です。結局、非常にわかりやすいけれども実につまらない。日本はテレビの影響もあり、ずっとそういう道を歩んできた。
 ですが、かつてはもっと複雑で多様で、いろんな要素を許すような寛容さを持った地域社会が形成されていた国でした。その証拠に、江戸の末期には全国で4万ぐらいの寺子屋があったようです。今日のコンビニの数ぐらいあったということになります。農家の息子に算盤から論語まで一生懸命教えて、「ちょっとこいつは見どころがあるんじゃないか」というと、金持ちが金を出して江戸まで行かせるというようなことを地域でやっていた。ヨーロッパでは、スペインとポルトガルとが奴隷貿易をやっていた時代です。欧米各国が植民地で現地人や奴隷を使って、カカオを作らせ、コーヒーを作らせたほうが生産性が上るという、非常にわかりやすい二元論をやっていた時代に、日本は非常に複雑なことをあの鎖国の時代にやっていました。驚異的なことです。いまの教養は、そこから一歩も出てない感じがします。
 僕はその二元論から脱却するには、もう一度ローカルに帰らざるを得ないと思います。地域社会に中間集団を形成しないと、宮台さんが95年に『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)で見事に描き出された、個人がバラバラに生きるこれからの社会では、その恐ろしさに耐えかねるのではないか、ということ。僕が97年に出した『処生術』(新潮社)という本も、言いたいことは同じ。これからの成熟社会は、家族でさえもバラバラになっていきます。簡単に言えば、これから金利が上がると、お父さんはローンを抱えているからすごく困るけれども、おじいちゃんは年金や預金の金利が上がって喜ぶ。円高になれば、輸出の多いクルマ会社に勤めるお父さんはいやだけれども、子どもは海外旅行で得するだろうし、マクドナルドのハンバーガーがもっと安くなるかもしれないからいい……というように、家族の中でさえも利害が錯綜してしまう。それぐらい家族とか企業とか、確かであると思われていた組織がどんどんバラバラになっていく中で、それらをどうつなぎ止めていくのかという話にすべて結びついていきます。  ここで結論として僕が持っているのは、学校を核にした地域社会を、もう一度再生するしかないというシナリオです。
 それをちょっと置いておいて、みながなんとなくつながっているという感覚、つまりヨーロッパであれば宗教の役割ですが、その機能と同じような機能を持ったものに、いかに騙されているかということを話しますね。
 僕は、それはテレビとケータイだと思っているわけです。日本では「テレビが神様」になっていると思う。なぜかというと、テレビというのは非常に短い時間に結論を言わなければならないので、すべての問題を二項対立で示そうとします。ニュースが端的ですが、クイズも、ドラマもそうです。絶対に悪人と善人をはっきりさせます。だから、見ているほうは思考停止の状態で見ていられるけれども、考える力をどんどん失っていく。テレビが二項対立の論理で、たとえば「学力」と「ゆとり」のうち学力が大事だと言うと、みなも「ハハー! そうでございますね。御告げのとおりでございます。神様がそういうふうにおっしゃっているのなら」となるわけです。それを瞬く間にケータイでメールすれば、ケータイはバイブルみたいなものですから、「やはり学力が正しかったようだ!」と一気に広まっていく。でもこのままテレビとケータイに身をゆだねていたら、おそらく思考回路は永遠に廻らない。そのまま神様の言う通り生きるしかない。そこで正気に戻るためには「地域社会」に戻るしかないんじゃないかと言いたい。
宮台 社会学的な観点からパラフレーズしましょう。テレビやケータイを含めた高度情報化が引き起こす弊害の最たるものは、不安です。不安によって、人びとが動かされ、踊らされがちになります。その結果、経済システムでは「不安のマーケティング」が、政治システムでは「不安のポピュリズム」が支配しがちになります。前者はセキュリティ産業的なもの。後者は小泉政権的ないし石原慎太郎的なものです。
 ところで僕はカトリックとプロテスタントのどちらが好きか。カトリックです。プロテスタントは好きじゃない。むろんプロテスタントにも色々あります。中でも聖公会や長老派やルター派のような古いタイプが好きで、米国プロテスタントが嫌いです。同じ理屈で、郊外化の中で生じる旧住民と新住民の対立の中でどちらが好きかと言うと、旧住民です。
 なぜか。プロテスタント的なもの――とりわけ米国のエヴァンジェリカルズ(福音派)的なもの(バプテストやメソジスト)――や、新住民的なものは、不安な存在だからです。彼らは不安のマーケティングや不安のポピュリズムに踊らされがちな人たちです。プロテスタンティズムと不安の関係については別のところで詳しく話したので、新住民について紹介しましょう。
 新住民は80年代に「暴力団を地域から排斥しろ!」と叫び、92年に施行された暴力団新法制定の立役者です。僕は「これは将来やばいことになる」と予告していました。全国に30万挺の拳銃があります。違法拳銃は約5万挺。でも従来は管理されていました。誰が管理していたか。暴力団です。ですが暴力団新法で暴力団は組織縮小を余儀なくされ、平成不況もあって、いわゆる三下ヤクザの構成員が組織外に吐き出されました。その結果、管理されない違法拳銃がどんどん増え、元ヤクザに市民が射殺されまくるという予想通りの展開になりました。  昨今では店舗風俗壊滅の立役者が新住民。店舗風俗は全てデリヘル化しました。店舗のような用心棒がいないのでナマ本番競争になり、かつ女の子が暴力にあうケースも高くなります。しかもナマ本番をやっているので警察を呼びにくい。かくして暴力沙汰と性感染症が拡大する。性産業は少しも減らないのに、危険ばかり拡大する。これもすべて、新住民の多くが「目の前から何か汚いものが消えれば社会がよくなった」と勘違いする類いの輩だから起こったことです。
 米国プロテスタントの特徴は、極端な善悪二元論であることです。新住民の特徴も極端な善悪二元論であることです。宗教社会学の世界では米国プロテスタントの二元論は、二元論が悲劇をもたらした歴史を知らざるがゆえだとされます。地域社会に根付いた歴史のない新住民も、極端な二元論がもたらす背理を歴史的に知らないのでしょう。
 二元論に支配された輩は、自分たちが良いと思うことをすれば社会が良くなると思い込みます。その結果「気分はスッキリ、社会はメチャクチャ」というマスターベーションが起こります。安倍晋三的なマスターベーション右翼と同じメカニズムですね。自称保守だろうが、社会の成り立ちや歴史のいきさつを知らないという意味で、保守の反対物という他ありません。
 2ちゃん右翼のようなマスターベーション右翼を含めて、こうした連中は馬鹿ですから、操縦するのは簡単です。不安のポピュリズムや不安のマーケティングで簡単に煽れます。そうすれば「断固とした措置をとれ!」「国は何をやってるんだぁ!」といった大合唱になります。それを改めるにはどうしたらいいか。やはり藤原プログラムしかないでしょう。
藤原 僕は結論として、教育を再生するにも、思いやりや、志や、愛国心なども含めた日本人の気持ちすべてを再構築するにも、1万校ぐらいの中学校に残らず「学校を支援する」という名の支援組織を作って、そこを新しい地域社会として形成する以外にないと思っています。学校と保護者の間に中間組織を作っていくというわけです。
 そうすると、校長の役割も変わってきます。ただ単に事務の統括で管理職とか呼ばれて、上にあぐらをかいて座っているような人ではだめで、行動派で外とのネットワークが構築できる人が必要になってきます。
 もう一つ、和田中では地域でボランティアのネットワークを組織して、土曜寺子屋を実施しています。これは、土曜午前中の塾みたいなものです。学校の授業だけでは足りない、もっと勉強したい子に勉強させる場を与える取り組みです。
 地域の人で、この活動に参加している大人はいま約60人で、半分以上が大学生です。土曜寺子屋の初代教務主任は、実はニートだった人です。和田中で何かおもしろいことが起こっているので来てみた、それで生徒たちの学習をフォローしているうちに才能が発揮されて、なんとこの4月から小学校の教諭になりました。渦を作っていくと、そういうドラマが起こっていくんです。
 いま、生徒数380人の学校で、200人ぐらいが自主的に土曜寺子屋に通ってきています。月曜から金曜に出された宿題などをやって、わからなかったら大学生のお兄さんお姉さんのボランティアに聞く。お弁当を食べたら午後からは部活ですから、土曜日は一日中学校にいるんです。
 ボランティアは学生が多いので、略して学ボラと言っていますが、最近の傾向としては、なんと団塊の世代が戻ってきました。団塊の世代の人たちはこれからたくさん地域に出てきますので、その人たちを味方につけるか、敵に回すかで大違いです。
持ってくるのは、塾の宿題でも何でもいいんです。もし家でやったら、わからない時点で誰にも聞けないから、つまらなくなってしまいます。ですが、学校に来れば聞けるわけです。さらに勉強したくなくても、来てしまえばみながやっているからなんとかやれるんです。
 こういう場所を全国に1万校作ったら、変わります。学力なんかあっと言う間に上がるでしょう。和田中もこういう努力が実って、いまの2年生は杉並区23校中でいちばん学力が高いという学校になりました。
 また、平日の15時から17時までは図書室を開放して、そこに子どもたちや地域の本好きなおばさんなどが来て、一緒にいろいろな話ができるようにしています。僕はこれをナナメの関係と言っています。お父さんと息子の関係とか、先生と生徒の関係は縦の関係ですが、人間は縦の関係だけで育めるかというと、そうではありません。昔は利害関係のない第三者との関係がきちんとあって、子どもたちはそういう人に勇気づけられたり、叱られたりしながら生きてきたと思うんです。いじめられても、たぶん親や先生に守られたりしたのではなく、地域社会にいたお兄さんとかお姉さんに守られたんじゃないかと思います。そういうナナメの関係がいま決定的に足りません。だから生きづらい。いじめられていることは、親や先生には言えない。親が好きであればあるほど、言えないんです。いまの小中学生の子どもたちのプライドの在り方は、自分がやられる側に廻ってしまった時には、死んでも親や先生には言えないという感覚です。だからほんとうに言わないで死んでいくんです。死なないですむようにするには、親が気をつけたり、先生がもっと心を開いた指導をと言っても無理です。そうではない。お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじさん、おばさんなど、ちょっと距離感のとれる第三者と、多様なナナメの関係をどれくらい作れるかが大事なんです。
 最後に少しだけ経済についての話をすると、60人のボランティアにいくらかかるかというと、約600万円で運営できます。それに対して、教員を1人増やすのにかかるお金は、約1,200万円です。教員を1人増やすのと、60人のボランティアを結集して、教員だけではなくて地域の人たちと共同経営する学校を目指すのと、もし皆さんが保護者だったら、どちらを選ぶでしょうか。
 もう一つだけ付け加えると、実は後者の政策をとった場合、なんとその地域の地価が上がります。ボランティアは自己犠牲と思うかもしれないけれども、そうじゃない。地域の人が学校に手を入れれば入れるほど、その学校の評判が上がり、実際に学びが豊かになっていくので、そこに住もうとする人が増えます。そして、その人たちが和田中を選ぶようになると、地価が上がっていきます。ということは、地域の人としては学校に手をかければかけるほど、自分の土地資産価値を維持できるという、実態経済も伴った話になるわけです。ですから、地域社会をベースに市民社会の在り方をここでいちばん学んでいるのは、もしかしたら子どもたちではなく、実は大人たちかもしれないと私は思います。

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