ちくま新書

自然観察への招待

4月刊、盛口満『身近な自然の観察図鑑』の「はじめに」を公開いたします。道ばたのタンポポ、公園のテントウムシ、雑木林のドングリ…身近な自然を観察すれば、発見がたくさん。本書を持って、街や林に出かけてみましょう!

 僕は、大学卒業以来、理科の教員をしています。大学を卒業し、社会人となって最初の赴任先となったのは、埼玉県の私立の中高一貫校でした。その後、沖縄に移住し、フリースクールの講師などを務め、現在は沖縄県那覇市にある小さな私立大学で教員をしています。振り返ると、教員になって、30年が過ぎました。中学生、高校生、大学生と、時により教える対象者は異なりましたが、授業づくりにはいつも(今も)苦労をしています。   
 「なぜ、理科を学ばなきゃいけないの?」
 生徒や学生たちの、そんな声にどう答えたらいいのだろうかということが、常に頭のどこかにありつづけています。
 僕は小さなころから生き物が好きでした。ですので、生き物や自然に関することなら、誰に言われなくても調べたりすることが苦になりません。そうして、長じて理科教員という生業にまで進んだわけです。しかし、みながみな、そうではありません。今、この本を手に取ってくださっているみなさん自身や、みなさんの周囲の方でも、学生時代、理科が好きだった人もいれば、理科なんて好きではなかったという人もいると思います。 
 ところで、じつは世の中には、一度も理科を学んだことがないという人もいるのです。それが、僕が教えていた夜間中学の生徒さんです。 
 僕は一時、那覇市にある夜間中学でもしばらく授業を担当していました。沖縄は激烈な地上戦に見舞われ、焦土と化した歴史があります。そのため、戦中戦後の混乱期に、満足に義務教育を受けられなかった方が少なからずいます。「60年待って、ようやく学校に通えたよ」……ある生徒さんは、そんなふうに語りました。クラスの平均年齢は70歳を超えます。でも、その学校の生徒さんは、みな勉強熱心です。夜間中学の授業では、「なぜ、学ばなきゃいけないの?」などという質問は、誰からも投げかけられません。
 夜間中学に入学する生徒さんの中には、小学校にもほとんど通ったことがないという生徒さんがいます。当然、この生徒さんは、夜間中学に入学するまで理科の授業を一度も受けたことがありません。いったい、理科の授業を一度も受けたことがなく、70歳になった方に、どんな、理科の授業をしたらいいのでしょう。
 僕は、悩んだ挙句、最初の授業で、肉じゃがを作ることにしました。
 なぜ、理科の授業で肉じゃがを作ったのでしょうか。
   理科で扱う重要な項目の一つに、化学変化があります。化学変化には、「もとのものとすっかり変わって、容易に元に戻らない」という特性があります。じつは、料理というのは、化学変化を利用したものが多いのです。生のじゃがいもを加熱調理すると、味も歯触りも変化します。肉も同様です。そして加熱調理したじゃがいもも、肉も、冷えた後でも、生の状態に戻ることはありません。こうして、肉じゃがを教卓のコンロの上で作りながら、「みなさんが毎日やってこられた調理というのが、すなわち理科なんですよ」という話をしたのです。
 本書は自然観察がテーマの本です。自然観察にも、この夜間中学の理科の授業のエピソードと同じことが言えるのではないかと思うのです。自然観察といっても、大仰に構える必要はありません。日常行っていることに、ほんの少し、それまでと違った見方を加えるだけでよいのです。

 僕は現在、大学の教員をしていますが、理科教育を担当している僕のゼミを受講している学生たちでさえ、理科嫌い、自然離れの進んだ学生が多くなっている現状があります。街中出身の学生の一人は、生き物の名前なんて、ほとんど知らないと僕にいいました。「草は草。虫で知っているのはセミ、ゴキブリ、アリぐらい」と。そんな理科嫌い、自然離れの進んだ学生たちと話をしながら、どうしたら彼ら・彼女らに自然に親しみをもってもらえるだろうかと考えています。そのため僕にとって、「身近な自然とはなにか」というのは、重要なテーマです。
 身近な自然とは、いったいどこにあるものなのでしょう。本書でも、この問を念頭に、身近な自然の例を探してみたいと思います。
   たとえば、現代社会においては、多数の人が、一見、自然環境の乏しい都市環境の中で暮らしています。また、たとえ田舎と呼ばれる地域に暮らしていたとしても、日々の暮らしの中で自然と距離があるという点では、都市部で暮らす人々とあまり違いはないかもしれません。そのようなことから、「身近な自然観察」をテーマとする本書では、日常行きかう街中の通勤路や通学路にも自然はあるのか、はたまた、自然があるとしたら、どのような自然観察ができるのかということについて、まず、取り上げてみようと思います。
   また、気軽に出かけることのできる近所の公園には、どんな自然があるのでしょうか。さらに視点を変えれば、家の中やベランダ、庭も自然観察ができうる場だと考えます。そして、それこそ日々口にしている食材からも自然観察はできるということも紹介してみたいと思います。
 そのような身近な自然を対象とした自然観察を入り口にして、徐々に都市近郊の里山に出かけていく……といった、より能動的な自然観察へいざなうのが、本書のねらいです。
   本書の中で、僕は身近な自然観察について紹介し、読者のみなさんに自然観察を勧めてみたいと考えているわけですが、そもそも、それはなぜでしょう。
 もう一度、夜間中学の話に戻ります。
   なぜ、夜間中学の生徒さんは70歳を超えて毎日学校に通ってこられるのでしょうか。  
   夜間中学の生徒さんの答えはシンプルです。しかしそれは、とても根本的なことに気づかせてくれる答えです。
 「勉強をすると、あたらしい自分に出会えるから」
   これが、夜間中学の生徒さんからの答えなのです。人は誰しも、いくつになっても、学ぶことを楽しむことのできる生き物なのだと思えてきます。
 「なぜ、学ぶの?」
 「それは、あたらしい自分に出会えるから」
   このやりとりも頭の隅におきつつ、本書では、自然を見ること、楽しむこと、すなわち自然観察の方法について、みなさんに紹介していきたいと思います。