日本人は闇をどう描いてきたか

第一回 地獄草紙 ――永遠という絶望

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。

 暗闇には混沌とした怖さがある。闇の中に何かがうごめいているにせよ、逆に全くの無であるにせよ、人間は見えないことや分からないことに対して本能的な恐怖を感じる。

 そこで、闇に光をあて、もしくはかすかな音を聴き、気配を探って、その中にあるものの正体を捉えようとする。人類には、宗教、哲学、文学、科学、そして芸術、様々な方法で闇を切りひらいてきた歴史がある。

 これから私が試みるのは、古い日本絵画の中に描かれた闇をのぞき込み、その深淵を見極め、かつての日本人が何に恐怖し、完全には克服することのできない闇といかにして対峙、または共生してきたかを探索することである。古代・中世絵画に描かれているのは、時として、現代を生きる私たちには不可解な恐怖の対象であり、一方で、時代を超えた普遍的な怖さである。

     *  *  *

 最初に、「地獄草紙」を取り上げる。仏典に基づく絵巻で、平安時代末期に制作されたと推定される。二十場面が現存し、巻子(かんす)や断簡の形で国内外の美術館・博物館に分蔵されている。ここに掲げたのは、東京国立博物館蔵「地獄草紙」のうち、雲火霧処(うんかむしょ)地獄。亡者を焼き尽くす地獄の猛火が描かれている。

地獄草紙 第三段 雲火霧処(国宝、東京国立博物館蔵)
画像出典:別冊太陽 日本のこころ201 やまと絵 日本絵画の原点(2012年、平凡社)より

仏教がもたらした光と闇

 六世紀半ば、朝鮮半島を経由して日本にもたらされた仏教は光そのものであった。『日本書紀』には、百済の聖明王から献上された仏像を目にした欽明天皇が「仏の相貌端厳(かほきらぎら)し」と述べたと記されており、はじめて仏教に接した古代日本人の感慨が「光」そのものであったことを物語っている。「光あれ」とは、『旧約聖書』創世記において、神がこの世を光と闇に分かつ時に発せられた言葉であるが、仏もまた、この世界に光をあて無明(むみょう)の世界に姿形を与える役割を担っている。

 ただし、光によって照らし出された世界の一隅には、思いがけない恐怖も姿を現す。奈良時代の仏教に大きな影響を及ぼした『華厳経』には、仏の足下から放たれた光明が世界の隅々を照らし出す場面がある。その時、仏菩薩の姿が明らかとなる一方で、世界の最下辺には地獄の情景も浮かび上がる。これは仏教において普遍的な世界観であり、多くの経典に説かれている。そして、このような瞬間を表す古い作例として、東大寺二月堂本尊十一面観音像の光背がある。光背の裏面には、上端から下端に向かって、仏、菩薩、天、人間と次第に下降する世界が表され、その最下層に、日本最古の地獄絵が線刻されている。

地獄の果てしなさ

 こうして、仏教伝来以来、日本人にとって仏国土への憧れは、堕地獄の恐怖と表裏一体のものとなった。地獄とはなにか、どのような理由で地獄に堕ちるのか、そこではいかなる恐怖が待ち受けているのか。

 古代インドで誕生した仏教の特徴として、数量的な精緻さがあげられる。例えば『観無量寿経』で、阿弥陀如来の身体を「夜摩天にあるという閻浮檀金(えんぶだごん)を百千万億あわせたように輝いている。仏身の高さは、六十万億那由他(なゆた)恒河沙(ごうがしゃ)由旬(ゆじゅん)である」(那由他、恒河沙はそれぞれ数の単位で、諸説あるが前者は十の六十乗、後者は十の五十二乗という。さらに、由旬は高さ・長さ・距離の単位で、これも諸説あるが一由旬は十四・五キロメートルほど)と説くことと同じく、地獄についてもその時空間について精密に記述する。経典によって異同はあるものの、地底には一万由旬ごとに下降しながら幾多の地獄があるといい、亡者は、人間世界の二百年が一日に相当する夜摩天のさらに二千年が一日にあたる地獄で、二千年の責苦を受けると説く。人間の日常的な時間・空間認識では到底把握しきれない地獄に堕ちてしまった人間は、逃れようもなく永遠の責め苦を受け続けることになるのである。

 記録の上では、九世紀に遡って地獄変屛風(じごくへんびょうぶ)というものの存在が知られる。歳末の宮中仏事である仏名会で使用されたもので、その年の罪業を悔い改めるために、諸仏の名を称える儀礼空間の背後に立てまわされていた。悪業によって堕ちる最悪の場所である地獄が、屛風という大画面によって可視化されることで、仏事に参加する人々の祈りは一層切実なものとなったであろう。地獄変屛風の、気味悪く堪え難いありさまを「ゆゆしう、いみじきこと限りなし」と書き記した、清少納言の言葉が残る(『枕草子』、第七十六段)。

 平安時代の貴族たちは、経典を通じて知ることとなった地獄を、このような視覚表象を通じて具現化していた。自らの人生に続く死後の時間として、あるいは地中奥深くにある空間として、地獄のリアリティを感じ取っていたものであろう。

堕地獄の理由

 地獄変屛風の遺品は、残念ながら現存しない。平安時代に制作された地獄絵の実態を伝える唯一の現存作例が、ここに掲げた「地獄草紙」なのである。この絵巻の所依(しょえ)経典である『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』には、地上に近いところから下に向かって連なる八大地獄<活(かつ)・黒縄(こくじょう)・合(ごう)・叫喚(きょうかん)・大叫喚(だいきょうかん)・焦熱(しょうねつ)・大焦熱(だいしょうねつ)・阿鼻(あび)>と、そのおのおのに付属する十六別所(じゅうろくべっしょ)に関する記述がある。

 東京国立博物館蔵「地獄草紙」(全四段)に描かれているのは、そのうち叫喚地獄に付属する四つの別所である。阿鼻叫喚という成語にもなった、苦しみと恐怖に満ちた世界である。ここに掲げた「雲火霧処」の詞書には、経典に基づく以下の内容が、漢字仮名交じりの平易な和文で記されている。

またこの地獄に別所あり。名をば雲火霧処といふ。このところの衆生、むかし人間にして殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)ならびまた酒をもて持戒(じかい)のひとに与へて、酔はしめてたはぶれし、侮(あなづ)り恥を与へて心に喜び誇りし人、この地獄に堕つ。この地獄には、中に炎満てり。あつさ二百肘。獄卒、罪人をとりてその猛火のなかに、投げ入れ、罪人足より頭(こうべ)に至るまで焼け通りて消え失せぬれば、またよみがへる。よみがへればまた焼く。かくのごときやむことなし。叫ぶ声、天を響かす。

 詞書の冒頭にある「この地獄」とは、叫喚地獄のことを指す。苛烈な責め苦が待つ、下層に位置する地獄である。生前に殺生、盗み、淫らな行いにふけった者がここに堕ちる。さらに、仏教の戒律(殺生をしない、盗みをしない、淫らな行いをしない、噓をつかない、酒を飲まない)を守っている者をだまして酒を飲ませ、酔ったところを愚弄して恥をかかせた者もここに堕ちる。破戒は大罪であり、それを噓によって誘引することは二重に罪ぶかい。この地獄に堕ちた者を、獄卒がつかんで猛火に投げ入れると、たちまちに焼け失せる。ところがすぐによみがえって、また同じように焼かれ、永遠にこれが続く。

猛火の時代

 終わりのない、果てしない責め苦に、地獄の恐怖の本質がある。罪と罰が、現世の一回きりの人生で完結するのではなく、死後の世界という別の時空間と結びつき、永遠という絶望が口をあけて亡者を待ち受けている。人はそこに恐れおののく。

 画面の中心を、紅蓮の炎が占めている。朱色を基調に、所々にやや明るい丹(たん)を用いて、めらめらと燃え続ける炎を表す。背景に墨を刷いて、本来ここが漆黒の闇であることを示している。熱を帯びた炎も光源には違いないが、闇を払拭するほどの明るさはない。ほの暗い炎の奥に浮かび上がる無数の亡者の表情は、詞書の「叫ぶ声、天を響かす」という一文と相まって、恐怖と苦痛、そして絶望を可視化する。

 一切を焼き尽くす炎は、火事や戦乱を通じて、平安時代末期の京都に住む貴族たちにとっても、現実的な恐怖であったはずである。この絵巻の注文主と目される後白河上皇(一一二七~九二)の治世も、保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱続きであった。平重衡(一一五七~八五)の南都焼き討ちによって、東大寺の大仏が焼け落ちるのも治承四年(一一八〇)のことである。地獄をもしのぐ猛火が、地上で燃え盛っていた。

(参考;「地獄草紙」は、e国宝サイトで参照することができます。)

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