日本思想史の名著を読む

第8回 徳富蘇峰『将来之日本』

徳富蘇峰の存在感

 昨年の秋、熊本地震の被災地を訪ねる機会があった。益城町、震源地の近辺にある潮井神社には、七十センチも隆起した断層が現われ、石段が破壊されていて、震度七の地震の怖ろしさが身に迫ってくる。そして同じ境内に「蘇峰先生誕生地」の碑が建っていることに気づいた。一九三三(昭和八)年、当時には評論家・随筆家・ジャーナリストとして大御所のようになっていた徳富蘇峰(文久三・一八六三年~昭和三十二・一九五七年)が故郷を訪れたとき、地元の有志によって建立されたもの。
 蘇峰と言えば、熊本の大江村で大江義塾を開いたことが印象に残っていたが、母方の実家、矢嶋家が益城町にあり、そこで生まれたのである。蘇峰の父、徳富一敬は横井小楠の弟子であり、母の妹も小楠に後妻として嫁いでいる。小楠が晩年をすごした熊本市内の沼山津は益城町に隣接しており、その旧居であった横井小楠記念館も、この地震で大きな被害を受けた。そんな地理上の関係も、現地に行って実感できたのである。
 現在、近代史に関心のある向きを除けば、徳富蘇峰の生涯や業績について知っている人は、あまり多くないだろう。だが、明治の思想家のなかでは息長く読み継がれている部類に属する。その業績を顕彰する公益財団法人「蘇峰会」は熱心に活動を続けているし、その著作も、大著『近世日本国民史』の一部などわずかではあるが、文庫本でいまでも入手できる。近年には生誕百五十周年を記念した杉原志啓・富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト 徳富蘇峰 1863-1957』(藤原書店、二〇一三年)という立派な論集も刊行された。福澤諭吉や内村鑑三には及ばないにしても、読書界での存在感をしっかりと保っているのである。
 蘇峰の著書の数は、生涯で三百冊をこえるという。しかしそのなかで、支那事変下の時局刊行物である『昭和国民読本』(一九三九年)を別にすれば、もっとも読まれた作品が『将来之日本』(一八八六年)である。刊行時に蘇峰はまだ数えで二十四歳の若さであった。田口卯吉が主催する経済雑誌社から刊行され、たちまちに増刷されて、再版の序文は中江兆民、三版の序文は蘇峰の同志社での師であった新島襄と、当時のビッグネームの知識人たちが寄せている。若い世代の論者の鮮烈なデビューであった。
 蘇峰は熊本洋学校をへて京都の同志社英学校で学んだのち、熊本へ戻って大江義塾を開く。開塾のときは二十歳。自由民権運動の熱気が及ぶなかで、同世代の青少年たちとともに学び、活発に議論していた。そして『将来之日本』を刊行したのである。この本が好評だったのを受けて蘇峰は本格的に上京し、民友社を設立して雑誌『国民之友』、さらに新聞『国民新聞』を創刊する。明治時代を代表するジャーナリストの位置につき、民友社からは山路愛山や竹越三叉といった文筆家たちも輩出して、政論・歴史論に健筆をふるうこととなった。
 『将来之日本』の基礎になっているのは、ハーバート・スペンサー、ジョン・ブライト、トマス・B・マコーリーといった、大江義塾で塾生とともに読んだ英国の哲学者・政論家・歴史家の著作である。だが本文の末尾には、横井小楠が詠んだ漢詩の一節が引用されている。それは徳川末期から明治時代に至るまで目まぐるしく変化した熊本の思想状況を、そのままに反映した書物でもあった。

「新日本」への扉

 『将来之日本』の冒頭で蘇峰は、当時に至るまでの十数年間における日本の変貌ぶりは、人類史上に類を見ないほど、予想をこえた規模で、急速に進んだと指摘する。三十年前は「気息奄々」たる状態にすぎなかった日本の「文明」が、たちまちに西洋諸国の跡を追いはじめ、いまでは西洋と競争しようとする勢いにまで至っている。その変化の激しさを、蘇峰はこう表現する。

 「若シ試ニ徳川将軍家斉公全盛ノ時ニ死シタル江戸ノ市民ヲシテ今墓中ヨリ呼ヒ起シ銀座街頭ノ中央ニ立タシメヨ。其街傍ニ排列スルノ家屋。其店頭ニ陳列スル貨物。其街上ヲ往来スルモノ。其相話シ相ヒ談スルモノニ就キ。之ヲ見セシメヨ。彼等ハ如何ニシテモ之ヲ以テ彼等ノ所謂ル江戸ナラントハ夢ニダモ解スル能ハス。恰モ彼ノ夢想兵衛カ飄々然トシテ紙鳶[=凧]ニ跨リ天外万里無何有ノ郷[=知らない土地]ニ漂着シタルノ想ヲナスナラン。」(引用は植手通有編『明治文学全集34 徳富蘇峰集』筑摩書房、一九七四年による)

 「家斉公全盛ノ時」は、文政年間としても刊行当時からは六十年ほど前にすぎない。そのころに生きた「江戸ノ市民」がもしいま甦ったなら、銀座の洋風建築が並ぶ風景と、そこを歩く人々のようすを見て、同じ町とはとても思えないだろうというのである。それだけ、明治時代に入ってからの社会の「進歩」は急速だった。この「江戸ノ市民」のたとえには、大江村から上京したときの青年蘇峰の驚きも反映しているかもしれない。
 この変化のなかで、廃藩置県を通じて「封建社会」は「転覆」した。国会の開設も四年後に迫っている。もはやかつての身分制は解体して、「士族」と「平民」とが同じ地位に並ぼうとしている。蘇峰はここで徳川時代までの日本を「旧日本」、明治に入ったあとの時代を「新日本」と呼んで、くっきりと区別する。
 この「新日本」は、蘇峰だけでなく、民友社に集った若い論者たちの共通の常用語であった。福澤諭吉のように、「御一新」のときにはすでに世に活躍する大人になっていて、時代の転換を経験し、「一身にして二生」を経験したという自己認識をもつ世代とは異なる。蘇峰らは、すでに「新日本」が始まった時代になってから物心がついて、成長していった、新しい青年たちである。「新日本」は、かつての士族の気風を引きずった旧世代に対する、新世代によるマニフェストの決まり文句であった。
 しかも、風俗がきらびやかになり、経済が豊かになり、人々のあいだの境遇の平等化が進むのは、日本だけの特殊な現象ではない。ハーバート・スペンサーやジョン・ブライト、そしておそらくアレクシ・ド・トクヴィルの著作を参考にしながら、蘇峰はこの現象が全人類にわたる「社会」の「進歩」の法則に基づくものだと説く。
 一言で言えば、軍事中心の社会から、経済中心の社会へ。前者は「武備機関」が秩序を支える中心となって、「威力」による支配と身分制によって厳格に統制されている。しかし後者は「経済世界の法則」に則って商工業の競争が活発に行なわれ、人々が自由に結合する「平等主義」の社会である。そして前者から後者への移行に伴って、国どうしが戦争を通じて生存競争を繰り広げる「腕力世界」から、貿易を通じて相互依存が進む「平和世界」へと、国際社会も変化してゆくのである。
 ここでの蘇峰の見立てによれば、十九世紀のヨーロッパではすでに「平和世界」への移行が進み、「平民主義」すなわちデモクラシーの勢力が拡大を続けている。日本においても廃藩置県によって武士の支配権力が一掃された結果として、「生産主義」「平民社会」へ変わってゆく条件が整っている。いまこそ、旧来の「武備機関」の論理を継承した「国権論」や「武備拡張主義」に対する戦いを進め、日本を真に「新日本」へと改革しなくてはいけない。それが「将来ノ日本」に求められる姿であった。

「田舎紳士」のゆくえ

 新しい「平民社会」「平民主義」を支える重要な制度として、やがて開設される国会を蘇峰が考えていることは、『将来之日本』における言及から明らかであろう。だが、その時にデモクラシーの主体としてどういう人々を考えているのか、この本の記述からは明らかでない。その点を蘇峰は二年後に『国民之友』に連載した「隠密なる政治上の変遷」と題する論説で明らかにしている。『将来之日本』においてもすでに、士族を中心とする自由民権運動について、それが「武備機関」におけるモラルに支配され、ややもすると「国権論」へむかってしまう傾向を批判していた。この論説ではさらに論旨を進めて、民権運動家の粗暴で反動的な「士族根性」を詳しく批判している。
 そして、士族に代わる政治の主体として蘇峰が提示したのが「田舎紳士」であった。彼らは、地方に土地をもち、農業と商業をなりわいとする、いわゆる名望家である。徳川時代から村役人として地方自治の経験を積んでおり、明治に入ってからは県会議員として活躍する者も多いので、人民の権利をしっかり守る気風と、社会全体のことに責任をもつ知見との両方を備えている。彼らが「中等民族」として分厚い層となり、「生産世界」の自律を支えながら政治に参与すること。それが、「我が日本の新たな蘇生」を進める大きな力になる。蘇峰はそう論じた。
 明治時代後半からの社会主義運動の登場を知っている現代人からすれば、いかにもブルジョア的、微温的な政治改革論に思えるかもしれない。だが『将来之日本』で「平民社会」への転換の事例として強調するのは、アダム・スミスの自由市場論とともに、十七世紀英国の三王国戦争、いわゆるピューリタン革命であった。今井宏『明治日本とイギリス革命』(ちくま学芸文庫、一九九四年)――復刊が望まれる名著である――によれば、議会と国王、自由と専制、ホイッグとトーリーといった二分法で事実を整理し、前者が後者を克復する進化の過程として歴史を語るのは、マコーリーに代表される「ホイッグ史観」の特徴であった。蘇峰は『将来之日本』で、この二分法の論理を日本と人類全体の歴史に拡大適用しているのである。
 いわゆる明治維新について、蘇峰の前作であるパンフレット『自由、道徳、及儒教主義』(一八八四年)では「維新大革命」という名で呼んでいる。『将来之日本』でも当初は「維新革命」であったが、過激な言い回しを避けて「維新改革」に代えたのだという。「維新革命」という表現は、その後も民友社のメンバーでは竹越三叉の著作に見えるから、「新日本」と並んで彼らの常用語だったのだろう。
 「維新革命」による「新日本」への改革は、「旧日本」の残存勢力である藩閥官僚と民権運動家によって、不十分なものに終わっている。今こそ、第二の「革命」を通じて本当の「新日本」への転換を。――よく知られているように、のちに蘇峰は日清戦争と三国干渉をきっかけにして、日本の軍事的「膨脹」を支持するように変わり、藩閥政治家との結びつきを強めてゆく。しかし『将来之日本』には、そうなる前の、国会開設に対する期待に溢れた時代の熱気が、そのままに保存されているのである。