単行本

アンドロイドという革命的デバイス

PR誌「ちくま」5月号よりアンドロイド研究の第一人者である石黒浩さん初の小説集『人はアンドロイドになるために』の書評を転載します。評者は作家で、話題の科学ルポ『明日、機械がヒトになる』(石黒浩インタビューも収録)を手がけた海猫沢めろんさんです!

 使い古され手垢にまみれた言葉が、まるで初めて聞く珍しい言葉のように思える瞬間がある。例えばそれは、優れた文学者の書く詩、あるいは、言葉を覚えたての子供と、意味の通じない会話を交わしたとき。
 数年前、小説の合間に取り組んでいた科学ルポの仕事で、アンドロイド研究者、石黒浩と出会ったときにもそうした瞬間があった。どうしてアンドロイドを作るのか? そう尋ねると彼は言った――僕は人間のことがわからない。だけどもし、自分が作ったアンドロイドが社会に受け入れられ、人と同じだと認識されたら、そのとき人間の定義が明らかになる――と。つまり、彼はアンドロイドを通して、「人間とはなにか」を探っているのだ。このとき、ぼくは新鮮な感覚をおぼえた。
 日本の教育になじんだぼくらは、学問を理系と文系に分けて考えてしまいがちだ。文系とは、つまりは「人間の心」を探るもので、理系とはそれ以外を考えること――そう思いこんでいる。だからこそ、アンドロイド製作、という理系の仕事をしている彼の口から出た「人間とはなにか」という文系の言葉は、とても新鮮だった。おまけに、文章や言葉で問われるのと、人間そっくりのアンドロイドが目の前に存在している上で問われるのは、体験としてまったくちがっていた。誤解を招きやすい表現であることはわかっていたが、そのときのことをぼくはルポのなかで、「科学のなかの文学性」と表現した。
 本作を読んで感じたのは、まさにあのときと同じ、「科学のなかの文学性」だった。物語は二十一世紀が過去として語られるような時代。ある中学校で、ロボット哲学者のイシグロが――エリカ、ナカガワ、ナツメ――三人の生徒に、夏休みの集中ゼミを行うところから始まる。イシグロは生徒に五つの小説を読ませ、アンドロイドと人間についてディスカッションする。講義の合間に短篇が挟まれるというのは、アシモフの『われはロボット』を思わせる構成だ。
 五つの小説のなかには、アイデンティティ、コミュニケーション、芸術、文化、宗教――およそ考えられる限りの哲学的テーマがふんだんに盛り込まれている。登場するテクノロジーも、サイボーグ化、遠隔操作ロボットの利用、ブレインアップローディング、遺伝子操作、ナノマシン注入、身体改造、分身ロボットなどなど、昔ならどれかひとつでハードSFが一本書けるようなネタだ。にもかかわらず、読んでいて身近に感じられるのは、それらが今の技術の延長線上にあるからだろう。七〇年代に筒井康隆が言った「SFの浸透と拡散」もここまできたか、と感慨深くなる。
 なかでも個人的に面白いと感じたアイデアは、四篇目の「時を流すRadical Paradise」で描かれる、キリストやマリアや関羽など、歴史上の聖人のアンドロイド化だ。主人公は、単なる機械を製作しているはずなのに、なぜか聖人たちを冒涜しているような気分になる。果たして人間は、何を「聖なるもの」として認識するのか。この問いは、人間と人間そっくりなものの境界を決定するものでもある。テクノロジーが無限に拡張し、世界中の至る所にアンドロイドがばらまかれ、人間がそうしてきたようにアンドロイドが地球を覆い尽くす――全体のなかでもかなり奇妙な一篇であるが、ぼくはこの物語にもっとも魅力を感じた。
 小説で未来や最新技術を描き、社会や人間――あるいはそれを超えたものについて考えるというのは、SFというジャンルがその歴史を通じて行ってきた行為だ。そのなかで、哲学的な発想で書かれた「スペキュレイティヴ・フィクション(思弁的小説)」というムーブメントがあったことを思い出させる。
 しかし、本作を読み終えてみると、もはやジャンルのことはどうでもよくなり、世界を一変させてしまうアンドロイドというデバイスのポテンシャルに、ぼくは抑えきれない高揚感をおぼえていた。たとえばそれは一台の黒いスマートフォンが、我々の生活を変えてしまったような、デバイスによる革命の可能性だ。アンドロイドはただのロボットではない。人類全体に「おまえは何者だ」と問うてくる新しい存在なのだ。そして本書もまた、読者に同じ問いを投げかけている。

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