日本人は闇をどう描いてきたか

第二回 餓鬼草紙 ――産屋に現れた虚実の裂け目

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第二回は、出産場面を描いた作品から。

六道輪廻

 仏教では、因果応報(いんがおうほう)によって、輪廻転生(りんねてんしょう)する、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(あしゅら)・人(にん)・天(てん)の六つの世界を六道(ろくどう)と言う。

 現世では人間に生まれたとしても、罪を犯せばこの六道世界を永遠に輪廻することとなる。中でも、地獄・餓鬼・畜生は三悪道(さんあくどう)とも呼ばれ、とりわけ苦しみ深い世界である。殺生などの大罪を犯した者がここに転生する。

 三悪道のうち、常に飢えや渇きに苦しむのが、餓鬼道である。「地獄草紙(じごくぞうし)」と一連の六道絵巻として、平安時代末期に制作された「餓鬼草紙(がきぞうし)」は、そんな餓鬼たちの哀れな姿を表す。東京国立博物館蔵「餓鬼草紙」には、『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』に基づく三十六種の餓鬼のうち十種が描かれている。詞書が失われているものの、画面内容から餓鬼の種類を特定することができる。ここに掲げた第二段を詳しく見てみよう。

餓鬼草紙 第二段(国宝、東京国立博物館蔵)
画像出典:日本美術全集第5巻 平安時代Ⅱ 王朝絵巻と貴族のいとなみ(2014年、小学館)より

産屋の餓鬼

 出産の場面である。画面中央には、今まさに赤子を産み落とした女性が描かれており、その周囲を介添えの侍女や尼が取り巻く。産婦をはじめ女たちの多くは白い浄衣を着用し、産屋が清浄に保たれるべきものであったと分かる。室内にはかわらけの破片が散乱しているが、これは後産(あとざん)を促すまじないであったようだ(吉田兼好『徒然草』に拠る)。また、僧侶の加持と巫女の祈禱、左方から室内を覗き込む若い男の鳴弦(めいげん)によってこの場が結界され、それらの甲斐あってお産は順調に進んだものであろう。 ところが、産屋の中央に一匹の巨大な餓鬼が入り込み、嬰児を狙っている。そのことに、この場にいる誰一人として気づいておらず、人々の表情は安堵に和らいでいる。ただ絵巻の外の鑑賞者だけが、この後に続く凄惨な悲劇を予測して戦慄するのである。

嬰児を食う餓鬼

 小さな子供を食べる餓鬼について、『正法念処経』には二種が説かれている。そのうち一種を「食小児餓鬼(じきしょうにがき)」と言い、生前にあやしげな呪術を用いて、病人を惑(まど)わしたり他人の財物を盗んだりした者、あるいは羊を殺した者が、死後、まずは活地獄(かつじごく)に堕ち、数えきれない責め苦を受けた後に餓鬼道へと生まれ変わる。この餓鬼が得ることのできる食物は、人間の子供とその便のみ。そのため、産婦の住むところへ行き嬰児を獲って命をつなぐ。あるいは、這い這いをする赤子やようやく歩き始めた赤子を狙う。さらにその便を食いあらし、子どもを死にいたらしめる。

 もう一種は「伺嬰児便餓鬼(しえいじべんがき)」と言って、生前に自分の子供を殺された者が怨みを抱いて死ぬと、この餓鬼に生まれ変わる。変幻自在の力を持ち、血の気を嗅ぎつけ一瞬のうちに百千由旬(百四十五万キロほど)も移動する。産婦を見つけ、目に見えない小さな体となって忍び寄り、嬰児やその胞衣(えな)、便を食う。常に不浄の場所をうろつき、子どもをつけ狙いその命を奪う。怨念にとらわれるあまり、六道輪廻の宿業(しゅくごう)から逃れることができず、もはや再び人間に生まれ変わることも難しい。

 この場面に描かれた餓鬼の体は大きく、この点からは本図を「食小児餓鬼」と理解するのがふさわしい。ただし「伺嬰児便餓鬼」にまつわる、自分の子を殺された恨みで、血のにおいを求めて不浄な場所をさまよい歩く餓鬼の物語もまた、赤黒い臍の緒や血まみれの胎盤を生々しく描くこの場面理解に、一層の奥行きを与える。そうして見ると、画中の餓鬼は切なく哀れである。
 

見えないものを描く

 この絵の見どころは、構図の妙にある。

 産婦は左手を介添えの侍女の肩にまわして産みの苦しみに耐える。近世以前の日本では、座産(ざさん)が一般的で、絵画史料に見られる出産場面はほとんどの場合この形である。産婦の両ひざの間では、この世に生まれ落ちたばかりの嬰児が両手を挙げてわずかに口を開き、産声を上げている。母子ともに、皮膚に朱色で隈取りがなされ、必死に産み/産まれた者の生命力に満ちている。

 侍女たちの視線や指さす仕草が、鑑賞者の関心をこの母子に誘導する。また、産屋の様子が、部屋をまたいで描かれる侍女や若い男の姿によって、室外へ同心円状に伝播していくのは、「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」や「病草紙(やまいのそうし)」にも見られる、院政期絵巻の常套表現である。隅々まで計算された完璧な構図が、一定の緊張感をともなってこの場面に明るい調和をもたらす。

 ただし、この調和的世界は、餓鬼の存在によって刹那に転調するかりそめのものであることを、鑑賞者は知っている。餓鬼は誰の目にも見えず、それゆえ、画中の誰も餓鬼を指ささない。すべてのまなざしと指先は、巧妙に餓鬼を避けて交差する。

「見えていない」という状況が、この場面に不穏な空気を招き寄せる。

 さらに、餓鬼の視線と指先が正確に嬰児を狙いすます。左手で嬰児を指さしながら右手でこれを捕獲しようとする仕草は、対角線上に描かれた尼と相似形をなしている。喜びとともに赤子を抱きかかえようと身を乗り出した尼と、獲って食おうとする餓鬼。相異なる二重のまなざしの先に、無垢なる者が横たわっている。

 一見すると、ほのぼのとした調子でユーモアさえ感じられる場面であるが、それだけに、本図にはざらりと乾いた怖さが潜んでいる。
 

すぐそばにある恐怖

 目には見えないけれども、すぐそばにいる。このことが餓鬼の不気味さを増幅し、地獄とは異なる切迫した恐れへとつながったものであろう。貪欲や怒りという咎は人間として生きる限り避けがたい。自分も餓鬼道へ堕ちてしまうかもしれないという根源的な不安が、虚実の裂け目となって、鑑賞者自身をこの絵巻の内側へと搦め取る。

(参考;「餓鬼草紙」は、e国宝サイトで参照することができます。)

関連書籍