筑摩選書

「ミステリ」と「観光」から見えてくる大英帝国盛衰史

5月発売の筑摩選書『アガサ・クリスティーの大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代』から「はじめに」をお送りします。 ミステリの女王・クリスティーはまた観光の女王でもあった。その生涯にわたる傑作の数々における「ミステリ」と「観光」の変容を通じて、20世紀大英帝国の変貌を読み解きます。

観光ミステリを求めて
 では一体全体、一九世紀以降のミステリで観光があらわれ始めたのはいつ頃から、どのような経緯によってだろうか。
 ミステリ史として定評のあるハワード・ヘイクラフト『娯楽としての殺人:探偵小説の成長とその時代』はあまりに正統すぎてこの疑問に答えてくれない。
 昨今の日本では自己の専門を通して研究者がミステリを語ろうとする試みがあり、内田隆三氏には社会学(『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』)、廣野由美子氏には一九世紀英文学の視点からの著作(『ミステリーの人間学』)があるが、ここでも観光への言及はない。
 経済史学者の高橋哲雄氏はかつて『ミステリーの社会学:近代的「気晴らし」の条件』でミステリ誕生の起源を一九世紀末の英国の都市化現象とライフスタイルの変化による「余暇」の発生にみた。このまま展開すれば観光とつながっていきそうな予感がするが、書かれてから歳月がたち、残念にも続編は出ていない。
 よって何故そしていつ頃からミステリに観光がよく登場するようになったかを教えてくれる研究には、なかなか巡り合うことができないというのが現在の状況である。
 わたしのカンでは――という言い方がマジメでないのは承知しているが――、答えはアガサ・クリスティーあたりにあるような気がしている。『オリエント急行の殺人』『ナイルに死す』『白昼の悪魔』『復讐の女神』など、彼女の作品の多くは観光を素材にして書かれているからだ。
 それと比べると、コナン・ドイルの後、一九二〇〜三〇年代にあらわれて「ミステリの黄金時代」を築いたといわれる作家たち――G・K・チェスタトン、イーデン・フィルポッツ、アントニイ・バークリー、ドロシー・セイヤーズ、F・W・クロフツ、S・S・ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー(別名カーター・ディクスン)、ウィリアム・アイリッシュ(別名コーネル・ウールリッチ)、ダシル・ハメット、レイモンド・チャンドラーなど――のなかで、クリスティーほど、観光を取り上げた作家はいない。あえていえば、鉄道技師だったクロフツに交通機関を題材にした作品が多く、英国の田園を書いた作家にフィルポッツとセイヤーズがいることだが、その書いた量からいって、クリスティーの敵ではない。

アガサ・クリスティーにおける観光
 クリスティーを観光ミステリ作家として注目したのは、実はわたしが最初ではなく、既に著作はいくつかある。
 先ず、速水健朗に「クリスティーと観光」《Genron etc. Vol .7》2013)という、そのものズバリの論文がある。「クリスティーを語る上で、もっとも重要なキーワード」を「旅情」とし、彼女が英国南部の海岸リゾート地トーキーで生まれ、少女時代や最初の夫との海外旅行、そして二番目の夫は考古学者で、戦前毎年のように中東の遺跡発掘に夫婦で赴いていたなどの体験が、ミステリを書く上での動機になったとしている。もっとも、『オリエント急行の殺人』『ナイルに死す』といった一九三〇年代の作品を中心に論を展開しているので、読んでいるほうとすれば戦後についても知りたくなってしまう。実のところ、小著は速水氏の論文を読んで刺激を受け、自分の内に沸いた疑問を、わたしなりに解決しようと思って書き始めたものであることを告白しておく。
 文章も読みやすく、『ナイルに死す』では、日本で二時間のテレビ・ドラマ化したらということで配役まで想定している。こういうものを読ませられるとオレもこんなのを書きたいナと思うのは、わたしだけではないだろう――が、そこまでは、さすがに我が乏しき知見では追い付けない。
 平井杏子『アガサ・クリスティを訪ねる旅』は、労作且つ秀作である。クリスティーは観光地を舞台にしながらも、その多くは仮名として地理関係も曖昧にしており、それが研究者を困らせる。たとえばミス・マープルの住むセント・メアリ・ミードなど、ロンドンから二五マイルの距離にあるとは、最晩年の作品『復讐の女神』まで分からなかった。そんななか平井氏の著作は、クリスティー作品を注意深くあたり、現地を綿密に調査している。
 最後に霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』――これは、観光にとどまらず、わが国における全てのクリスティー論を凌駕する金字塔である。観光の視点からすると、ミス・マープルものに意外とセント・メアリ・ミードを舞台にした作品が少なく、むしろ旅先が多いこと、クリスティーが予定していたといわれる最晩年三部作という通説への疑問など、いずれも目から鱗の指摘で、今後クリスティーについて論じる者は、この書を一つの権威として格闘しなくてはならないだろう。それだけの高みをもった圧巻の書である。
 今あげた三冊の本を読んで、共通して感じるのは大変わかりやすいことである。クリスティーの原作も英語としてわかりやすいのだから、当然それを論じるものも同様であるべきだ。また、冒頭で書いたように、ミステリとは、その時代の表現であり、観光とはその時代に生きた人々の夢や憧憬なのだから、アガサ・クリスティーのミステリを観光の視点から考えることは、彼女の生きた時代の英国――二〇世紀に世界的帝国から一島国へと変貌するまでの英国――を明らかにしなければならないという気が、わたしにはしているのである。