妄想古典教室

第八回 女たちは石山寺をめざす

なぜ如意輪観音が本尊となったのか

 さて、石山寺建立のきっかけとなった聖武天皇と良弁僧正との関係は前世にすでに結ばれていたものとして、「石山寺縁起絵巻」は次のように語っている。

本願良弁僧正は、前世に行人として、舎衛国に到らむと思ふこころざし深かりけれど、功銭なきによりて流沙を渡らず、悲歎して日月を送るに、渡守、彼のこころざしを哀れみて、行人を渡す。時に芳契をなして曰く、「功銭なしといえども、すでに汝を渡しぬ。我が後世を祈るべし」と云々。「かの恩を報ぜむがために、君臣となるべし」といふ誓ひ深きによりて、行人は僧正と生まれ、渡守は天皇と生まれ給ふ。

 前世でも良弁僧正はやっぱり修行者であった。釈迦のいる舎衛国に行こうとしているのだが渡し舟の舟賃がない。悲歎にくれて日々を送っていると、見かねた渡守が無料で渡してくれる。そして「ただで渡してやったのだから私の後世のために祈ってほしい」という。そこで修行者は「この恩に報いるために、来世では君臣となる」という誓いをたてた。それで修行者が良弁僧正として、渡守は聖武天皇として転生したのだというのである。
 聖武天皇は東大寺を建立し、十六丈の金銅の盧舎那仏の像を鋳ろうとしていたが、黄金がない。そこで良弁を金峯山にやって祈祷をさせる。すると夢のお告げがあって、「我が山の金は、慈尊出世の時、大地に敷かむがためなり。近江国志賀の郡、湖の岸の南に一の山あり。大聖垂迹の地なり。かの所にして祈り申すべし」とのことであった。慈尊は、弥勒菩薩をさすから、先にみた『三宝絵』に書かれていたことにだいたい同じだが、ここでは弥勒が顕れたときに大地に敷くために使うのだと説明されている。なんとも豪勢なことである。それで滋賀の琵琶湖の南に山があるから、そこで祈れと言われるのである。そのお告げにしたがって、良弁が山に入っていくと、巌の上に座って、糸を垂れ釣りをしている老翁に出会う[fig.6]。老翁はこの山の上の巌が霊地であることを教え、自分はこの山の地主の比良明神だと名乗ると、「かき消つやうに失せにけり」とあって、魔法のようにすーっと姿を消して去ったという。比良明神は異国風の衣を着て赤い布を頭にのせた異形の姿で描かれている。

[fig.6]「石山寺縁起絵巻」
小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、1988年

 


 第二段で良弁は、天皇にこのことを告げると、「天皇のご本尊」を受け渡され、それをかの巌の上に安置し秘法を修する。すると陸奥国から砂金が掘り出され、よって年号を改めて天平勝宝となづけたという、というのは先の『三宝絵』に同じである。
 第三段で、すでに目的を達したので本尊を天皇に返そうとするのだが、この像が巌の上にくっついて離れない。天皇にその旨を告げ、地主であるところの比良明神にこの地を請い受けて、東大寺に先立って天皇の命による勅願寺として石山寺を建立した、とある。草創縁起には異形の神が守る土地を許しをもらって譲り受けて寺を建立するという話を持つものがいくつかある。だから寺の境内に明神を祀る祠を持つことも少なくない。ともあれ比良明神に譲り受けた土地に最初に安置された像は、聖武天皇のご本尊であったということであり、それはやはりどちらかといえば胎内仏のほうがイメージしやすいように思われる。
 このあたりの本尊はいったい何なのかといった問題に「石山寺縁起絵巻」はわりと無頓着である。結局のところ、そこはたいして重要ではないようなのである。「石山寺縁起絵巻」が強調するのは、如意輪観音の功徳というよりは、巻一の最後、第五段に「亭子の帝、常に当寺に臨幸あり」とあるように、宇多天皇(867- 931)をはじめとして、続々と有名人が参詣したことのほうなのである。
 巻二では『蜻蛉日記』の作者の藤原道綱の母、円融院(959- 991)、巻三に円融院女御、東三条院(藤原詮子962-1001)、『更級日記』作者の菅原孝標の女、巻四第一段では『源氏物語』の作者の藤原為時朝臣の女(紫式部)の参詣を語り、さながら芸能人のサイン入り色紙を店内に所狭しと貼り付けたラーメン屋のような売り込みようである。
 『蜻蛉日記』『更級日記』の作者が出てくるのは、これらの日記に石山寺詣でのことが書かれているからである。さまざまな断片をかき集めて、あの本のあの人も、この本のこの人も、みんなここへ参詣したんですよ!と宣伝しまくったのである。

石山寺のプロモーション
 石山寺の売りが明確に打ち出されるのは巻二の第一段からである。ここでは普賢院内供淳祐が石山寺で夢をみることで願いを叶えた話が語られている。淳祐は少年のとき、顔が醜く、頭も愚鈍であったことから、それを嘆いて石山寺本尊に夜もすがら祈請する。夢のなかに、老僧が二人でてきて、左右の手をとって「面貌端正にして、智恵虚空に等し」といいながら、上下に三回ふるった。夢から覚めてみると、淳祐は美貌と知性を手に入れていたというのである。美しく賢くなった淳祐は、般若寺僧正観賢にともなって弘法大師の御廟に参ったおりに、弘法大師の衣に触れた聖なる匂いが手に残り、その手で触ったお経が石山寺にいまに伝わっているという。弘法大師は空海(774-835)のことで、即身成仏をしたので、その遺体は腐敗することなく死後何年も御廟に祀られていた。亡くなったあとも生きているがごとく頭髪が伸びたのであろう。観賢が空海の頭を剃るのに、弟子の淳祐は付き添ったわけである。その後、淳祐は石山寺のそばに普賢院となづけた草庵をかまえたと縁起は述べている。この話に象徴的なのは、淳祐の願いが夢をとおして叶えられている点である。絵巻の画は二人の僧侶に手を取られ上下に三回振るという淳祐の夢のなかの出来事を格子の向こうに描きながら、手前に堂内で眠る人々を描いて眠りの寺であることを強調している[fig.7]。この画が示すとおり、ここは夢によるお告げを得るための寺なのである。『蜻蛉日記』の藤原道綱の母も『更級日記』の菅原孝標女も、夢をみるために石山寺に詣でたのである。

[fig.7] 「石山寺縁起絵巻」
小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、1988年

 


 藤原道綱の母は、藤原道長の父、兼家の妻である。「石山寺縁起絵巻」巻二第三段では兼家が通ってくるのが間遠になった頃、石山寺に詣でて、しばしうちまどろんだところで夢をみた。僧が銚子に水を入れて右の膝にかけた、そう思ったところで目が覚めた。この夢が何をさしているのか意味は解かれぬままに、兼家が石山寺にやってきて、それから睦まじい仲に戻ったので、道綱の母はますます信心して常に石山寺に籠もりにきた、とある。
しかし『蜻蛉日記』は全編にわたって、自分のところに居着かない、しかも家の前を素通りして別の女のところへ通っている兼家に対するうらみつらみが鬱々と綴られているのであり、石山寺詣でのあとで、たしかにめずらしく兼家がしばらく作者と過ごした時期はあるが、またすぐに他の女のところへ行ってしったことが書かれてあり、石山寺に信心したとか、常に籠もったなどということは書いていない。この石山寺参詣の段も道中で死人が倒れているのを見ただとか、お弁当を食べただとか、石山寺に着いたあとに池端に自生しているしぶきという野草をとってきて柚を添えて食べたのがおいしかっただとか、いろんなことが書かれているのにもかかわらず、「石山寺縁起絵巻」は、作者が石山寺で夢をみたというところを一番の大事として取り上げているのである。そしてその夢は兼家との仲を疎からぬものにするという御利益につながっているというわけである。
 巻三第三段の『更科日記』のほうは、二度にわたる石山参詣を和歌も入れ込んだかたちで比較的忠実に語り直している。やはり画に取り立てられているのは、夢のなかで麝香を差し出されて、「早くあちらに点けよ」と言われたとする場面である。
 そしていよいよ巻四第一段で紫式部が登場するわけだが、『紫式部日記』や『源氏物語』のどこを探しても石山寺詣でのことが出てこないのである。それなのに、現在石山寺の一番の売り物は、紫式部が石山寺で『源氏物語』を書いたということになっている。「源氏の間」と名付けられた部屋に紫式部の人形が鎮座し、かたわらの立て札には、寛弘元年八月十五夜に紫式部が、他ならぬこの部屋に参籠し、山よりさし昇る名月が湖面にうつった景色に着想を得て綴られたのが『源氏物語』なのだとまことしやかに書かれているのである[fig.8]。ふつうの観光客ならすっかり信じ切ってしまいそうな芸のこまかさである。

[fig.8]石山寺・源氏の間

 

「石山寺縁起絵巻」の紫式部の段は次のように語られている。

 珍しい物語が読みたいという一条帝の叔母の選子内親王が一条帝后の彰子に言ってきたので、彰子に仕えている紫式部につくらせることにする。紫式部はおもしろい物語が書けるようにと祈るために石山寺に七日参籠した。湖のほうをはるばると見渡していると心が澄んできて、様々の風情が眼に浮かび、心に浮かぶので、紙の用意などもなかったのでとりあえず目の前にある「大般若経」の裏に思い浮かんだことを書き綴った。のちに紫式部は、大切なお経を使ったことを懺悔して、自ら「大般若経」を書いて奉納した。このお経は今も石山寺に伝わっている。この物語を書いたところを「源氏の間」と名付けて、そのところは今も変わらずある。紫式部を「日本紀の局」とよんだというが、観音の化身とも伝えられている。

 石山寺に紫式部自筆の大般若経があるという話はきいたこともない。紫式部が石山寺で『源氏物語』を着想したという話もきいたことがないのだから当たり前である。現在もある「源氏の間」は、この絵巻が書かれたころにも用意されていたのだろう。「石山寺縁起絵巻」によると、なんと紫式部は観音の化身なのである。ならば『源氏物語』を読めば観音の御利益が得られるということだろうか。
 現存の「石山寺縁起絵巻」の巻四は、絵巻制作から150年も経過した、室町時代、明応六年(1497)の補写本である。詞書が当初のままであったのか、このときに紫式部のエピソードが書き足されたのかはわからないが、石山寺で須磨巻の着想を得たという話が、四辻善成の著わした源氏物語の注釈書の『河海抄』(1362-1368)に出てくるから、ここから採ったとみることができそうである。四辻善成がつつましく須磨巻を着想した、といっているのをあえて無視しているあたりに四辻説を過大に利用した感じがぷんぷん匂う。

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