piece of resistance

15 シャンプー

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 良かった。今日はあいつじゃない。「こんにちは」とにこやかに歩みよってきた美容師の顔を鏡ごしに一瞥し、ほうっと胸の空気をぬいた。
 いかにもアジア顔のくせして金髪頭のあいつ。顔の薄味を口髭で粉飾しているあいつ。いつも首からでかい水晶をぶらさげてるあいつ。右手の鋏と連動でもしているかのように、カットのあいだじゅう、絶え間なく口を動かしつづけるあいつ――。
「いつも休日とか何してるんっすか」
「この辺、職場のお近くなんっすか」
「ゲームとかします? 裏の公園にポケモンのレアキャラが出没してたの、知ってます?」
「テレビとか観ます?」
 およそ美容院の客には二種類がいるのではないかと私はつねづね思う。美容師との会話を楽しめるタイプと、極力放っておいてほしいタイプ。生来の人みしりである私は真正の後者で、軽いノリのトークに合わせることができず、「私にはお気遣いなく」の表明として常に本を開いているのだけれど、この店の担当者はそれすらも忖度してくれない。
「へえ、本、読むんっすか。なんの本っすか。おもしろいっすか」
 担当を替えてもらうか、いっそ美容院ごと替えてしまうか――本気で悩みはじめていたこのごろだったが、幸いにしてこの日の店内にあいつの影はなく、代わりにニューフェイスとおぼしきボブ頭の男の子が担当を申し出た。

「では、まずは右から二番目のシャンプー台へお願いします」
 物腰柔らかな新担当は、見たところ私とおなじ二十代の前半。ありがたいことにあいつとはちがい、口よりも手を熱心に動かすタイプのようだった。
「クロス、きつくないですか?」
「お湯が熱すぎたら言ってください」
 必要事項は短く伝達するものの、それ以上のコミュニケーションを客に強要しない。熱すぎずぬるすぎず、じつにいい案配の湯が髪を浸しだすと、彼への好感はいや増した。
 実際、彼のシャンプーはとても良かった。これまで経験したなかで最高のシャンプーだった、と言ってもいい。彼はその若さにして驚くべき癒しのテクニック、そして真摯なサービス精神を併せもっていた。
 シャンプーの匠――その技を惜しみなく発揮し、到底、十本きりとは思えない彼の指がリズミカルな動きで私の頭皮全体をもみほぐしていく。寄せては返すさざ波のように、時に優しく、時に力強く。そのウエーブに身を委ねるほどに、自分の中に堆積していた疲労がはがれ、過剰な力みが抜けていくのがわかる。
 店内のざわめきが遠ざかる。ほとばしる水の音だけが私を包みこむ。あたたかな海のなかへもぐっていくような快感。そして、安堵感。全神経を指先に集中している彼は依然として言葉を発しない。無言のうちにそのゴッドフィンガーをもってして私を導き、覚醒とまどろみの境界――あのなんとも心地よい「うつらうつら」の深海に遊ばせてくれる。

 美容師は敵じゃない。ふとそんな一語が脳裏に去来する。そう、むしろ彼の指先は守護天使のそれだ。私は美容師という存在を誤解していたのではないか。とんだ思いちがいをしていたのではないか。
  いつも身構えていた。鎧をまとっていた。苦手なトークで気疲れしないために。五分後には互いにころっと忘れているような会話にエネルギーを吸いとられないために。髪の状態を案じてくれているのかと思えば商品を売りつけられていた、というような羽目にもう二度と陥らないために。
  けれども、よくよく考えれば、人の髪型が十人十色であるように、美容師も人それぞれであるはずだ。誰もが軽佻な口先トークで私を疲弊させるとはかぎらない。たんに私はこれまで良い出会いに恵まれてこなかっただけなのではないか。

 加えて、おそらく自分にも非はあった。実のある会話を成立させるには、私自身ももっと前向きであるべきだったのだ。互いの協力が不可欠だった。会話とはそういうものだろう。
 今からでも遅くない。シャンプーが終わったら、この開眼を転機に、自分から彼に話しかけてみよう。まずは極上の癒しへの感謝を捧げよう。そこから私と美容院との新しい関係が、新しい歴史が始まる。よし、と私は心に誓う。
 ところが、シャンプー終了間際、彼が不用意に放ったあのひと言が、その決意を根こそぎ洗い流した。
「流し足りないところはありませんか?」

 私が忌み嫌っている常套句――髪をゆすがれている本人になぜそんなことがわかるのか?
 毎度の疑問、小さな苛立ちの堆積が、夢見心地の私を醒ます。神業みたいなシャンプーの高揚がたちまち彼方へ遠ざかる。
 脱力した体を引きずって移動し、鏡の前に再び腰をおろすなり、私は持参の本を盾のごとく膝の上に広げた。
 

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