世の中ラボ

【第86回】彼女たちが「フェミニスト」を名乗るまで

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2017年6月号より転載。

 いまさらながらだが、二〇〇〇年代初頭(〇〇年~〇五年ごろ)のフェミニズムに対する右派のバックラッシュはひどかったなと思う。またの名を「ジェンダーフリー・バッシング」。
「過激な性教育をしている」「ジェンダーフリー教育は性差を否定している」。そんな言説が「正論」などの保守系メディアを中心に広がり、当時の自民党には安倍晋三を座長とする「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」なるチームまでできたほどだった。いま思えば、あれは日本会議などの右派勢力が仕組んだものだったと気付くのだが、ともあれそれでフェミニズムが手痛いダメージを被ったのはまちがいない。
 思い起こせば、私がフェミニズム(なんてシャレた言葉は当時なかったが)に出会ったのは一九七〇年代の後半だった。七〇年代前半のウーマンリブの波には乗り遅れたものの、「MORE」とか「クロワッサン」とかの「女の自立」をあおる(当時はそうだったのですよ)女性誌が次々創刊された頃で、「翔んでる女」というアホみたいな語が流行していた。当時はいわば「ファッションとしてのフェミニズム」の台頭期だったのだ。
 だが、八〇年代に入り、「フェミニズム」という語が普及するとフェミニズムの最前線は街場から大学に移った。リブは「女性学」という学問の一分野に昇格。九〇年代には「ジェンダー論」なるジャンルが登場して研究は進んだが、フェミニズムの業界化も進行し、アカデミックな雰囲気についていけない女性たちは結果的に排除される形になった。それに便乗するように右側から現れたバックラッシュの波。以来「私はフェミニスト」と名乗るのはリスキーかも、という「警戒の時代」が続いたように思われる。
 でもね、もしかしたら最近また空気が変わってきたのかもしれないと思いはじめたのである。キッカケは二冊の本だった。

ハッピー・フェミニストとバッド・フェミニスト
 まず、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』。すごいよね、この直球勝負なタイトル!
 著者はナイジェリアに生まれ、一九歳で渡米した。話は彼女が一四歳の頃、年上の男友達に「あのさ、おまえってフェミニストだな」といわれた思い出からはじまる。〈お世辞ではありませんでした。それは口調からわかりました。――人が「おまえはテロリズムの支持者だ」というときの口調でしたから〉。
 〇三年に小説を発表したときにも、同じナイジェリア人のジャーナリストに忠告された。〈絶対に自分のことをフェミニストといわないほうがいい、なぜならフェミニストというのは夫を見つけられない不幸せな女性のことだから〉。
 日本でもナイジェリアでも事情は同じだったとは! 以上のような体験は〈「フェミニスト」という語がどれほど重たい荷物を背負わされているか、それもネガティヴな重荷を背負わされているかをあらわしています〉と彼女はいう。〈男嫌いで、ブラが嫌いで、アフリカの文化が嫌いで、いつも女がなんとかしなければと考え、化粧もしないし、毛も剃らないし、いつも怒っていて、ユーモアのセンスがなくて、デオドラントも使わない、というわけです〉。
 しかし、彼女はひるまなかった。〈そこでわたしは自分のことを「ハッピー・フェミニスト」と呼ぶことにしました〉。
 こんなに肯定的なフェミニスト宣言は久しぶりに見た気がする。
 もう一冊、ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』もまた「フェミニスト」への忌避感から話ははじまる。
 フェミニズムに対する彼女の姿勢は、アディーチェよりも屈折している。〈もっと若かった頃、私はそれはもうしょっちゅうフェミニズムを否定していました。なぜ現在もなお女性たちがフェミニズムを否定し、遠ざけてしまいがちなのか、理解できます。私がフェミニズムを否定していたのは、自分がフェミニストと呼ばれたとき、そのレッテルが攻撃や侮辱のように感じられたからです〉。
 このような困惑は、世界中の(フェミニスト的性向を持った)女性が経験している感覚だろう。理由は二つある。ひとつは「フェミニスト」に対する世間の偏見と誤解。もうひとつはフェミニズムが要求する「正しいフェミニスト」のイメージだ。
 自分がフェミニズムを否定していたのは〈フェミニズムは、私がしっちゃかめっちゃかな女性であることを許さないのではないかと心配だったからです〉とロクサーヌは書く。〈私は女としてダメ。フェミニストとしてダメ。私がフェミニストの名札を遠慮なく受け取ったらよいフェミニストたちに失礼になるだろう〉。
 しかし、紆余曲折の末に、彼女もまた、自分を肯定する言葉を見つけるのである。〈たぶん私はバッド・フェミニストだ〉と彼女は自身を規定する。矛盾は山ほど抱えているが〈でも私はフェミニズム運動にとって重要な問題に深く関わっている〉。〈バッド・フェミニズムは、私が自分自身とフェミニストとしての自分自身を両方認めることができる唯一のやりかたのように思える〉。〈まったくフェミニストでないよりは、バッド・フェミニストでいたいのだ〉。
 ハッピー・フェミニストもバッド・フェミニストも、彼女らが自力で獲得したフェミニズムを肯定するためのツールである。逆にいうと、自身を肯定し、解放し、自由を得るための手段だったはずのフェミニズムが、彼女らを「縛る」という逆転現象が起きていたことになるだろう。二人に共通する悩みは、たとえば女らしいファッションとフェミニズムの整合性の問題だった。
〈本当はシャイニーなリップグロスをつけて、女の子っぽいスカートをはいていきたかった〉のに、〈女っぽく見えすぎると真剣だと受け取られないのではないか〉と考え、大学で教える際には〈とても男っぽい、とても不格好なスーツを着ました〉というアディーチェ。〈わたしは女っぽいのです。女っぽいのが楽しいのです。ハイヒールが好きですし、口紅を重ね塗りしてみるのが好きです〉。
 ロクサーヌも自己申告する。〈ピンクは私のお気に入りの色。かつて私はクールぶって好きな色は黒と言っていたけれど、でもピンクなのだ〉。〈私はドレスが大好き。長年にわたって嫌いなふりをしてきたけれど、本当はそうじゃない〉。

「こじらせ女子」は格闘する
 こんなことにこだわるのはおかしいと思います? いやいや、女っぽい色や衣装や化粧は、女性性の記号だ、社会的な刷り込みだ、男に媚びる道具だ、とフェミニズムは教えてきた。女装が好きでもピンクが好きでもいいじゃないかと開き直る。それもまたフェミニストが自己肯定するには必要なプロセスだったりするわけですよ。
 では、日本ではどうだろう。
 少し前の本だけど、山ほどの矛盾を抱える女性が、自らの過去と現在を赤裸々に語った自伝的エッセイ、雨宮まみ『女子をこじらせて』は、フェミニズムを再考するには有効なテキストだろう。
〈私は、なんでまたこうなったのか、女のくせにAVライターという仕事をしています〉と本は書き出される。〈「自分はかわいくない」「女として価値がない」。その確信が、私を「個性的」な行動やファッションに駆り立てていきました〉と告白する彼女の青春時代は、解説の上野千鶴子の言葉を借りればたしかに「痛い」。しかし、彼女の「痛さ」に共感する女子は少なくないだろう。
 仕事で「女性のAV体験記」を求められた彼女は憤慨する。〈ライターとしての自分に価値があると思っていたわけではありません。でも、求められた価値がよりによって「女」だとは〉。自分は女らしくもない女失格者だ。それなのに〈こんなしょぼい自分を、ただ女であるというだけで「安く買おう」とする人がいる〉。
 AVという「男の世界」で特別扱いされる現実。〈好きで女に生まれたんじゃない。何度もそう思いました〉。〈そう思う一方で、女のメイクや服で着飾って楽しむことが本当は楽しいのに、それを素直に楽しめないことが悔しかった〉。〈女に生まれてよかったと思ってるのに「女なんかに生まれなければよかった」と思わされている。この状況に腹が立つのだ、と思いました〉。
 フェミニズム系の本を読みあさり、胸を打たれるも、〈男や男社会への怒りと憎しみが増幅されていって、身近な男友達や恋人ですら憎い気持ちになるのがしんどかったです〉。七転八倒の末、やがて彼女も〈私自身がいちばん男社会での評価を、男の評価を気にしていた〉ことに気づき、〈女同士の友情や連帯を感じて、私は自由になれた〉という境地に達するのだが……。
 さて、三冊に共通するのは何だろう。家庭で学校で職場で男社会の矛盾に気づき、人一倍生きにくさを感じていたこと。ここまではフェミニスト(的性向を持った女性)ならみな同じだろう。だが、四〇年前とは話がちがう。七〇年代に生まれ、九〇年代から〇〇年代に青春時代を送った彼女らの前にはすでに「フェミニズム」という思想が立ち上がっていた。それは世間に対する彼女らの苛立ちに言葉を与え、彼女らを励ましたが、同時に別の「生きづらさ」を増幅させた。フェミニストと見られることで生じるリスク。自分はフェミニスト失格ではないか、という不安。
 既存の思想を「私の思想」に転化させるには、自力で格闘するしかない。三冊はいわばその格闘と達成の記録なのだ。
 七〇年代ウーマンリブ以降のフェミニズムは「第二波フェミニズム」と呼ばれる。それはジェンダー(社会的な性)という概念を普及させ、「男らしさ・女らしさ」の神話を暴いた。しかし「らしさ」とは何なのか。思想は常に進化する。バックラッシュのその後で、第三波フェミニズムはもう始動しているのかもしれない。

【この記事で紹介された本】

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著/くぼたのぞみ訳、河出書房新社、2017年、1200円+税

 

著者は一九七七年、ナイジェリア生まれ。一九歳で渡米し、〇三年にはじめての長編小説を発表。現在はナイジェリアとアメリカを往復しながら作家活動を続ける。本書は、アフリカを焦点にした二〇一二年のイベントでのスピーチに加筆したもの。人気ミュージシャンのビヨンセが、本書のスピーチの一部を歌詞にそのまま使った曲でグラミー賞候補になったことでも話題を呼んだ。

『バッド・フェミニスト』
ロクサーヌ・ゲイ著/野中モモ訳、亜紀書房、2017年 1900円+税

 

著者は一九七四年、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれ。二〇一一年に短編小説集でデビュー。大学で教鞭もとるアフリカ系アメリカ人。二〇一四年、初のエッセイ集である本書を刊行、人気作家となった。本書の大部分は主にアメリカの映画やテレビドラマなどを論じたポップカルチャー批評で、対象が日本の読者になじみの薄い作品なのが難点だが、フェミニズム批評としても秀逸。

『女子をこじらせて』
雨宮まみ、幻冬舎文庫、2015年 580円+税

 

著者は一九七六年、福岡県生まれ。エロチックな妄想に悶絶したり、個性的なファッションにハマったり、友達の彼氏が初体験の相手だったりという学生時代をすごし、大学卒業後、バニーガールなどのアルバイトを経てAVライターに。劣等感や自意識を全開にした本書は二〇一一年発売のデビュー作。大きな話題を集め、「こじらせ女子」は流行語にもなった。一六年一一月没。

PR誌「ちくま」6月号

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