『5まで数える』

収録短編「やつはアル・クシガイだ」全文ためし読み

松崎有理『5まで数える』刊行記念 特別全文ためし読み

松崎有理さんの新刊『5まで数える』の刊行を記念して、同書収録で「ちくま」連載時から評判が高くシリーズ化を希望する声も多い、疑似科学バスターズが活躍するネオ・ゾンビ小説「やつはアル・クシガイだ」を全文公開します。単行本『5まで数える』にはこの物語の前日譚「バスターズ・ライジング」が収録されていますので、バスターズにまた会いたいという方はぜひそちらもお読みください。


 「トースト」
 浄化局ビル十七階にあるバスターズの事務所に帰るとぼくらはシャンパンを開けた。ちいさな成功の段階をしっかり祝うのがモチベーションを維持する秘訣、とはワイズマンの言だ。反響は上々だった、ネットワークをかけめぐるショートコメントをチェックすればすぐにわかる。
 清潔な白い壁に囲まれた事務所はミーティング用丸テーブルに来客用長椅子、キャビネットや事務用デスクを入れてまだゆったりと余裕のある広さで、つづきの間には簡易キッチンまでついている。ここには小型ワインセラーが置かれワイズマンのシャンパンコレクションがだいじにしまわれていた。
 「それにしても、しつこい。電磁波騒動ってのは」ワイズマンはグラスを持ったまま丸テーブルを離れて窓ぎわに寄り、ブラインドのすきまから五番街の景色をながめた。外では初夏の遅い夕暮れがようやくはじまりかけて、差しこむ西日は淡いオレンジ色をしていた。「終息したと思ったら、またぞろつぎのやつがあらわれる。叩いても叩いても生えてくる雑草みたいな連中だ。国の大規模長期縦断研究で健康被害との関連はないととっくに結論が出ているのに。その恐怖の源が存在しないとはっきり示すのはひじょうに困難だ、悪魔の証明と呼ばれるくらいだからな」
 ぼくはうなずきながら拝聴する。彼は三十代にしてノーペル物理学賞を受賞したあと生物学に転向し、四十代でノーペル生命科学賞を受賞した直後に研究の第一線から身を引いて科学浄化局に疑似科学バスターズをつくった。なぜそんなことができるかといえば、ノーペル賞ダブル受賞の栄光もさることながら、この国の上位一パーセントの高IQ所持者だけが入れる親睦団体に所属していてなにかと顔がきくからだ。
 「この国は盲信に覆われている」ホークアイは左手で支えたグラスから中身を半分ほど干した。「国民だけじゃない、上に立つ者でさえ疑似科学を信奉している。筆跡診断で省庁職員を採用するのはやめろと、おれたちはなんども大統領に直訴しているのに。反証できないものは科学ではないと」右手を卓上の皿に伸ばしてピスタチオをつまみ、器用に殻をむいて口に放りこむ。親指がないことなどまったく感じさせない動きだった。奇術師を辞めなくてもよかったんじゃないかといつも思う。じっさい、ぼくが事務所にやってきたその日に、彼はドーナツから穴を消してみせた。しかもそのドーナツはぼく自身が手みやげにと買ってきたものだった。ぼくの住むフラットの近くにあるミニッツというちいさな店で、とてもおいしいのだがまったく有名ではないところだ。もちろん種を質問するような無粋なまねはしなかった。不思議は不思議のままにしたいという気持ちが自分にはある、こんな仕事についていても。
 局長秘書のエリザベスがいっていた。私見だけど、そんなところもパディに似てるのよマコトは。
 見た目はぜんぜん似てないけどなあ、と前任者の燃えるような赤い髪を思い返した。ぼくの髪は真っ黒で、じいちゃんの若いころの写真とそっくりだ。
 「反証不可能性。疑似科学の主要な特徴のひとつだな」ワイズマンはホークアイのことばを引きとってこちらに視線を投げた。「はいマコト、おさらい」
 ぼくはグラスごしにうなずいてみせる。「疑似科学判定三原則。一、反証不可能性。二、検証実験への消極性。三、自己修正機能の欠如。今回の電磁波詐欺事件はジルコニアの効果を確認する実験をすれば反証可能のはずだが、首謀者は検証を徹底して避けていた。よって判定原則の二番目と三番目に該当」
 「よくできました」科学者はグラスを持ったまま拍手のジェスチャーをした。歳が倍も離れていて頭の出来も天地ほどちがうのだから子供あつかいされてもしかたないけど、やっぱりちょっと困惑する。「いいかい、魔法はけっして起こらないんだ。この原則を肝に銘じておくように」
 「いま、いいかしら」いつもの鋭いノック音とともにドアが開き、エリザベスが入ってきた。浄化局に十年勤めるベテランである。胴まわりが三フィートもある体を陽気にゆすりながら丸テーブルに近づいて、いつものようにクリップボードを置く。「あら、パーティのさいちゅう。いいところにきたかも」
 「だめだよ、リズ。これは女性排斥論者の集会なんだから」高IQ科学者はテーブルに歩み寄り、グラスをあげておどけてみせた。「しかも四十歳以上で髪はブルネット、瞳の色がヘーゼルの女性を、とくに」
 「私見だけれど。そのどうしようもないジョークのセンスだけがあなたの欠点ね、ワイズマン」リズはボブカットにした髪を耳へかけると、クリップボードから書類をはずしてピスタチオの皿のまわりに並べた。「ひと息ついているところで悪いけど、さっそくつぎの指令。みてくれる」
 ぼくらはいっせいに身を乗り出した。
 「殺人事件か」ホークアイがうなる。

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