『5まで数える』

収録短編「やつはアル・クシガイだ」全文ためし読み

松崎有理『5まで数える』刊行記念 特別全文ためし読み

松崎有理さんの新刊『5まで数える』の刊行を記念して、同書収録で「ちくま」連載時から評判が高くシリーズ化を希望する声も多い、疑似科学バスターズが活躍するネオ・ゾンビ小説「やつはアル・クシガイだ」を全文公開します。単行本『5まで数える』にはこの物語の前日譚「バスターズ・ライジング」が収録されていますので、バスターズにまた会いたいという方はぜひそちらもお読みください。


 翌朝。ぼくたち三人はリズの手配してくれた運転手つき公用車に乗って、前夜にアポイントをとっておいたホラー作家のフラットへ向かった。彼の著書が犯人の書棚から発見されていたのである。
 「なんといったらいいか、その、残念でなりません。夢にまでみたバスターズの訪問だってのに、こんな理由とは」
  まだ若いホラー作家はぼくらを書斎に招き入れ、ソファに座らせると熱いコーヒーを振るまってくれた。ぼくは手みやげにミニッツのドーナツボックスを持参していた。作家は好物だといって喜んでくれた。
  コーヒーとドーナツを囲んで聞きとりがはじまる。
 「ほんのジョークのつもりだったんです」作家はめがねの向こうで眉の両端を下げた。髪と短く刈りこんだ口ひげ、瞳までもがダークブラウン。チェックのシャツと着古したジーンズが瘦せた体を包んでいる。「本業のホラー小説がちっとも売れませんでね、やけになって。アル・クシガイ・ファンがうるさいぐらいにたくさんいるもんだから、ノンフィクションの体裁をとって書いてみたのが、これなんですよ」テーブルに一冊の本を置く。
 『アル・クシガイ・アポカリプスを生き抜くために』。犯人が所持していたほうは付箋と書きこみだらけだった。
 「こいつがあたりましてね。あっというまにニューシティタイムズのベストセラーリストをのぼりつめ、笑っちゃうくらいつぎつぎ増刷がかかりました。ようやくまとまった金が入ってうれしい半面、複雑でしたよ。だってフィクションのホラー小説がまったく売れないのに、ノンフィクションを装ったらばか売れしたんですから。作家の仕事ってなんだろう、と考えちゃいました」
 作家のフラットを辞したあと、待たせていた公用車でつぎの調査先へ移動する。
 「ひとは幻想の幻想ではなく、真実の幻想を求めているんだ」後部座席でホークアイがそんなことをつぶやいた。
 ぼくは助手席で作家からもらった本を開く。序章にアル・クシガイの定義が載っていた。
 一、アル・クシガイは人間の脳を食べることのみを目的として動く。
 二、アル・クシガイに嚙まれた人間はかならずアル・クシガイになる。
 三、アル・クシガイを退治する方法は頭部を完全に破壊することだけである。
 気分が悪くなってきたので本を閉じて窓をすこし開け、外の空気を入れた。初夏の風が頬にあたって心地よかったが、やりきれない感覚は消えなかった。こんなものを本気で信じて隣人を殺すなんて。
 「ワイズマン博士、お会いできて光栄です。そしてホークアイ、現役時代のステージをみたことがあるんです。じつにすばらしかった」
 五十代とおぼしき精神科の開業医は忙しい診療のあいまを縫って時間をつくってくれた。ひとばらいをした診察室でぼくたちは丸椅子にかけ、被害者の担当医の話をきく。
医師は長い指でカルテのページを繰った。「彼はコタール症候群だったのです。たいへんまれな疾患ですが、ワイズマン博士ならごぞんじかと」
 「精神医学は専門外ですので、先生のほうからご説明をどうぞ」高IQ科学者がそう振ると、医師はうなずいて白い手を膝の上で組んだ。ブルーのシャツに紺のネクタイ姿で、白衣は着ていない。患者に威圧感を与えないためか。
 「コタール症候群とは、自分がすでに死んでいると信じこむ病気です。原因はよくわかっていませんが抗鬱剤への反応がよいので投薬しながら経過をみていました。ようやく他人と会話できる段階まで回復してきたところだったのに、まさか隣家にアル・クシガイ・アポカリプスマニアが住んでいたなんて」医師は視線を落とす。秀でた額には深い皺が刻まれている。平静を装っているが、担当患者が殺されたことでショックを受けているのだろう。
 「今後も、コタール症候群の患者が襲われるような事件は起きるでしょうか」
 ワイズマンの問いに、精神科医は灰色の頭を振った。「いえ、さきほども申しましたように患者数はたいへんすくないですから。それよりわたしが心配するのは、今回の事件のニュースが拡散することです。アル・クシガイというサブカルチャーはいまやたいへんな人気だ。退治方法は知られていますし、感染によって仲間を増やすので早急に倒さねば危険と考えられている。もしアル・クシガイ・アポカリプスマニアがこのニュースを耳にしたら、ついにほんものが発生したと誤解しかねない。なにせ頭部を一撃するのは典型的なアル・クシガイへの攻撃法ですから」
 医師の意外なサブカルへの造詣の深さにぼくはすっかり驚いてしまった。「ず、ずいぶんおくわしいですね」
 「そういう妄想を語る患者がいるのです。ひとむかし前は、家族や知人が宇宙人にすり替わってしまったという訴えが多かった。いまの流行はアル・クシガイですよ」
 「報道管制を敷いておいて正解でしたね」ぼくはふたりの顔をみた。ワイズマンの白い顔もホークアイの赤銅色の顔もこわばっている。
 「それはすばらしい」精神科医は弱々しく微笑した。「あやうくパニックが発生するところでした。とりあえず、よかった」
 ぼくたちはまた公用車に乗り、つぎの調査先へ向かった。郊外の瀟洒(しょうしゃ)な一戸建てで、門にはこんな看板があった。波動科学研究所。ここの商品のパンフレットが犯人宅にあったのである。購入を検討していたようだ。
 「疑似科学のみなさんがたはほんとうに波動ってことばがお好きだなあ」パンフレットをみてワイズマンはため息をついていた。皮肉な口調になってしまう気持ちもよくわかる。
 「さあどうぞ、バスターズのみなさん。お待ちしていました」
 通された居間の家具はヴィクトリア調の豪奢なもので、羽振りのよさをうかがわせた。主人は白衣の下から絹のシャツの襟をのぞかせていた。指には大ぶりの石をつけた指輪がいくつも光っている。あんな手じゃ実験できないだろう。
 「なにかお飲みになりますか」
 主人はぼくたちを長いソファにかけさせ、マントルピースから高級ウイスキーのボトルをとりあげた。ワイズマンが断ると、それじゃあお茶を、といって鈴を鳴らした。するとお仕着せのメイドが銀色の盆をたずさえてあらわれた。その古風で金のかかるであろう演出にすくなくともぼくはびっくりした。
 メイドがテーブルに紅茶を並べて下がってから、主人は口を開いた。先の尖った黒い口ひげが動く。「小生の発明品についてご質問とか」やわらかい口調だが敵意がかすかにうかがえた。
 お願いします、とワイズマンがうながすと、えせ科学者はソファを立って居間をゆっくり歩きはじめた。「アル・クシガイについてはよく知らんでしょうから、そもそもの原理から説明します。アル・クシガイ発生の原因は不明ですが、感染の機序は判明しています。嚙みついたりひっかいたりすることで体液や体組織を介して感染するのです。つまりアル・クシガイとは感染症患者である」革靴の底がマホガニーの床にあたってこつこつ音をたてる。
 このひと本気でそんなこと信じているんだろうか。それとも商売のためと割り切ってファンタジーを利用しているだけか。
 「アル・クシガイ病は感染率一〇〇パーセントで致死率一〇〇パーセントのおそるべき疾患です。感染拡大を防止するには患者を殺す、いや退治するしかない。しかもできるだけ迅速に。ところが感染初期はあの特徴的な身体の腐敗がまだ進行しておりませんし、動きも比較的敏捷(びんしょう)でことばさえしゃべるので健康な人間との区別がむずかしい。だからアル・クシガイ患者を正確に診断できる検査方法の発明が希求されておったのです」
 だれに希求されて。アル・クシガイ・アポカリプスマニアたちに、か。
 えせ科学者の話はつづく。「病原体はプリオンの一種です。アル・クシガイがとくに脳を好むことから予測されていました」
 「それは変だろう」ワイズマンが低い声でいった。「クールーやスクレイピーなどのプリオン病は、病気の個体の脳を健康な個体が食べることで感染する。話が逆だ」
 相手はノーペル生命科学賞受賞者の指摘を無視した。「ですから、すなおな解決策はプリオン検出キットをつくることですが、アル・クシガイかもしれない人間から検体を採取するのは危険きわまりない行為です。だから小生、離れた場所からその人間がアル・クシガイ病にかかっているかどうか判別できる測定器を発明しました。ひとの発する波動のひとつ、脳波をはかるのですよ」
 「また測定器か」ワイズマンがつぶやく。ホークアイはソファに体を沈めて無言で腕を組んだままだ。
 「いままでに何台くらい売れたのですか」ぼくは定石の質問をする。
 「さあねえ」えせ科学者は誇らしげに首をかしげた。「現時点での正確な販売数は把握しておりません。しかしヒットしたのはたしかです。百万台出荷記念パーティを去年の暮れに催しましたよ」
 百万台。ぼくたちは顔をみあわせた。
 むやみに広い車寄せで待たせておいた公用車に乗りこんだあと、入手した脳波検出器とやらをチェックしてみた。煉瓦ほどの大きさで、厚みはその半分くらい。重さは十分の一くらいか。えせ科学者はサンプルとして一台くれるようなまねはせず、きっちり代金を請求した。定価二千ダラー、中流階級の市民なら家族に反対される金額だ。あのえせ科学者はすでに超大富豪だな、百万台という数字を盛っていないなら。
 「目盛りに単位がない」ワイズマンががっかりした口調でいった。「いったいなにを測定するつもりなんだか。だいたい、脳波とは神経細胞が発する電気で、ごく微弱だから電極を直接頭皮に貼りつけないと検出できない。対象者から離れて、しかもこんなちいさな装置でまともに測定できるわけがないのに」
 「とりあえず数字が出ればそれでいいと思ってるんだろう」ホークアイは親指のない右手で装置裏面のふたをはずした。「電池を使っている。まだましなほうだ」
 「電源を入れると、針が振れる。これが脳波の強さをあらわす。脳波が出ていればその人間は生きていて、アル・クシガイではない、という原理だっていってましたね」ぼくは助手席からうしろに身を乗り出した。
 「針はずっと振れっぱなしらしいな」ホークアイは測定器をぼくに手渡してきた。「ならば、安全なおもちゃだ。だれもアル・クシガイだと誤認されずにすむ。ただ、玩具としては高価すぎるが」
 カーブにさしかかって車体がゆれた。「あっ」ぼくは器械を受けとりそこねて落としてしまった。
 「すみません。だいじょうぶでしたか」運転手さんが左側から声をかけてきた。
 「いえ。ぼくは平気」測定器を拾いあげる。電源はまだ入っていた。だが。「あれえっ」
 「どうした」後部座席のふたりが同時にいった。
 「これ」ぼくはふたりに計器の画面を示した。「なんてことだ。落としただけであっさり壊れた」
 針はゼロを指して止まっていた。
 「いやな予感がするぞ」ホークアイがいう。こんどはワイズマンも否定しなかった。

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5まで数える (単行本)

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