遠い地平、低い視点

【第36回】度を過ぎた量はこわい

PR誌「ちくま」6月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 一月ほど前、桜が満開の京都祇園白川で、恒例だった夜桜のライトアップが中止になった。車も通るさほど広くない道に観光客が犇き合って、やたらと写真を撮りまくっている。通行に不便だし、危険でもあるので、人が集まるライトアップを止めたんだそうな。その通りにある旅館の女将さんが、「ここは和のテーマパークじゃないんです」と言っていた――というのをテレビのニュースで見た。「やっと問題になったのか」と、私は思ったのだけれども。
 実はもう何年も前から思っていたことがある。NHKの天気予報で特徴的なのだが、「今この地では某の花が咲きました」という季節のトピック映像で、必ずと言っていいほど、カメラを持って咲く花に迫る中高年の男の姿が映る――しかもアップで。「映すんなら花映せよ」と思うが、それを邪魔するように中高年が出て来る。アマチュアカメラマンがきれいな季節の花を撮ってたっていいけど、そのことを季節のニュースに映し出す必要ってあるか? 「きれいな花より、カメラを構える中高年のオッサン」になると、それは中高年の男達に「皆さん、カメラを持って出て来て下さい」とアピールしているようにも思えてしまうが、それ必要?
 中高年のオッサンじゃなくて、オバサンならいいのか、若い女ならいいのかという、カメラを構えている側の見てくれの問題ではなくて、「写真を撮る」という行為が「被写体となるものを我が物とする」というような欲望丸出しの行為だから、やなの。「そんなもん、見せなくたっていいじゃないか」と、ニュースを流す方に対して思う。多分、それが「欲望を丸出しにする行為」だと思われていないからそういうことになるんだろうけれど、プロのカメラマンなら、写真を撮る時「自分の気配を消そう」と思うんじゃないんだろうか。カメラを構える自分と、被写体となる対象とどっちが大切かと言えば、当然「自分より対象」のはずだから、そう考えるカメラマンの気配は、自然と「消える」の方向に行くんじゃなかろうか。
 昔、女の友達が言っていた。「石持ち上げたりすると、蟻とか小さい虫がびっしりいたりするでしょ。あれ、気持悪くてこわい。あと、いくらとか筋子とか、ともかく小さいものがびっしり集まってるのを見ると気持悪くなる」と。こっちは子供の時から、ちょっとした大きさの石を見つけると持ち上げて、蟻やらなにやら、小さいゲジゲジにミミズまでが密集しているのを見ると、「あ、いた!」と思って喜んでいた類だから、その「びっしりいるのがこわい」という感覚がまったく分からなかったのだけれど、最近になってそれが「分からなくもない」という程度にはなった。
 鉄道マニアが、「なんとか車輛のラストラン」を写真に撮ろうとして駅のホームに犇き合っている光景を見せられると、「助けてくれ」と言いたくなる。タレントや有名人を囲んだ若い女の群れが、やたらの数のスマホのレンズを一斉に向けているのを見ると、背筋がぞっとする。あからさまに「それあたしのもの!」という欲望が丸出しになっているから。
 食べ物屋で、女が出された食べ物にカメラのレンズを向けているのを見たら、昔は「変わったことをする女だな」くらいにしか思わなかったが、今はそれを見た瞬間、「これと同じことをしている女が怒濤のようにいるんだ」と思って怖気立つ。いくらの一粒一粒に「鮭の欲望」は感じないけれども、一つのどうということのない行動を多くの人が同時にやっているのを見て、うっかりとその人達の欲望を感じ取ってしまうと、そこに「収拾のつかなさ」が見えて落ち着かなくなるというか、不安になる。CMの映像で、無数の小さくなった加藤諒が好き勝手に動き回ってるのを見た時は、「ちょっと、やめてくれ」と言いたくなった。
 映画の『バイオハザード』で、無数のゾンビがモタモタと近寄って来るのを見ると、「もういい」と思ってしまう。「あの一人ずつが勝手に動き回るんだ」と思うと、不快感がムズムズする。ただのゾンビより、量がこわい。昔の映画の『十戒』で、モーゼに率いられる民衆がモゴモゴ歩いてるのを見ても恐怖感を持たなかったのは、あれが多分「意志を持たない一塊の群衆」だったからだろう。だからと言うわけではないが、朴槿恵大統領の辞任を求めるやたらの数のデモ隊がソウルの大通りを埋め尽しても、「おお、民衆の蜂起だ」というような、昔風の高揚感は持てなかった。「それでどうするんだろう?」という混乱の方を感じた。
 ただ単に「同じものがびっしりと集結しているとこわい」というだけなんだろうか? 大量の人間が集まっていて、欲望が丸出しで、でもそれがなんの「物語」も持たずにそれっきりというのは、不気味でこわい。「人が行列している」と聞くと、もうそれだけで近寄りたくない。

PR誌「ちくま」6月号

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