生き抜くための”聞く技術”

第3回 聞く耳をもたず、強弁する人々

論理的であるよりも強い言葉の方が心地よく感じる!?

 

 いまの社会で起きていることを、もう少し一緒に見てみよう。

 静かに他人の話に耳を傾ける人が減り、声高に話す人が増えている

ここ数年そんな傾向が強まっていると、ぼくは感じているけれど、みんなはどう思うだろう。

 ネットでは自分の意見を一方的に強弁する人をすぐに見つけることができる。それもかなりむき出しの言葉で。誰かの話を聞こうというより、相手を「ディスる」ことで、溜飲をさげる。そんな人たちがネット上に大挙して押しかけているように思える。

 ネット上だけじゃない。一般の社会でも、さらには議論によって国の行方を決めていくはずの国会でも、目を覆いたくなるような状況が出現している。

 論理性などどうでもいい。相手の質問に耳を傾けて真摯に答えを返すどころか、その場しのぎの明らかに言い逃れのような言葉を発する。それも同じことを何度も繰りかえし、強弁し続ける。

 ぼくもそうだけど、子どものころから学校ではこう習ったはずだ。他人の意見にも耳を傾け、話し合いによって答えを見つけていこう。それが民主的なものごとの決め方だと。

 ところが子どもが模範にすべき政治家たちが、残念ながらそこから最も遠いところにいるのが今の日本だ。

 2020年に東京オリンピックが開かれる。

 その誘致のための国際オリンピック委員会の総会で、安倍総理が行ったスピーチが忘れられない。

「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は統制されています」

 状況は統制されている。英語で「アンダーコントロール」という言葉が耳に入ったとき、ぼくは耳を疑った。

 アンダーコントロールという言葉は、まさに文字通り、完全に制御できているというニュアンスだ。ところが福島第一原発は汚染水の制御ができるどころか、汚染された地下水が海に流れ込む始末だった。ぼくものちに福島第一原発を取材し、自分の目で見たけど汚染水の問題は解決されていないままだった。もちろん前のような水素爆発が起きて放射性物質が空中に飛び散るといった状況ではない。でもアンダーコントロールというのは、明らかに言い過ぎだった。英語の語感からすると、ウソと言ってもいい。

 それでも、とにかく言い切る。論理的であるかとか、実証できるのか、といった疑問にはフタをして、とにかく強弁する。そのウソは、実際に東京がオリンピック開催都市として選ばれた熱狂にかき消された。

 

共謀罪はどんな法律?

 もうひとつ例をあげよう。

 この文章を書いている少し前に共謀罪が成立した。というより、強引に成立させた。政府は「テロ等準備罪」と名づけたけれど、共謀罪と呼ぶ方がふさわしい法律だ。

 じゃあ、どんな法律なのか、ごく簡単に説明しておこう。

これまでの刑法の考え方は「犯罪を犯した人を罰する」というのが基本的な考え方だった。かつて権力者が気にくわない政敵を刑務所に入れたり、異なる思想を持つ人をそれを理由に逮捕したり、といったことが起きたからだ。勝手にそんなことが出来ないようにと、実際に犯罪を実行したあとでしか、罪に問えないようにしたんだ。

つまり、ぼくら一般の市民を権力者の横暴から守るための知恵だったと言ってもいい。

 ところが共謀罪は、実行に移さなくても、その準備をした段階で罪に問えるようにしたんだ。これまでも予備段階で罪に問えるものもあったけど、あくまで例外的だった。しかしこの共謀罪では一気にその幅が広げられた。

 つまり、これまでの刑法の考え方を180度変えてしまう法律なんだ。

 もっと言えば、使い方によっては気にくわない人間を権力者が逮捕できる暗黒の時代に戻るのではないか、という不安を持たれやすい法律と言ってもいい。政府に反対する考えを示しただけで捜査の対象になるのではと、心配する人が出てくるのは当然だろう。

 だからこそ、そうした不安を払拭するためにも丁寧な話し合いが必要とされるのに、そのやりとりはあきれるばかりの内容だった。野党側がさまざまな疑問をぶつけても(国民が抱いている疑問と言ってもいい)、政府はまともに答えないどころか、木で鼻をくくったような答弁に終始している。最も有名になったのはこのやりとりだろう。

 犯罪を計画している人たちが、その下見に来たとする。かれらを一般の人とどう見分けるのか。そう聞かれて、金田法務大臣はこう答えたのだ。

「花見であればビールや弁当を持っているのに対し、下見であれば地図や双眼鏡、メモ帳などを持っているという外形的事情がありうる」

 じゃあ、双眼鏡を持ってバードウォッチングをしている人は犯罪者なのか、という突っ込みを、ぼくも入れたくなってしまう。

 実はこの共謀罪、これまで3度審議されながら、不安が拭えないとして廃案になっているんだ。11年前にも自民党は共謀罪を導入しようしていたんだけど、そのときの責任者のひとりに早川忠孝さんという人がいた。彼に国会のやりとりをどう見ているか尋ねてみると、今の与党の議員たちは市民の不安の声に耳を傾けようとしないと嘆いた。

「何よりまず、法案の中味を理解していない。法務省が大丈夫と言っているから、オウム返しに大丈夫と繰り返しているだけ。自分の頭で考えようとしていない」

 11年前は与党と野党で議論をして、普通の市民が不当な取り調べの対象にならないように歯止めをつくったりもした。ところが今のやりとりを聞いていると、そんなこと考えもせず、野党や市民の不安を聞こうともしない。どうしてこんなに変わってしまったんだろうと、早川さんは怒りを隠さない。

 聞く耳を持たず、強弁する。

 ぼくらが一票を入れて託したはずの政治家たちが、どうしてこんな振る舞いをし、それが許されてしまう社会になってしまったのだろう。

 選挙制度の問題など、政治のシステムがそうさせている部分はある。それに加えて、ネットの影響もあるのかもしれないと思う。ネットでは少々間違っていても検証されることは少ないし、強い表現や見出しのほうが注目されやすい。実際に内容を読まずに、見出しだけ見て「いいね」を押したり「リツイート」したりする人も多いという。実際、小難しいことをネットで書いて、たくさん読まれたという話は聞いたことがない。

 論理的であることより、その場しのぎであったとしても、強い言葉で言い切ることを好む社会になりつつあるのだろうか。逆に言えば、そうした言葉を聞く方が心地よく感じる人が増えているということなのだろうか。

 みんなはどう思うだろう?

 

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