上田麻由子

第8回・まぼろしの歴史

『ミュージカル「刀剣乱舞」 ~三百年の子守唄~』

生を祝福する天使

 刀剣は、そもそもが人を斬るための道具である。そんな彼らが、いつしか人を斬りたくないと心から願う瞬間がやってくる。それは、存在の矛盾を抱えることと等しい。だけど、それこそが人の姿を持って顕現したことの意味でもある。もはやモノではなく、ヒトであること。それにいち早く気付いている石切丸が口にする「よく折れずにいてくれた」という、なにげない言葉は重い。

 歴史のなかで精一杯生きた人間を見守り、その生を祝福する。家康とともにあり、史実どおりフェードインしたりフェードアウトしたりしながら、その臨終の瞬間に物吉貞宗がかける「よく生きられました」という言葉は、真っ白な装束と、イノセントな微笑みも相まって、まるで天国に導く神の使いのようだ。

 刀剣男士とは、何かのいたずらでふと目覚めてしまった歴史に子守唄を聞かせ、安らかな眠りにつかせる者。人の生も死も、当たり前のものとしてただ見守る者。そう考えると、刀剣男士たちが「赤ん坊を育てる」というこの作品の設定は、そう突飛なものではないように思えてくる。

刀ミュ史上最もいかがわしい存在

 そのいっぽうで、本作に登場する刀剣男士たちは、これまでのミュージカル版のなかでも、もっとも活き活きとした生の気配に満ちている。もともと、どこかこの世のものならざる神々しさがあった舞台版の刀剣男士に比べ、ミュージカル版は歌や第2部のライヴパートもあいまって、生身の男性としての存在感が強い(たとえば刀ステと刀ミュで同じ三日月宗近役を演じる、鈴木拡樹と黒羽麻璃央だけを比べてみても、その差は歴然としている)。

 これまで『ミュージカル「テニスの王子様」』などの2・5次元人気作を「卒業」したばかりの若手俳優がキャスティングされることが常であったこの作品において、本作でのにっかり青江役の荒木宏文と、千子村正役の太田基裕という30代の俳優の起用は、大きな話題になった。いずれも「テニミュ」の1stシーズンに出演した実力派であり、ミュージカル『RENT』などに出演し、天上の歌声と屈強な肉体を誇るSpiとともに、さまざまな面での底上げが約束された。

 なかでも、千子村正役の太田基裕によるパフォーマンスは、これまでの「刀ミュ」史上、もっともセクシーでセンセーショナルなものだった。演出家の吉谷光太郎をして「原作者やゲームのクリエイターが抱く憧れのキャラクターそのもの」と言わしめた二枚目でありながら、『マグダラなマリア』で女装して演じたナチスの青年将校アンナ・エーデルマン少佐や、『CLUB SLAZY』のブルームなど、きわどさや危うさを持つ、一癖も二癖もあるキャラクターでもその名を馳せてきた太田らしく、大胆に露出した太ももや両腕、バニーガールのような白いふわふわのしっぽを見せつけ色気を振りまきつつ、「脱ぎまショウか?」などの原作準拠の台詞が、決して下品にならない。どうしても「生」よりも「死」の気配が濃厚になる作品のなかで、トリックスター的な存在感で物語にメリハリをつけてくれた。

 アニメ『刀剣乱舞-花丸-』では、含み笑いで下ネタを連発するところが印象的だったにっかり青江が、荒木宏文によってどこかとぼけた印象を加えられたいっぽうで、溢れる色気で観客をとりこにしていたのが、財木琢磨演じる大倶利伽羅だろう。他人と馴れ合わない無口なキャラクターだからこそ、褐色の肌に龍の刺青が巻きつく腕で、堂々と剣を振るう姿には大きなギャップがあった。2・5次元俳優を、いまもっとも輝かせる作品がこの『刀剣乱舞』であることは間違いないだろう。

『刀剣乱舞』という物語を記録すること

 そして、これから『刀剣乱舞』というメディアミックスはどこへ向かっていくのだろうか。たとえば、7月から放送される二作目のテレビアニメ『活撃 刀剣乱舞』では、これまでにない審神者の存在感と、アニメーション制作会社ufotableらしい迫力ある殺陣や映画のように美しい画づくりで、わたしたちを魅了することだろう。

 今回の公演では『刀ミュ』の出発点であるトライアル公演から出演して、バトンをつないできた石切丸(崎山つばさ)が、プロローグとエピローグで「戦いを記録するもの」、あるいは狂言回しとしての役割を付与されていた。「こうして書き残しておけば、いつか誰かの目に触れて、思い出してくれることもあるのかもしれない」。

 歴史を物語として書き残すこと。そこに込められた願いは、すべての戦を終わらせるために戦う――それは究極的には自らの存在を不要にすることにつながる、ある種の自殺行為である――刀剣男士、ひいては2・5次元という、存在が孕む儚さゆえのことなのかもしれない。

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