ちくまプリマー新書

いまいるその場所で

光嶋裕介『建築という対話 僕はこうして家をつくる』

5月刊行のちくまプリマー新書『建築という対話 僕はこうして家をつくる』(光嶋裕介著)について、独立研究者の森田真生さんに解説をいただきました。

 『建築という対話』と題した本書であるが、中身は「家をつくること」以上に、「人と人の関係をつくること」について語られている。著者にとって「建築する」とは、まず何よりも「人間をつくる」ことなのだろう。難解な芸術論や空間論をふりかざすのではなく、抽象的な身体論を捏(こ)ねるでもなく、著者は屈託なく、家族や師匠への愛を打ち明け、人生を形作った縁を喜び、さらに豊かな人と人との関係を育(はぐく)むための、家づくりへのアプローチを語る。
 こんなにまっすぐで、こんなに素直な目的を抱いて、人は建築家であり続けることができる――そのことに勇気づけられる若い読者も、少なくないはずだ。
 ぼくは著者の友人として、彼が若い学生などと接する場面を、これまでにも何度か目撃してきた。彼はいつでもすぐに人の心を掴んで、まるで兄弟のようにしたがえてしまう。飾らず、偉ぶらず、いつでも正直で素直に心を開いてくれる先輩の姿に、誰もが魅了されてしまうのである。
 この本を開けば、そんな著者と、膝を突き合わせて話しているような臨場感を味わえるだろう。平易な言葉で、本書全体が語りかけるような口調で綴られている。ぼくは今回、友人として「解説」を頼まれたのだが、本当は解説など必要ないのだ。著者の語る言葉にひかれた読者は、じっくり本書と向き合い、著者との「対話」を楽しんでほしい。
 以下は、個人的な感想である。
 ぼくはこれまで「自分の家をつくる」ことに興味がなかった。いまでも、マイホームを持ちたいとか、土地を所有したいという願望はない。だが、この本に書かれている通り、もし「家をつくる」ことが、ただ立派な「建物」をつくることではなく、建築するとは、人と人の関係をつくることであり、結局は「人間をつくる」ことなのだとしたら、それにはぼくも、もちろん大いに関心がある。
 自分の哲学を「家をつくること」に喩えたのはデカルトである。彼は、あらゆる認識を根底から疑い、盤石な基礎の上に哲学を樹立しようとした。その企てを、彼自身は「家を建て直す」作業に擬(なぞら)えた。よりよく考え、よりよく生きる方法を探究し続けたこの人が、哲学と、家をつくることが似ていると考えたのは面白い。よい家をつくることは、よく考え、よく生きるための場所をつくることでもあるのだ。
 デカルトにとって、家をつくるための足場は、絶対的に堅固である必要があった。そのため、疑い得るものはすべて疑い、既存の信念をことごとく打壊し、まっさらな土地から彼は「家」の再建を始めようとした。
 デカルトのこうした姿勢を、チャールズ・パースという十九世紀のアメリカの数学者は、舌鋒鋭く批判した。人は探究に先立ち、すべてを疑うことなどできない。人は、疑うために、まず何かを信じていなければならない。デカルトが言うように「まっさらな土地」からはじめることなど、不可能なのだ。
 パースによれば、探究とは、信念と疑念のサイクルである。信念のない疑念も、疑念のない信念もあり得ない。だから、人はどれほど不確かな足場だろうが、さしあたりその場所からはじめるほかない。まず、とにかく家をつくりはじめる。その行為だけが、よりよい家の姿を物語るのだ。
 本書で語られるのは、デカルトの家づくりではなく、パースのように躍動し続ける家づくりである。人や、新たな着想に触発されながら、光嶋裕介は、いつでもいまいるその場所で、全力投球の「建築」を続ける。疑念が次の信念を生み、その信念がまた新たな問いを生む。この終わりなき「対話」はすべて、名を残すためではなく、豊かな人間の建設に向かう。
 著者が愛したのは「名もなき建築家による建築」だという。彼はそれを、これからいくつも生み出していってくれるのだろう。