脇田玲

第9回:プログラミング教育の必修化に思う

いま「ラボ」や「リサーチ」を冠した組織が、アフターインターネット時代のビジョンを作りあげつつある。彼らはスピード感と軽やかさを武器に、新しい技術の可能性を社会に問い続けているのだ。ラボやリサーチをイノベーションの駆動力とする「ラボドリブン社会」とはどのようなものか。ビジネスからアートまで、最先端の現場からラボの新しい姿を解き明かす。

2020年プログラミング教育は必修化へ
2020年から小学校でのプログラミング教育が必修化されるそうだ。総務省は2025年までに100万人のIT人材を育成する予定だ。『日本再興戦略 2016』には以下のような記載がある。

 

「第4次産業革命の波は、若者に「社会を変え、世界で活躍する」チャンスを与えるものである。日本の若者が第4次産業革命時代を生き抜き、主導できるよう、プログラミング教育を必修化するとともに、ITを活用して理解度に応じた個別化学習を導入する」

(2)経済成長を切り拓く人材の育成・確保
①第4次産業革命を支える人材育成・教育施策
・初等中等教育でのアクティブ・ラーニングの視点による学習、ITを効果的に活用した個に応じた習熟度別学習指導(アダプティブ・ラーニング)、発達段階に即したプログラミング教育の必修化など情報活用能力の育成の徹底を図るため、2020年度から順次開始される新しい学習指導要領の見直しを行う。
【プログラミング教育の必修化など新しい学習指導要領の実施: 小学校2020年度〜、中学校2021年度〜、高等学校2022年度〜】」


第4次産業革命とは、IoT、ビッグデータ、人工知能などの技術を用いて産業構造、社会構造を変換していく試みのことで、ドイツが発表した「Industry 4.0」という表明が徐々に浸透したものだ。

日本の構造をIndustry 4.0の特性にあわせて積極的に変えていくという方向性にはワクワクするが、日本政府が着目しているのはあくまでも実利的な側面だ。アベノミクスの第2ステージの目標たるGDP600兆円を実現することが『日本再興戦略 2016』の主要な目的であり、2020年からのプログラミング教育必修化はその戦術の1つにすぎないのだった。

初めてコンピュータに触れた日のこと
プログラミング教育の必修化という言葉を聞くと、初めてコンピュータに触れた日のことを思い出す。ぼくが初めてコンピュータに触れたのは、大学に入学した1993年のことだ。1993年といえば、バブル景気が終了し、その名残りとも言えるJリーグの開幕、レインボーブリッジの開通、横浜ランドマークタワーのオープンなどがあった年。同時に、Windows 3.1の発売、インターネットの商用利用の開始、ブラウザNCSA Mosaicの公開、HTML 1.0の公開など、情報社会の幕開けともいえる年でもあった。

ぼくが入学した慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)には、情報社会の申し子のような人が溢れていた。初代の環境情報学部長の相磯秀夫、日本のインターネットの父である村井純、メディアアーティストの藤幡正樹、3次元CADの天才研究者の千代倉弘明などが教えていて、今考えると恐ろしく恵まれた環境だった。

最初の一歩はキーボードに慣れることだったが、当時のぼくは初めてコンピュータに触れるものだから、当然タッチタイピングすらできなかった。そんな初心者向けに「ゆみこ先生」というタッチタイピングソフトが用意されていて、画面に表示される言葉をなるべく早くかつ正確に打ち込むと、そのたびにゆみこ先生からコメントが帰ってくる。

「遅いですね。足で打っているんですか?」

一部の友人は先生のコメントにヒーヒー言って喜んでいたが、ぼくはなかなか彼女を好きになれなかった。

SFCではプログミングの講義が必修だった。政治や経済を勉強する人すらもC言語の基礎を理解し、1年生のうちに簡単なプログラムを作れるようになることが課されていた。ぼくは環境情報学部というやや理系寄りの学部だったので、プログラミングはもちろん勉強せざるを得ない状況だった。母校であり現在の職場でもあるSFCのことを悪く言いたくないが、そこでの講義は本当につまらなかった。今でも覚えている。情報処理の授業の中で、券売機のプログラムを作ろうという課題がでて、条件分岐を組み合わせながら、お釣りを計算するプログラムを作らせられた。鉄道ファンでもないし、お金の勘定にも興味はないし、そもそもSUICAやPASMOができた時点で過去の遺物になってしまうようなものをよく作らせていたものだと思う。教員になってみてよくわかるのだが、学校という場所は生徒が学びたいことを学ぶ場所ではなく、教師が教えたいことを教える場所として設計されている。プログラミングのような抽象的思考を強いる授業では学生のモチベーションこそが最も重要であるのに、当時の教員は教授法に躍起になっていたのかもしれない。

そんな講義ばかり受けていたものだから、コンピュータは嫌いになる一方だった。夢中になる講義もなく、たまたま入ったヨットの同好会でセーリング三昧の日々を過ごしていた。毎週金曜日の夜に合宿所に集合して、土日は葉山の森戸海岸で練習合宿をした。夏休みには40日くらい、年間で140日くらいは合宿していたように思う。合宿所では朝5:30には起床して、眠気と寒さと戦いながらヨットのセットアップをする。日が落ちる前まで海の上で練習し、合宿所に戻ったらレースの戦略と戦術の勉強をする。休む暇がほとんどない生活だったが、ヨット以外の無駄なものが一切入り込まない充実した日々だった。

ぼくにとってのリアルな「大学」
そんなぼくだったが、大学1年の後半になって、残留するようになった。SFCでは大学に泊まって作業をすることを「残留」という。インターネットに夢中になって、自分のウェブページを作るようになったのだ。世界中のクールなページを見つけては、そのHTMLのソースコードを表示し、内容を理解し、同様のレイアウトや仕組みを自分のページに組み込むことに没頭した。HTMLの専用ツールやCMSも存在せず、テキストエディタでHTMLのコードを直書きする時代だった。まだYahoo!もGoogleも存在せず、好き勝手にリンク集をつくって、お互いに結びつけ合っているのが当時のウェブだった。

幸いなことにキャンパスには常に最新の技術が導入されており、1993年に公開されたNCSA Mosaicはすぐに使うことができた。その後、Netscapeが現れた。画像にリンクをつける際に輪郭の色を変えられるというたったそれだけのことに興奮したのをよく覚えている。ウェブデザインという分野が確立した現在から見ると、本当に初歩的なことをやっていたにすぎないのだけど、今思えば、自らの創作意欲から学習をするという経験が、その後の私の学びや研究の根幹となっていったように思う。

ちなみに、学校の生活環境の中心には常にウェブがあったが、HTMLやデザインについて学べる授業は当時は1つもなかった。ネット関係の授業はもっと低レイヤーの技術が中心で、TCP/IPや計算機の構造、人工知能のアルゴリズムの講義などがあったように記憶している。

ぼくにとっては、授業よりも、残留しながらネットの世界を探索することが、大学生活の中心になった。大切なことは、勝手に学び、友達同士で情報をシェアしていた。そっちの方がぼくにとってのリアルな「大学」だった。深夜の教室には必ず同じようなことをしている学生が何人か残留していて、そこでお互いに教え学び合う場が動的に生成されていった。

Netspaceの次にショッキングだった出会いはシリコン・グラフィックス社のワークステーションだった。たしか4年生の頃だったと思う。このマシンは大理石のテクスチャのついた筐体に収まっていて、緑や青や赤紫の派手な色彩が施されていた。ズーミング機能のついた4Dウインドウマネージャ、ジオメトリ・エンジンによる高速な3Dグラフィックス処理などなど、使ってみたい!と思わせる要素に溢れていて、絵の具やキャンバスとは全く異なる創作のツールと出会った気がした。当時ぼくが所属していた千代倉弘明先生の研究室にはシリコン・グラフィックス社のマシンが多数置いてあって、その中でも一番高速なマシンを占有して利用したいがために、これまたよく残留した。毎週2回くらいは残留していたと思う。

このマシンで創作するには、C言語とOpenGLというグラフィックスライブラリを学ぶ必要があった。特に後者は幾何学や行列など数学的に学びなおすことが多く、通称「赤本」と呼ばれるOpenGLの技術書と毎日向き合いながら、グラフィックスプログラミングの世界に入り込んでいった。気がつけば、最新の動向を知るために論文を読むようになり、国際会議で自分の研究を発表することが目標になっていた。

学校や教育はどうあるべきか
以上のように、ぼくの大学での学びは、必修化されたプログラミング講義とは無縁のところにあった。夜な夜なクールなウェブサイトを解剖して、自分のウェブページに組み込むこと。プログラミングで自分だけの3次元の世界を構築すること。そこで仲良くなった友達や先輩と半学半教のコミュニティをつくっていくことが学校に行く意味だった。文科省の決まりごとのために、大学4年間で124単位の講義を取る必要があり、それなりに学習した記憶もあるが、今になると授業の内容はほとんど覚えていない。学部のカリキュラムの構造を意識したこともほとんどなかった。ただ好きなものを作りたいというモチベーションこそが学びの源泉だった。

学校とは教えるべきことを教える場所ではなく、学生が学びたいことを学ぶ場所なんじゃないかと思う。本当に必要なのは、必修化された一式の講義を学生に消費させることではなく、学生が自ら学びたいことを発見させることなのだと思う。ぼくを育てたのはSFCの先進的なカリキュラムではなく、高速なマシンとインターネットが24時間使えた環境だったのだ。必修化という制度を整えるのではなく、プログラミングが生活に欠かせない一部になっていくような場づくりこそが大切ではなかろうか。

国家が存続するための戦略としてではなく、個人が幸福に生きて幸福に死んでいける社会を実現するために、学校や教育はどうあるべきか。そういうことを真剣に考える場所が必要かもしれない。2020年にプログラミング教育が必修化されると聞いてそんなことをぼんやりと考えている。
 

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