ちくま学芸文庫

村上春樹とメタファーの世界
『よくわかるメタファー――表現技法のしくみ』補章

7月刊行のちくま学芸文庫『よくわかるメタファー――表現技法のしくみ』より、文庫化にあたり新たに書き下ろされた「補章」の一部を公開いたします。話題作『騎士団長殺し』の多彩な表現の秘密に切り込みます。

  村上春樹の久々の長編『騎士団長殺し』(2017年、新潮社)の第2部は、「遷ろうメタファー編」の副題をもつ。用語としてのメタファーがようやく定着したな、とひとり合点した。この小説の中では、隠喩と暗喩も導入的に使用されるが、これはメタファーにまだ馴染みのない読者へのサービスだろう。大半はカタカナ表記のメタファーで通される。
 同小説の中の用語を整理すると、下線を付したものが実際に使われたもので、横列は同じ意味を表す。

  メタファー隠喩暗喩
  シミリー、直喩、明喩

 頻度的にはメタファーが確かに群を抜く──初めて出るのは第2部の後半──が、村上作品を特徴づけるのはむしろシミリー(直喩、明喩)の方ではないか。用語そのものではなく、その個々の実例である。
 ある日、36歳の絵描きの「私」は妻から唐突に離婚話を切りだされる。2人は台所のテーブルを挟んで座っていた。

 彼女は襟ぐりの広い、薄手の藤色のセーターを着ていた。白いキャミソールの柔らかいストラップが、浮き上がった鎖骨の隣にのぞいていた。それは特別な料理に用いる、特別な種類のパスタみたいに見えた。

「みたいに見えた」の部分がシミリーを合図する。2つのものの間の類似性を明示する。だから喩と言う。ただ、どの種の見立てをするのかは書き手次第。パスタはこの状況で誰もが思いつく比喩ではない。もう少し続きを見ると、突然のことで戸惑う「私」は、妻に理由を尋ねるが、はかばかしい答えは得られず、「〔……〕それでは何の説明にもなっていない」と言う。

 彼女は両手をテーブルの上に置き、目の前のコーヒーカップの内側を見下ろしていた。その中におみくじでも浮かんでいて、そこに書かれた文句を読み取っているみたいに。

 やはり「みたいに」の存在がシミリーの手掛かりだ。村上らしさを醸し出すもうひとつの言語的仕掛けは、「その中に……みたいに」が直前の文から切り離されて、それにぶら下がるように付加される点である。このパタンはバリエーションを含めるとけっこうある。
 内容的には、村上らしいシミリーは、五感に強く訴える。たとえば、画家の雨田具彦がかつて暮らしていた山荘にいま「私」が仮住まいしている。ある日の情景を描写して──

 家の中はひどく静かだった。私ひとりになると、沈黙が一挙に重みを増したようだった。テラスに出ると風はなく、そこにある空気はゼリーのように濃密で冷ややかに感じられた。雨の予感がした。

 「沈黙が……ようだった」はどちらかと言うと普通のシミリーに近いが、「空気はゼリーのように濃密で冷ややかに感じられた」はすこぶる村上流だろう。もちろん最初の引用の「パスタ」もこれに類する。五感はもう少し絞り込めるかもしれない。ちょっと用意周到な気配が漂うが、ここは村上の文体を分析する場ではない。
 ではシミリーとメタファーとの関係はどうなっているだろうか。一般に、メタファーはシミリーの圧縮形、あるいはシミリーはメタファーの膨張形と理解されるようである。「アキレスは獅子だ」がメタファー、「アキレスは獅子のようだ」がシミリーというように。類似を合図する「のよう」のあるなしが決め手だ。「のよう」以外にも「みたい」「に似て」などの数多くの枠があるが、メタファーではこのような類似記号なしに二者が直接結びつけられる。アキレスは勇者だがもちろん獣ではない。そんなことは百も承知の上で獅子になぞらえられる。たんに勇ましいと言いたければ直接そう言えばいい。アキレスの勇ましさはそれではことば足らず、舌足らず、獅子の勇ましさでなければならない。
 このとき本当は3つの表現パタンがそろう。

アキレスは獅子だ。
アキレスは獅子のようだ。
アキレスは獅子のように勇ましい。

 1番目がメタファー、2番目と3番目がシミリーである。こう並べてみると、メタファーが引き締まっていて、シミリーはメタファーの弛緩形とも思える。とくに3番目は、類似点の種明かしまでして、比喩としてのテンションがかなり落ちるのではないか。古来、メタファーの方が上等という評価をちらほら耳にする。シミリーに関しても、2番目を直喩、3番目のネタバレ型を明喩として区別することもある。しかし、先に引いた村上の文章は、この意味での明喩に近い。それらはメタファーと比べて質が落ちるだろうか。
 そんなわけはない。私たちの理解不足のせいである。シミリーの圧縮形がメタファーだという解釈そのものがあやしい。試みにゼリーのシミリーをメタファー風に書き換えてみよう──「そこにある空気は濃密で冷ややかなゼリーだった」と。あるいはいっそのこと、「そこにある空気はゼリーだった」と。「濃密で冷ややかな」という類似ポイントは伏せておく。しかし、これでは村上に叱られそうである。私の表現の稚拙さのせいだけではない。おみくじやパスタの例をメタファーもどきに書き換えると、いっそう滑稽な結果になるはずだ。
 違いを簡単に言うと、シミリーはメタファーよりもうんと自由である。表現幅がそれだけ広い。種明かしつきのシミリー(明喩)は一番制限が緩い。この意外性こそシミリーの生命線ではないか。思いもよらぬ組み合わせこそおもしろい。その分、わかりにくくなる場合があるので、ある程度の種明かしをしておく。真夜中の悪魔のような熱くて濃いコーヒーを好む彼女がいても、昼下がりの天使のようにおっとりとした白ワインをチョイスする彼がいてもかまわない。シミリーはのびやかに天翔る。
 もちろん誰もが村上春樹に近づけるわけではないが、類似記号を明示して明喩を繰り出すこと自体はそんなに難しいことではない。奇想天外な類似点を思わず発見してしまう瞬間は誰にだってある。月とスッポンだってどこか似ていると言えば似ているだろう。それに気づいた人を責めるわけにはいかない。どちらも少なくとも丸いではないか。ここにはもっと考えるべきことがありそうだ。
 ところで、先日ある理系の大学を訪れた。つねづね倹約に厳しい大学と聞いていた。エアコンの利き目がほとんど感じられなかったのは仕方がないとして、もっと驚いたのは手洗いの水の切れのよさだった。蛇口が自動なのは言うまでもないが、手を引くと、というよりも手を引く動作を開始すると瞬時に水が切れた。まだ手は蛇口の下を通過していない。雫も垂れない。まさに快刀乱麻を断つがごとし。ふつう「勢いよく水が出る」と言うが、そのとき頭に浮かんだのは「勢いよく水が切れる」だった。考えてみれば少々おかしな表現だが、状況をできるだけ正確に言語化しようとすれば、少しぐらい言語の慣用を歪めたっていい。 

  比喩は新しい認識をできるだけ正確に反映しようとすることば遣いである。

  メタファーやシミリーについての大きな誤解のひとつは、それらが文字通りの表現を飾るという言語衣装観だろう──先に既存の認識を表す表現があって、それをあとから着飾るという見方。これは明らかに間違っている。パスタもおみくじもゼリーも、新しい謎の認識がまずあって、それからことばの探索が始まると見るのが正しい。通常の言い回しでは十分に意が通じないとき、新たな表現が試みられる。それが創造的なメタファーやシミリーとなる。
 雨田具彦が描いた絵を「私」は屋根裏で発見する。そのタイトルが「騎士団長殺し」。やがてその騎士団長の形象を身にまとって登場するのがイデアである。第1部の副題は「顕れるイデア編」。イデアの騎士団長は「私」に次のように言う。引用中の「諸君」は意味的には「あなた」である。イデアのことば遣いはときどき人間離れしている。

 〔……〕「雨田具彦の『騎士団長殺し』について、あたしが諸君に説いてあげられることはとても少ない。なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ」
 そして騎士団長は小指の先でぽりぽりと耳のうしろを掻いた。まるで猫が雨の降り出す前に耳のうしろを掻くみたいに。

 ここには新しい用語がある。寓意は比喩のことばで寓喩と呼ばれ、アレゴリーとも言う。一貫したメタファーの連続を意味してストーリーを形成する。短いものでは「転ばぬ先の杖」のような格言・諺から、長いところではイソップ物語のように形の上でもストーリーに展開する。「騎士団長殺し」の絵は寓意であり、メタファーの連鎖だ。「私」が絵解きに挑む。
 確かに、寓意や比喩は文字通りのことばで説明できない。本来そのまま呑み込まれるべきもので、置き換えがきかない。だからメタファーやシミリーが存在する。力強いか、簡潔かなどの尺度だけで測れるものではない。

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