冷やかな頭と熱した舌

第23回
本屋の読書
―谷川俊太郎にノーベル文学賞を!

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!
 

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■月に読んでいる冊数

 今回は「読むこと」について書こうと思う。
 2017年の7月現在、僕が「自分で選んで読む本」と「仕事として読む本」との割合は半々ぐらいだ。ORIORI店へと異動してきてからというもの、労働時間は増えているのにもかかわらず、読むことに割く時間は以前より増えた。勤務日には、出社前にだいたい1時間30分、昼の休憩時間に1時間、家に帰ってきてから2時間。合計4時間30分ほどを読書に充てている。朝および昼に読む本と、夜に読む本とは違う本にするようにしており、つまり別々の本を同時進行で読むようにしている。たとえば、現在の「自分で選んで読む本」は『未来の年表』(河合雅司 講談社現代新書)であり、「仕事として読む本」はNHK出版から今度出る翻訳ものだ。昔、なんかの本を読んだ時に、そのほうが脳に好影響を与えると書いてあった。その時、たまたまもう一つの本を同時進行で読んでいて、気をよくしたことが始まりである。

『未来の年表』河合雅司 講談社現代新書

 上記の時間とは別に細切れの時間も活用する。天気のいい日は歩きながら本を読むし、風呂につかりながら書評をチェックするし、車の運転中に信号待ちをしているときでさえ本を開く。べつに活字中毒というわけではない。他に時間の過ごし方を知らないだけだ。そして僕は、読むスピードが早い方じゃないから、そうやって読書時間を積み重ねていかないと常人が読む量に追いつけない。ページ数にもよるので一概には言えないけれど、月に20冊~30冊ほどの本を読む。そして、読んだそばからほぼ忘れる。はからずも2冊同時に本を読むことが脳に良いという説を反証してしまっている。

 最近じゃありがたいことに、書評や文庫本の解説などを書かせていただくことも増え、再読するので少し忘れづらくなったようにも思う。しかし、その代わりに日々の予定をすっぽかすことが増えた。それでも休みの日は忘れないから不思議である。この連載は休みの日に書くと決めているので、締め切りから逆算して休みの日数で割って進行するようにしている。連載が最終回を迎える頃には、月間の読書量はおそらく少し増えているだろう。せっかくの休みだというのに、何もすることがない。絶望的ともいえる行動力のなさに自分で自分が嫌になるが、少しでも自分のなかに何かが残ることを信じて、今日も右から左へと文章を読み流す。

■趣味の読書、仕事の読書

「自分で選んで読む本」と「仕事として読む本」については、少し説明が必要だろう。「自分で選んで読む本」は、ほぼ完全に趣味の領域である。なぜかライフワークとして追いかけている「貧困」をテーマにした新書であるとか、競馬関連の本などがこれにあたる。好きな作家の小説なども、ここに含まれるだろう。これらは付箋も貼らず、メモも取らずで、書き手の文章に身を任せ、その世界に没入して読む。これらの本のなかで特によかったものは、「店のファン」ではなく「書店員としての僕のファン」を獲得するために、大きく売ることを目的としないPOPをひっそりとつける。いわば店のスパイスとして、コアなお客さんを獲得するのが目的だ。
 他方、仕事として読む本とは出版社から送っていただいたゲラ、プルーフ、献本などに加えて、ラジオで紹介するための本など。僕のなかの線引きで、これらは「読まなければいけない本」にカテゴライズされている。読まなければならない本を読むときには、ある判断基準を設けたうえで「読むこと」を意識して取り組む。ある判断基準とは、言うまでもなく「売れるかどうか」という眼をもって本に向き合うことだ。
 具体的に言うと、一つは自店のお客さんに合うかどうか。これは絶対的な判断基準である。書店員ならば誰もが意識していることだろう。しかし、もう一つが重要なキモである。
 もしも自店のお客さんに合わないと思っても、違う角度から光を当てた時に「ウリ」となる魅力的な要素がないかを考えながら、付箋をペタペタと貼りながらチェックしつつ読んでゆく。じつのところ、店の売り上げに長く貢献するような本は、後者のほうが多い。

■書店員の本当の役割―第二の編集者として

 いま現在、自店に来てくれているお客さんに合う本は、説明もなくただ目立つ場所に展開すれば売れてゆくものだ。自らすすんで親のお手伝いをする、手間のかからない気が利く孝行息子といえば分かりやすいだろうか。
 一方、後者は手のかかる不出来の息子であるが一芸に秀でており、才能を伸ばしてやれば誰にも負けない魅力を発揮する。馬鹿な子ほど何とやらというやつだ。その隠れた才能に対して、別の切り口や異なる角度の光の当て方を、説得力を持って提示できるかどうかで売上は変わってくる。じつは、それが僕ら書店員の本当の仕事といっても過言ではない。つまりは文章を直さず、読み方を直す第二の編集者としての役割だ。お客さんが、自分では気づかなかったその本に対する魅力を教えられ、少なくない驚きとともに帰路につく。読後に、私たちが提示した読み方に納得してくれれば、そのお客さんは間違いなくリピーターになってくれる。
 このことを意識して店づくりをしている書店は案外少ない。通り一遍の、第一編集者が示した本の内容を、そのままお客さんに対して提示しても、全国共通の何も面白くない売り場の出来あがりである。お客さんが待っているのは、変化球だと仮定してみたほうがいい。僕が小さい頃に憧れたのは、魔球と言われた潮崎哲也のシンカーだ。あまりの変化球に、お客さんがついてこられないこともしばしばだが、それはそれでいいのである。決め球なのだから。
 書店のPOPを読んでいて「なんだかなぁ」と思うのは、もろに文脈に即した説明文を書いたうえに、単に自分の感動を押しつけるだけの自己満足の本紹介だ。棒球すぎて手が出ない。本を読んだとき、どう解釈するかは人それぞれであるが、誰もが気づくわけではないテーマをほのめかすこと、その本の周辺にまつわる情報を一つでも二つでも多く提示してやることで、じつは本の売れ方は劇的に変わってくる。今回はそのことをふまえつつ、一編の詩を引き合いに出して「読むこと」について論じてみたい。

■谷川俊太郎「生きる」
 
 谷川俊太郎さんに「生きる」という有名な詩がある。小学校の国語の教科書などにも採用されているので、もはや国民的な詩であると言っていい。だが小学生時分には、この詩を味わうところまで至らない子どもがほとんどではないだろうか。ご多分に漏れず僕も、この詩の細部にばかり目がいってしまい、その素晴らしさを享受することができたのは三十歳を過ぎたあたりだった。

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木もれ陽がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみをすること
  あなたと手をつなぐこと

 何気ない日常の一コマ。生の一瞬を切り取りながら、いまこの詩を読んでいる「あなた」と、特別ではない生きるための営みを分かち合う導入部分。誰にでも当てはまる、ごくごく個人的な体験をやさしくなぞることで、あなたを「生きる」という詩の世界へ瞬間的にアジャストさせる。あなたは一人で、新緑の季節を歩く自分を思い浮かべるかもしれない。だが、このスタンザ(連)の最後の行で、それが思い違いであることに気づかされる。一人だと思っていた世界は広がりを見せ、あなたが大切に思うもう一人の存在を思い起こさせながら、そのつないだ手の感触を手のひらに感じてしまうほどの幸福な余韻を持って場面は転換する。
 幸せから一転、次のスタンザでは名詞が羅列されている。一見すると、生きることとは直接的に結びつかない名詞たち。つながりが分からないからこそ、読む者の脳裏に様々なイメージを喚起させる。つないだはずの手のひらの感触が遠のき、私たちは頭に小さな「?」を浮かべながら、それらの名詞と生きるということの共通項をそこに見出そうとする。

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはミニスカート
  それはプラネタリウム
  それはヨハン・シュトラウス
  それはピカソ
  それはアルプス
  すべての美しいものに出会うということ
  そして
  かくされた悪を注意深くこばむこと

 小学生の頃。授業中にこの詩と出会い、まだ小さな世界にいた僕は、名詞の連なりから共通のイメージをまだ広げることができなかった。もちろん「ヨハン・シュトラウス」なんて知る由もない。『キャプテン翼』のなかに、そんなキャラクターが出てこなかったかな……くらいのイメージしか持てなかった。知らない名詞たちは手前勝手に推測するしかなく、だから正しい解を導けるわけもない。自分が「分かる部分」や「知っている部分」にだけ着目してしまったのだった。この詩を音読するよう先生に指名された際に、おもいっきり空目して「それはカルピス」と口にした恥ずかしさを思い出しては、ときどき死にたくなる。
 では「生きる」という詩の、この小さな混乱を僕はどう処理したのだろう。小さな世界に存在する小学生男子が知っていて、かつ興味を持つ部分はおのずと決まってくる。そう、「ミニスカート」に食いつくまでの時間は、ものの数秒だった。生きることがミニスカートとは、これ如何に。読んだ瞬間に、小学生の僕の脳内に浮かんだ赤に白い水玉のミニスカート。穿いているのはミニーマウスだ。我ながら、なんてイッツ・ア・スモールワールドであろうかと、いま振り返って思う。

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