ちくま学芸文庫

「算法少女」この不思議の書をめぐって

PR誌「ちくま」9月号より、『算法少女』の著者である遠藤寛子さんが寄稿された文章を転載します。

 私の少年少女向け歴史小説『算法少女』がその物語の含む和算の世界への手引書的な性格を認められ、出版後三十年を経て「ちくま学芸文庫」に加えていただくことになった。まことに不思議ななりゆきにただ驚いている。

 この作品はけっして和算、数学の専門的な分野に重点をおいたものではない。それは、原版そのままに随所に挿入されたさしえを御覧になってもおわかりになると思う。

 故箕田源二郎氏の味わい深い江戸風俗の絵があらわすように、これは江戸の市井に生きたひとりの数学好きの少女がまきこまれた、和算の流派間の派閥争いと、争いの中で少女が目ざめた新しい生き方を描いた、ちょっとスリリングで、ちょっと考えさせるものを持った、あくまでフツウの物語である。

「算法少女」という表題は、私が名づけたものではない。安永四年(一七七五)江戸で出版された同名の和算書が存在する。この本、刊本ではあるが、今日では国立国会図書館などに数冊存在が知られるだけのうえ、明治維新前にわが国で女性が関わった唯一の和算書として、和算の世界ではかなり知られた本である。

 では、私の作品はそれの現代語訳的なものか。大いに違う。表題のみ借りた私のオリジナル作品か。それともちょっと違う。

 和算書「算法少女」は、その序文によれば娘が、町医者である父の協力を得て著したのであるが、娘も父も本名をどこにも書いていない。娘は「平氏」と氏のみ記し、押された印章に「章子」の文字が見える。父は「壺中隠者」と号するのみ。父の名が広く知られるのは、出版後百六十年を経て、数学史家三上義夫氏の研究によってである。しかも三上氏の研究もかえって謎をさそう所が多く、数学史上からも、謎をはらんだ一冊である。

 私の作品は、このあやしき一書にささやかに挑んだ〈謎とき〉でもある。

 小さい時から私の愛読した本には、多少とも〈謎〉があった。まず黒岩涙香訳の「巌窟王」、今日うろ覚えながら、船員団友太郎変じた伯爵イワヤジマトモヒサが七変化八変化しての復讐譚。次いでは菊池幽芳の「乳姉妹」や吉屋信子の「あの道この道」(これらはテレビドラマにリメイクされて喝采を博した)、同じ作者の「紅雀」等。それらを読みつくすと、大人の本箱にもぐりこんで読んだ牧逸馬の作品の数々。これらは私の血肉の中にふかく滲みこんで、後年ジュニア向けの作品を書くようになっても、作品の中に〈謎〉をひそませることが多かった。

 和算をめぐる物語『算法少女』を書きはじめた時も、この作品の柱として二つの謎を置いた。円周率の問題と、そして和算書「算法少女」には直接は登場しないが、和算家大名有馬頼【よりゆき】の藩領のトラブル。

 私の『算法少女』が出てしばらく後、児童文学の研究家で、推理小説の評論家としても高名なさる方から声をかけられた。「推理小説作家の会合に出てみないか」「私なんてとても」「でもあなたは『算法少女』を書いているじゃないか」。うれしかった。けっきょくその会合にはおそれをなして出なかったが。

 一方で、私の『算法少女』は多くの数学関係者に愛された。近年の事のみ記すが、一昨年にはお茶の水女子大や文京区等の共催行事に呼んでいただき、話をさせていただいた。その実行委員長の真島秀行教授から私のことを聞かれた亀書房の亀井哲治郎氏(元「数学セミナー」編集長)がちくま学芸文庫に紹介して下さった。

 こうして、児童文学のわが作品が、思いもよらず本格的な理科系の文庫に名を列ねさせていただくこととなった。

 和算の世界への道しるべか、和算を舞台にした推理小説か、どうぞお読みの上、おきめ下さい。

(えんどう・ひろこ 児童文学作家)

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