妄想古典教室

第十回 失われた物語を求めて

『日本書紀』が語る神功皇后
 さて、『古事記』の神功皇后が住吉神という水の神に従って、新羅国からの朝貢を約束させるという、神にただ従う存在だったとすれば、『日本書紀』の神功皇后は海の女神らしさを自らにあらかじめ備えているようにみえる。『日本書紀』では神功皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とあって、表記が少し異なる。
 はじめに仲哀天皇が熊襲を討つと言い出すところは同じだが、神の託宣を聞くより前に、皇后に、穴門(あなと。山口県の長門のこと)で落ち合おうと約束して、天皇はさっさと出かけてしまう。
 皇后は、船で穴門へと向かうのだが、そこでいきなり海の幸をめぐる霊験譚が語られることになる。道中、船上で食事をしていると、鯛がたくさん船のそばに集まってきた。皇后は、酒をその鯛に注いでやった。魚は酔っ払って浮かんできた。海人たちはその魚を獲て喜んで「聖王のたまふ魚なり」と言った。この魚こそ六月になると酔っ払ったように口をぱくぱくさせている、あの魚である、という話である。神功皇后は、海の幸をもたらす性格を備えている。
 さらに、皇后は豊浦津に泊まったが、この日に「如意珠(にょいのたま)を海中(わたなか)に得たまふ」と唐突に付け加えられている。どういうわけか、皇后は海中の龍王の珠を手にしているのである。
 天皇と皇后は、いまの香椎(かしい)の橿日宮(かしひのみや)を宮殿とし落ち着く。ここでようやく、熊襲を討つことについて神託を得る話が語られることになる。ここでは天皇が琴を弾くこともないし、審神者として武内宿禰が出てくることもなく、ただ神が皇后に憑依して託宣する。託宣の内容はだいたい同じで熊襲なんてやめておけ、新羅国へ行けという。神は「もしよく吾をまつりたまはば、かつて刃を血(ちぬ)らずして、その国かならずまつろひなむ。また熊襲もまつろひなむ」と言うのであって、ただ神に祈りさえすれば、恵みとして新羅国と熊襲の服属はもたらされるというのである。ここでもやはり仲哀天皇は信じない。そして熊襲を征討しようとするが、戦勝を挙げられずに戻ったとたんに病みついて亡くなってしまう。皇后は天皇の死を隠し、天皇に代わって新羅征討を果たそうとするのである。
 仲哀天皇が神を疑った祟りで亡くなったというので、皇后はまず、いまの宗像のあたりの小山田邑(おやまだのむら)に斎宮(いつきのみや)を造らせて、自ら神主となって神意をたずねるのである。ここでは、武内宿禰(たけうちのすくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を審神者としている。まず仲哀天皇に託宣を下した神は誰だったのかをたずねると、次々に神の名前が挙がってくる。このなかに例の住吉三神もいる。神が教えたとおりにそれらの神を祀って、その上で熊襲を討った。たいした戦闘もないまま熊襲は服従する。それから皇后は、熊鷲、土蜘蛛などの、あらゆる敵を討ってとる。
 松浦県(まつうらのあがた)の鮎釣り説話はここでも語られている。玉島里の小河で食事をしていた皇后は、裳の糸を抜いて、糸にして飯粒を餌にして鮎釣りをするというのは同じだが、『古事記』と異なるのは、ただ河の幸を得るという話ではなくて、新羅出征の是非を問う占いとして行われていることである。「われ、西の方、宝の国を求めむと思ふ。もし事なすことあらば、河の魚、鉤を食へ」といって、竿を挙げると鮎がかかった。鮎は新羅征討の吉兆である。
 祇園祭の山鉾の一つである占出山は、『日本書紀』のこの鮎釣り説話をもとにしている。烏帽子をかぶって男装した神功皇后が釣り竿と釣り上げた鮎を手に持つ姿がかたどられている。お腹に子を宿したまま新羅国まで赴いたにもかかわらず無事に出産したので、安産の神としても信仰されており、祇園祭のときには安産祈願の腹帯などが授与される。占出山の神功皇后の姿は、祇園祭山鉾連合会のサイトで見ることができる。

 いよいよ新羅出征というときに、皇后はまたしても神意をはかる占いをする。長い髪を解いて、海に向かって次のように言う。「これから青海原をわたって西の方を征討しようと思う。いま頭を海水にすすぐ。もし験があるのなら、髪よ、おのずから分かれて二つになれ」。すると髪は二つに分かれた。皇后はそれを角髪(みずら)に結い上げて男装した。角髪というのは、両耳の脇に髪を輪にして結う髪型で、古代には成人男性の姿であった。
 神功皇后は、二度の占いによって、新羅征討の根拠を河の神、海の神の神意として得るのである。
 さて、皇后の男装であるが、これについては、皇后自身が次のように述べている。

「吾、婦女(たをやめ)にして、また不肖(をさな)し。しかはあれども、暫く男(ますらを)のすがたを仮りて、あながちに雄々しきはかりごとを起さむ。」

 角髪を結って男装するという話自体は、すでに天照大神の話で語られている。これは、その焼き直しないしは引用である。天照大神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)がやってくるというので、国を奪うつもりなのだと構える。「髪を結ひて角髪とし、裳を縛(まつ)ひて袴とし」、角髪や腕に玉の飾りをつけ、背中に矢の入った靫(ゆき)を背負い、肘には鞆をつけて弓を持ち、剣の柄を握りしめ、股まで埋まってしまうほどの気合いで大地を踏みしめて弟を迎えるのである。これらの例からみるに、『日本書紀』における女の男装は、多分に儀礼的なものである。
 男装したからといって、新羅行きはべつに男装なんてしていなかった『古事記』とほとんど同じ物語で、新羅行きの船に荒魂(あらみたま)を乗せて、魚たちが船を運んでいき、新羅国の真ん中まで至り、新羅国王が驚いて朝貢を約束するというものである。ただし、ここでの荒魂は船の導き手として顕われるだけで新羅国に鎮座させてきたりはしない。皇后はただ矛を門前に立ててくるだけである。そういうわけで荒魂を持ち帰ってきてしまうのだが、天照大神のさとしがあって、「我が荒魂、皇后の近(ちかつ)くべからず」として、広田国(ひろたのくに)に祀る後日談がつく。
『古事記』に語られた物語よりもより幾分、戦らしさが加わる描写ではあるが、それでも新羅征討は、神意にしたがうものであることが強調されて、血なまぐささがない。新羅王を殺そうと言い出す者がでても、皇后は神の教えによって金銀の国を授けられているのだし、自ら帰服したものを殺してはならないとそれを許さない。
 見逃せない変更としては、『日本書紀』では、高麗、百済の二国もついでに朝貢を約束する話に展開しており、「これいわゆる三韓(みつのからくに)なり」として、新羅征討の物語から三韓征討の物語に伸張している点である。ここに新羅といっしょくたになって、高麗と百済が入ってくることに注意したい。