アメリカ音楽の新しい地図

3.ヒップホップにおけるアフロ=アジア

トランプ後のアメリカ音楽はいかなる変貌を遂げるのか――。激変するアメリカ音楽の最新事情を追い、21世紀の文化=政治の新たな地図を描き出す!

ブラック・イエローフェイス
 もともとこの音楽ジャンルにおけるアジア系の表象といえば、ウータン・クランがしばしば参照したカンフー映画をまずは思い浮かべるだろう(5)。 1981年の香港映画『少林寺武者房』(英題 Shaolin and Wu-Tang) に因んで名付けられた「一族」(clan)は、地元スタッテン島を「少林」と呼び、ヒップホップ・カルチャーをカンフーの修行になぞらえる。デビュー・アルバム《燃えよウータン》(1993)にカンフー映画のサウンドがサンプリングされていることはあまりも有名だが、彼らは1998年にDa Mystery of Kung-Fuというドキュメンタリーも製作し、自ら解説役として出演している。

Wu-Tang Clan - Da Mystery of Kung-Fu (1998)

 メンバーのRZAは1999年にジム・ジャームッシュ監督の映画『ゴーストドッグ』のサウンドトラックを担当するが、これはフォレスト・ウィテカー演じる主人公が『葉隠』を愛読するというアフロ=アジア的な設定の作品である。さらにRZAは2003年にクエンティン・タランティーノ監督『キル・ビル』の音楽を手がけ、そして2012年についにカンフー映画『アイアン・フィスト』を自ら監督し、出演するに至っている。
 こうしたカンフー映画への関心が1970年代に公開された一連のブルース・リー映画に端を発することはいうまでもないが、それがベトナム戦争を背景に白人社会への抵抗という点で黒人とアジア人の連帯を表していたことは強調すべきだろう。そしてそれは、20世紀初頭にアフリカ系アメリカ人指導者W・E・B・デュボイスが日露戦争の日本の勝利に有色人種として共感を示し、同時代の黒人コミュニティーにおいて日本が「アジアのエチオピア」と呼ばれていた歴史と無関係ではない(6)
 だが、こうしたアフリカ系によるアジア系の表象に問題がないわけではない。アメリカ研究者デボラ・エリザベス・ウェイリーは黒人ミュージシャンによるアジア系表象を分析した結果、次の四つのステレオタイプが顕著に現れていたという。1)性的対象でありながら処女性を維持する日本の芸者、2)南アジア系の美女、3)中国のカンフー武人、4)アジア系の言語を特定の意味や語源的な用法から切り離して、図像的なファッションとして利用すること(7)
 もちろんヒップホップ・カルチャーにおけるカンフー映画のレファレンスが基本的には敬意に基づいていることは明らかだが、アジア系の表象にこれほど偏りがあることは見過ごせないだろう。つまり、一連のステレオタイプは形式的には黒人によるオリエンタリズムといえるのではないだろうか──「ブラック・イエローフェイス」とも呼べるこうした表現手法の是非について、ある黒人音楽のヒット曲を事例に考察したい。
 R・ケリーの〈ソイア・ソーイング〉(2003)はビルボード誌のR&Bチャートで6位、総合チャートで13位まで上がった大ヒット曲だが、ミュージック・ビデオの冒頭に映し出される携帯電話の画面に日本語で「外からかかってきた電話/ロバートのケリー」とあるように、日本やアジアを表す記号に溢れた作品である。芸者、ヌンチャク、刀、武士、襖、そしていわゆる「つり目=スラント・アイ」など、アジア系のステレオタイプが次から次へと登場する映像は、これがもし白人ミュージシャンによるものであれば、真っ先に批判の対象になりうる作品である。

R. Kelly – “Thoia Thoing”

 ときおり黒人ミュージシャンのビデオに見られるこうした描写について、前述のウェイリーは次のようにいう。

 多くの人がこうしたオリエンタリズムの修辞を見過ごす可能性が高いのは、ミュージシャンの黒人性が東洋への文化的なフリーパスを──それもひとつの周縁化されたグループから別の周縁化されたグループへのとくに害のない文化的借用にみえるかたちで──提供しているかのようにみえるからである。黒人ミュージシャンによるイエローフェイスは、アジア人とアジア系アメリカ人を永続的な外国人として格下げする権力関係に間接的に貢献してしまう(8)

 アフリカ系とアジア系というマイノリティー間の文化的相互交渉が、マジョリティーのオリエンタリズムを強化してしまうという指摘は示唆に富むといえるだろう。
 一方、ドイツの大学でアメリカ文化を講じるキャシー・コヴェル・ワグナーのように、実際にこのビデオをアジア系、アフリカ系の若者に見せたところ、特に侮蔑的には感じられないとする意見が多数を占めたと主張する論者もいる。ワグナーは、歴史的に肌の白い黒人やマルチレイシャルな人物が試みてきた「白人として生きる=パッシング」というアメリカ文化史上の概念を援用しつつ、R・ケリーのビデオに代表されるこうしたブラック・イエローフェイスを「ポストモダン・パッシング」として戦略的に肯定する。

 エンタテインメント消費を目的とする流動的なポストモダン・パッシングという広義の文脈において、私はあえて次のような仮説を提示したい。すなわち、洗練された(冷めた?)若い視聴者にとってケリーと黒人の芸者ガールのパフォーマンスは決して侮蔑的には映らない、なぜなら彼らは、CDの売り上げが示すようにその完璧なパフォーマンスを確実に楽しみながら、ケリーの誇張されたステレオタイプを十分にアイロニカルな距離を取って眺めているからである(9)

 理論的にいえば、アメリカ合衆国のアフリカ系とアジア系の間には明白な権力関係は存在せず、そこに差別構造を見いだすことは難しい。すなわち、マイノリティー間のステレオタイプ消費はワグナーがいうように「ポストモダン・パッシング」の事例として許容される余地はある。とはいえ、冒頭のアカデミー賞のエピソードが示すように、アメリカ社会は全体としてこうした表現に対して厳しい姿勢をとるようになっているといえるだろう。その最大の理由は、アジア系の人々が(従来の「おとなしい」というステレオタイプを覆して)はっきりと抗議の声を上げるようになったからだが、マジョリティー/マイノリティーの関係にかかわらず表現そのものが批判的に検証される傾向はトランプ政権成立後も衰える気配はない。いずれにしても、ヒップホップとカンフー映画というアフロ=アジア間の文化交渉に潜む表象の諸問題については今後も議論を追う必要があるだろう。


 
(5)ヒップホップにおけるカンフー映画の影響については拙論「「像を打て、敵は倒れる」──ブルース・リー、ヒップホップ、そしてアジア系の表象」『現代思想』第41巻第13号(2013年10月臨時増刊号)青土社、130-139頁を参照のこと。
(6)Prashad, Everybody was Kung-Fu Fighting, 30, 126.
(7)Whaley, Deborah Elizabeth, “Black Bodies/Yellow Masks: The Orientalist Aesthetic in Hip-Hop and Black Visual Culture,” Raphael-Hernandez and Shannon Steen eds., Afroasian Encounters: Culture, History, Politics. New York: New York University Press, 2006, 191.
(8)Whaley, “Black Bodies/Yellow Masks,” 194.
(9)Waegner, Cathy Covell, “Performing Postmodernist Passing, Nikki S. Lee, Tuff, and Ghost Dog in Yellowface/Blackface,” Raphael-Hernandez and Shannon Steen eds., Afroasian Encounters: Culture, History, Politics. New York: New York University Press, 2006, 229-230.

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