アメリカ音楽の新しい地図

3.ヒップホップにおけるアフロ=アジア

トランプ後のアメリカ音楽はいかなる変貌を遂げるのか――。激変するアメリカ音楽の最新事情を追い、21世紀の文化=政治の新たな地図を描き出す!

ヒップホップとゲーム音楽
 ヒップホップにおけるアジア文化の浸透という点で昨今もっとも注目されるのは、日本のゲーム音楽の影響である。それはアメリカのジャーナリズムやアカデミズムの領域で日本のゲーム音楽が再評価されていることと無関係ではない。2014年にレッドブル・ミュージック・アカデミーが六話に及ぶ日本のゲーム音楽のドキュメンタリー・シリーズ『ディギン・イン・ザ・カーツ』を公開し、同じ年にはアメリカ市場におけるセガと任天堂の壮絶な争いを描いたノンフィクション『セガvs.任天堂──ゲームの未来を変えた覇権戦争』が多くのメディアでベスト・ブック賞を受賞した。さらに翌年には、アンドリュー・シャートマンによる『近藤浩治「スーパーマリオブラザーズ」サウンドトラック』がポピュラー音楽研究叢書として定評のあるブルームズベリー・アカデミック社の33 1/3シリーズから刊行された(10)
 もちろん、ヒップホップはDJジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンスの〈ヒューマン・ビデオ・ゲーム〉(1988)が示すように初期の段階からゲーム音楽を参照し続けてきたが、こうした音楽のサンプリングが明らかに増えるのは2000年代半ば以降である。『スーパーマリオブラザーズ』のテーマ曲をそのまま下敷きにしたサイゴン〈ゲット・ビジー〉(2010)や『キングダムハーツⅡ』のラストバトル時に流れる曲をサンプリングしたJコールの〈ダラー・アンド・ア・ドリーム〉(2012)も忘れがたいが、ゲーム音楽を積極的にプロダクションに取り入れることで知られるMCのひとりがウィズ・カリファだろう。『クロノ・トリガー』の〈サラのテーマ〉をサンプリングした〈ネヴァー・ビーン〉(2010)などは、ヒップホップと日本のゲーム音楽のもっとも幸福な邂逅の事例だといえる。

Schala's Theme - Chrono Trigger Music Extended
 
Wiz Khalifa – “Never Been” (official video) 0:46から

 だが前節の議論を敷衍するならば、ヒップホップというジャンルにおける日本のゲーム音楽の借用はテクノオリエンタリズムの一形態だと見做すことも可能である。メディア研究者デヴィッド・モーリーとケヴィン・ロビンズが著書『アイデンティティーの空間』(1995)のなかで創出したテクノオリエンタリズムという概念は、1980年代後半から90年代にかけて日本が西洋社会の脅威になりつつあった時代を前提とする。歴史的にエキゾティシズムの対象であり続けた日本の経済的繁栄を技術的な要因で説明することで、テクノロジー自体がオリエンタリズムの対象として認識されたのだ(ちなみにモーリーとロビンズが日本のテクノロジーの進化について論じる際に依拠するのが盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言えるニッポン』なのだが、この二人ほど日本的美意識とテクノロジー信仰の融合を体現する論客はいないだろう)。 
 もちろん、モーリーとロビンズはテクノオリエンタリズムが内包する人種差別的な意味にも自覚的である。日本とテクノロジーの結びつきには「冷たく、非人間的で、機械的な」イメージがつきまとい、それは従来の「感情が欠落した、あるいは感情を押し殺す」日本人のステレオタイプとも接続されることで、どこか「人に非ざる=inhuman」イメージを喚起する。最終的にそれは「エイリアンでありサイボーグでありレプリカント」としての日本人というイメージに結実するだろう(11)
  翻って、ほぼ同じ時期に黒人文化の未来・テクノロジー志向を評する概念が産み出されているのは注目に値する。白人批評家マーク・デリーが黒人SF作家の想像力、とりわけその宇宙/未来/テクノロジー表象をアフロ・フューチャリズムと名付けたのが1993年であり、そこで彼は、アフリカ系アメリカ人こそが「宇宙人/よそ者によって誘拐されたもの(alien abductees)の子孫」であり「サイエンス・フィクション的な悪夢を生きる」存在であると主張する。また、アメリカ研究者でヒップホップ研究のパイオニア、トリーシャ・ローズはこの音楽ジャンルにおけるクラフトワークの影響について尋ねられた際に、アフロ・フューチャリズムの議論を念頭に「ロボット」としてのアフリカ系アメリカ人の歴史に言及する。黒人は資本主義下において「ロボット」と見なされていたのであり、だからこそ「ロボットであることと戯れる」ことが可能になると彼女はいう。
 黒人文化とテクノロジーの親和性については、R&Bにおけるヴォコーダーの効果を論じたアレクサンダー・G・ワヒリイェの議論が参考になる。ジョデシの1993年のヒット曲〈フィーニン〉において、コーラスの「フィーニン」という部分のみロボ声で歌われていることに注目するワヒリイェは、feeninという造語がfiend(中毒者)に由来することを根拠に、ここに薬物中毒者の欲望の「自動化」と「機械化」を読み取っている。アフロ・フューチャリズムの論客としても知られるワヒリイェは、人間の「欲望」は機械化されうるとして、次のように論じている。

この「感覚=中毒=フィーニン」は首尾一貫した主体のパラメータを徹底的に溶解させてしまう。そのことによって人間の──あまりに人間的な──欲望は機械の装いによってのみ表象されうるようになり、こうして人間はさまざまな情報技術とほどきがたく絡み合ってしまうのである(12)

 ワヒリイェの論文は2002年に発表されたものだが、この議論は2000年代半ばのオート・チューンの爆発的な流行についても当てはまるだろう。カニエ・ウェストは《808&ハートブレイク》(2008)でオート・チューンを全面的に採用しているが、それは母親を亡くし、婚約者とも別れた状態で制作されたアルバムであった。極限的な悲しみや喪失感は機械によってのみ伝達することができる──カニエ・ウェストのアフロ・フューチャリズムは欲望とテクノロジーをめぐる(不)可能性を奏でるのだ。
 そして2017年、アフロ=アジア的なテクノロジー表象をシンボリックに体現する作品が発表された。アトランタを代表するヒップホップ・デュオ、アウトキャストの一員ビッグ・ボーイがリリースした〈キル・ジル〉のカバーには、血の涙を流す着物姿の女性が描かれていた。クエンティン・タランティーノの作品名を彷彿とさせる曲のミュージック・ビデオも東洋のステレオタイプに満ち満ちており、ヒップホップ/R&BにおけるオリエンタリズムがR・ケリーの〈ソイヤ・ソーイング〉のころからほとんど変化していないことを雄弁に物語っている。だがなにより興味深いのは、〈キル・ジル〉のトラックが初音ミクをサンプリングしていたことだろう。TLCの大ヒット曲〈ウォーターフォールズ〉(1995)を制作したことで知られるアトランタのプロダクション・ユニット、オーガナイズド・ノイズは、この曲でAura Qualic.という日本人作曲家の初音ミクの曲を全面的に採用しているのだ。

Aura Qualic DATA 2.0 Hatsune Miku (サンプリングは2:03から)
 
Big Boi “Kill Jill” ft. Killer Mike, Jeezy


 〈キル・ジル〉はアフロ=ジャパニーズなテクノロジー表象をめぐる最新の事例だといえる。アフリカ系アメリカ人と日本人が共有するアティテュード──それをテクノロジーに対する従順さと呼んでもいいし、ヴァルネラビリティーと称してもいい──は欲望の機械化を促すことで特異な感情(エモーション)を生成する。これまで見てきたように、アフロ=アジアな想像力には人種・民族的なエキゾティシズムが不可避的に絡み合っているが、その「遠さ=エキゾティシズム」と「近さ=感傷(センチメント)」の距離を操作することで──ちなみに昨年以来ヒップホップのジャンルで流行しているフルートのサウンドも、DJキャレドによるサンタナのサンプリングもエキゾティシズムの創出と関わっている──ある種のエモーション=エモさが生まれるのであり、それこそがアフロ=ジャパニーズ・フューチャリズムとでも呼ぶべきユニークな美意識を形づくるのである。

 

(10)Diggin' in the Carts, Red Bull Music Academy, 2014, 
http://daily.redbullmusicacademy.com/2014/10/diggin-in-the-carts-series; Harris, Blake J. Console Wars: Sega, Nintendo, and the Battle That Defined a Generation. New York: HarperCollins, 2014.(仲達志訳『セガvs.任天堂──ゲームの未来を変えた覇権戦争』早川書房、2017年); Schartmann, Andrew, Koji Kondo’s Super Mario Bros. Soundtrack (33 1/3) London: Bloomsbury Academic, 2015.
(11)David Morley and Kevin Robins, Spaces of Identity: Global Media, Electronic Landscapes, and Cultural Boundaries (London: Routledge, 1995), 170.
(12)Alexander G. Weheliye, “’Feenin’: Posthuman Voices in Contemporary Black Popular Music,” Social Text 71 20.2 (Summer 2002): 39.

 

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