世の中ラボ

【第88回】政治家の回顧録でわかる「二〇年前のツケ」

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2017年8月号より転載。

 共謀罪法(テロ等準備罪を新設する組織犯罪処罰法改正案)をめぐる乱暴な審議と採決。森友学園問題や加計学園問題における不誠実な対応。数え切れないほどの政治家の失言や暴言。
 それやこれやで、七月二日の東京都議選では自民党が大敗。安倍晋三内閣の支持率もついに下がりはじめた。とはいえ、数を頼んだ「安倍一強」の体制がそう簡単にゆらぐとも思えない。
 いまさらながら、なぜこんなことになったのか。
 ターニングポイントとして多くの人が指摘するのは「小選挙区制の導入」である。また第二次安倍内閣で安全保障政策が大転換した元をたどると、湾岸戦争時に多大な資金を提供したのに国際的に評価されなかったという「湾岸トラウマ」に行き着くように思われる。いずれも九〇年代のトピックである。思い返せば、五五年体制の崩壊を含む九〇年代の政治状況も、十分ゴタゴタしていたんですよね。それでも、いまよりはマシだったのか。それとも、そもそものボタンのかけちがいはこの頃にはじまったのか。
 じつは最近、仕事がらみで政治家の回顧録をまとめて読む機会があったのだけど、予想に反して、これがけっこうおもしろかったのだ。というわけで今回は九〇年代の検証。当時、政府の中枢にいた政治家たちの本(本音?)を紹介してみたい。

九条にこだわった海部首相
 最初の一冊はこれ、『海部俊樹回想録――われをもっていにしえとなす』である。海部内閣(八九年八月一〇日~九一年一一月五日)を語る上で欠かせないのは湾岸戦争時の対応だろう。
 九〇年八月、イラク軍がクウェートに侵攻。翌九一年一月、多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争が勃発。九〇年八月一四日、ブッシュ大統領から総理官邸に二度目の電話が入った。
〈最初の電話では、クウェートに侵攻したイラクへの経済制裁を求められた。次の要求はさらに厳しいものだった。「英国、フランス、オランダ、オーストラリアは海軍の派遣に合意してくれている。日本は機雷の掃海や装備の輸送を考えてもらえないか」/私は、即座にこう応じた。「憲法の制約があるので、軍事分野に直接参加することは考えられない。(米国を中心とする)多国籍軍への参加はできない」〉。おおー、ちゃんとしてるじゃん。
 しかし、彼は米国の要求と国内世論の板挟みにあった。米国から多国籍軍への資金援助を再三催促され、その額は膨らみ続けるし、野党は「戦争に金を出すべきではない」と反対する。九条の制約の中で、目に見える貢献をと迫る米国に対応するため、彼は医師団の派遣や民間機による輸送を画策したが、危険地帯に人は出せないと断られる。せめて自身も創設にかかわった海外青年協力隊の派遣をとも考えたが、これも実現しなかった。
〈食事や寝泊まりまで全て賄える「自己完結力」がなければ現地では必要とされないという、厳しい現実があった。やはり、自衛隊しか派遣できないということだ〉。
 かくして彼は悩んだ末に、九一年四月、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾の機雷除去に派遣することを決断するのである。自衛隊が国外で活動する、これが史上初のケースとなった。
 このときは相当憤慨したけれど、九条の縛りが当時はそれほど強かったのだということは特筆に値しよう。事実、PKO法案も激しい反対にあって廃案になった(次の宮沢喜一内閣で成立)。「自衛隊を海外に出す千載一遇のチャンスだ」というタカ派(中曽根康弘、橋本龍太郎、小沢一郎ら)の声を海部は不穏当と断じ、クウェートに感謝されたのだから「湾岸トラウマ」も不必要だといいきる。
〈国際的な評価を得るために、自衛隊を戦地に出そうというような軽々しい姿勢でいいのか。日本は悲惨な戦争を二度と起こさないという決意で憲法九条をつくり、私自身、それを守っていかなきゃならんと思い込んでやってきた。挑発に乗ってはいけない〉。
 そうだよね。(二〇〇四年に小泉首相が陸上自衛隊をイラクに派遣するまでは、)これが普通の感覚だったのよね。
 さて、九〇年代政治のさらにもうひとつのトピックを思い出してみたい。細川護煕政権(九三年八月九日~九四年四月二八日)と、村山富市政権(九四年六月三〇日~九六年一月一一日)である。
 新生党を立ち上げた小沢一郎が中心となって成立した非自民八党(七党一会派)連立細川内閣。自民党、社会党、新党さきがけの三党が連立を組んだ村山内閣。どっちもどっちな気もするものの、仰天度は「自社さ」のほうが高かったのではないか。政権を奪取するためなら、自民党は宿敵とも組むのか。なんという無節操。
 しかし、自社さ政権は、いま思えば奇跡のような中道リベラル政権だったのだ。まず自民党総裁がリベラリスト河野洋平だった。武村正義ひきいる新党さきがけは、自民党を離党したリベラルな政治家たち(田中秀征、園田博之、鳩山由紀夫ら)の集団だった。社会党との相性は存外悪くなかったのである(ちなみに海部はこのとき社会党なんかと組めるかと怒って自民党を離党、旧連立与党の候補者として首相指名選に立ったが、僅差で村山に敗れた)。
『野中広務回顧録』『村山富市回顧録』を読むと、彼らはむしろ細川政権に懐疑的だったことがわかる。
 野中はいう。〈細川さんが総理になったときから、まずいなあ、と僕は思っていたからね。というのは、この人は飾り物にされている、本当のお殿様が座らされただけで、実権は小沢さんらが握って、操っておるんだから〉。一方の村山は、細川政権が短期間で終わった理由は〈七党一会派が政権を構成しているのだから政権運営にかなり神経を使わなければならないのに、それがうまくできなかったことが大きい〉と述べている。およそ民主的な運営ではなく、細川政権では社会党が一番大きい政党だったにもかかわらず、政策決定の場から外されていたのだと。
 さらに二人は、(小沢一郎が音頭をとる)細川内閣が熱心に推進して成立させた小選挙区制にも反対だった。
〈小選挙区になれば、五一が生き残り、四九がつぶされる。そうすると、中選挙区のようにそれぞれ多様な国民の意思が反映されない。(略)民主主義の議会を構成するのに、そんな制度で民意が封殺されるのはよくない〉〈しかも世襲制度をより長く、強くしていく。そう思いましたね〉と野中はいい、〈小選挙区制は社会党には不利だということも分かっていたから党内は反対が強かった〉と村山は述懐する。しかし、小選挙区制に反対する勢力には「守旧派」のレッテルが貼られ、マスコミもそれに同調した。そして九三年七月の総選挙後、〈社会党は細川政権に参画する前提として「小選挙区」を呑まされた〉あげく、〈できるだけ比例代表の定数を増やすことが目標となった〉のである。

活発な意見交換があった自社さ政権
 それやこれやで、さきがけと社会党は旧連立を離脱。六〇日あまりで退陣した羽田孜内閣の後、まさかの自社さ政権が誕生するのだが、野中と村山が口を揃えるのは、三党の良好な関係である。
 閣議や閣僚懇談会の雰囲気はどうだったかという質問に答えて野中はいう。〈それはものすごく活発だった。いまはほとんどないというけれど、このときぐらい活発だったときはない。閣議は形式的なものですが、閣僚懇談会に長い時間がかかったのは、それほど閣僚が好きなことを言い合えるからです〉。
 そして村山はいう。〈数で決めれば自民党優先になってしまう。何でも自民党のいう通りになる。しかしそうはいかない。連立政権なのであって自民党単独政権じゃあないんだから、自民党がおとなしくなるのは当然だろう〉。自民党には野党時代の悲哀を味わいたくないという感覚が強かったとしても〈全体としては社会党に対して非常に好意的に協力してくれたことは間違いない〉。
 その成果が「村山談話」であり、水俣病未認定患者救済問題の決着であり、被爆者援護法の制定であり、地方分権推進法の制定であり、「アジア女性基金」の制定だった。
 もちろん次の橋本龍太郎政権の退陣後、自社さは連立を解消、自民党は自由党や公明党と組んでいわば「保守回帰」するのだから、社会党は利用されただけともいえる。しかし、今日の自公政権がイエスマンの集合であることを考えるとき、自社さ政権に議論の気風があったことは特筆しておくべきだろう。
『村山富市回顧録』で興味深いのは、むしろ当時の社会党の混迷ぶりである。社会民主主義と労働組合は継承すべきだとする村山ら左派と、旧来の路線は捨てて新党をつくるべきだと主張する山花貞夫、横路孝弘ら右派との対立で、党は二分。社会党議員の多くは新党問題で頭がいっぱいで〈政権与党であるとか責任ある立場だということは、やっぱり残念ながらあまり意識してなかったな〉(村山)。「与党になったために思うようにものが言えない」「野党時代の方がよかった」という議員もいたというから、何をかいわんや。
 一強多弱といわれる現在の政治と比べると、九〇年代の政治はまだしも健全で人間的に思える。だけど、忘れちゃいけない。そんな九〇年代の政治家によって、小選挙区制は導入されたのだ。安倍政権の製造責任が、反安倍を標榜する人々(小沢一郎を筆頭とする政治家も、それに乗ったメディアも有権者も)にこそあるという皮肉。野党の衰退や労組の凋落も、もとをただせば社会党の内紛と無関係ではあるまい。私たちはつまり、二十数年前のツケをいま払わされているともいえるのだ。ということは、現在のツケが回るのは二〇年後の人々かもしれない。その責任を私たちはとれるだろうか。だからね、やっぱり変な法律を通しちゃったらダメなのよ。

【この記事で紹介された本】

『海部俊樹回想録――われをもっていにしえとなす』
垣見洋樹編、人間社、2015年、1400円+税

海部俊樹は一九三一年、名古屋市生まれ。地元衆院議員の秘書を経て、六〇年、二九歳で衆院選に初当選。文部大臣などを経て、八九年、宇野宗佑内閣の後を受けて首相に就任。退陣後は自民党を離党し(後に復党)、複数の党を渡り歩く。〇九年、落選を機に政界を引退。自らの戦争体験から〈「九条」を守ろうと自然に思った〉など、湾岸戦争時の首相として苦悩した日々が率直に語られている。

『聞き書 野中広務回顧録』
御厨貴+牧原出編、岩波書店、2012年 2800円+税

野中広務は一九二五年、京都府生まれ。園部町議、園部町長、京都府議、副知事を経て八三年、五七歳で衆院選に初当選。自治大臣、官房長官、自民党幹事長などを歴任。村山、橋本、小渕、森内閣を裏から支え、〇三年に政界引退。村山談話を〈戦後五十年という節目に村山富市という総理を生み出したのは(略)「天の配剤」だったと思う〉と評価するなど、政治家を語る言葉もおもしろい。

『村山富市回顧録』
薬師寺克行編、岩波書店、2012年、2700円+税

村山富市は一九二四年、大分県生まれ。大分市議、大分県議などを経て七二年、四八歳で衆院議員に初当選。九三年、社会党委員長に就任。九四年、首相に就任。退陣後の九六年、社民党の初代党首となる。自衛隊や日米安保に関する政策転換について〈九五年はいいチャンスだと思った〉と語るなどの意外な本音のほか、党を望ましい形で脱皮させられなかったことへの反省の弁が印象的。

PR誌「ちくま」8月号

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